十二月二十四日 金曜日 午後五時二十分 撒き散らかす疑念
太陽はほとんど見えない。校舎の一番上についている時計を見るともう五時二十分だった。
手首がかゆくなり、視線を落とした。手首の傷は薄い膜が張って血は止まってるけど、ちょっとの衝撃でまた出血しかねなさそう。
對崎はいったいこの傷に何をしたのだろう? 今までの治癒力に頼りきって、普通の治癒力を忘れてるから治りが遅く見えるのかも。そうじゃなかったら、狂狼人は皮膚とかに細菌を纏っていて、その細菌が傷に入り込んだかだ。
狂狼人の血には何かしらある。それが治癒を遅らせてるとは思えない。少なくとも出血は止まらなければ、失血死にいたるから。超人的な能力の所為で傷を負う事無く戦えるとしたら、治癒力が退化していてもたぶん可笑しくないけど……。仲間内での喧嘩が起きたら、矛と矛の戦いでお互いに傷を負う事になるだろう。そしたら、傷を治すのは何なのだろう?
そういや、足の肉を食いちぎったのにびくともしなかった。身体が丈夫すぎるんだ。痛みを感じる器官がないとは思えない。傷をそんな簡単に負わないとしたら、治癒力も普通以下でもいいのかもしれない。
あの對崎が咲羅を治癒した力は全員が使えるものだろうか? あれが全員に使えるとしても、その力は無限じゃないはず。体力か何かを消耗するはず。自分の傷は治せないかもしれない。でも、あれとは別に身体には治癒力がちゃんと備わってるはず。
對崎が咲羅を治癒させたのは予想外のバーコウィッツの攻撃だったからに違いない。それぐらいの良心か何かは持ってると思いたいが、もう部長ではない。狂狼人と言う名の殺人鬼だ。
あの握手は過去の對崎――総合環境部部長との別れだったに違いない。あれで決別した。
もう、敵同士。私が仲間になると言えば、敵ではなくなるかもしれないが、それはありえない。
あの狂狼人たちを統制してるのは對崎。バーコウィッツは持て余されてる。残りの四人は従ってるはずだ。唯一の女性はどこかで見た事ある気がする……。今は痩せこけて美白とは言えない青白さだったが、普通の人間に変換したらどこかで見た。あとは、チビの子供が一人に年長の男、腕に奇妙な傷のある男の合計六人。でも、全員ってわけじゃないかもしれない。数がちょうど来るなんて、可笑しい。たまたまの可能性もあるかもしれないが、どうも違う気がする。もう何人か何十人かいるはず。狂狼人の身体能力は並の人間よりも遥かに上なら、三人ぐらいで来てもどうにかなるはず。飛び道具の銃は予想外なのかも。もしかしたら、私の狂狼人が暴走しだすと考えたのだろうか? ただ、用心に用心を重ねてるのかもしれない。
三輪っちたちに来てもらったら、またしても人質にとられるかもしれない。それに戦う事だけがすべての目的じゃない。ハッと思いついた。長い目で見れば生き残り、生き続けるのも一つの目的だ。この状態が続くならだが、私は少なくとも今はまだ戦うしかない。
わたしは對崎と戦う事が今いる意味だと思う。對崎たちを殺せば、終わる気がするし、何か引き付けられるものがある。良いものか悪いものかはわからないが。
人狼を操っているのも彼らだろう。人狼はどうやって産まれたんだろうか。彼らと関係してるのはわかった。あの目を見れば一目瞭然。もしかしたら、科学で作られたのかも。狂狼人の特別な血から。それぐらいの科学技術があれば、「ブラッディアウト」も起こさせる事が出来るのかも。
[実際にやったのは俺じゃないけど――]
たった一つ確実に言えるのは、実際にしたのは對崎じゃないと言う事だけ。やったのは他の五人であるかもしれない。だけど、あれほど大きな事をするなら、何か巨大なものだろう。機械か何かだろうか? もしかしたら、地球のプレートに穴を開けたとか大規模な事かもしれない。
いつもは忌々しいのに、今ほどケータイが欲しいと思った事はない。對崎の電話番号は知っていた。当番の時、水禽舎の鍵を取りに行って入れ違いになった時に電話が入った。その時は悪戯電話の類かと思ったが、出てみると最初は誰かわからなかったが、わかった瞬間倒れるかと思ったほどだった。だけど、その番号を覚えているはずもない。
むしゃくしゃと髪の毛を掻き毟った。どうにも出来ない。だけど、何かあって咲羅たちが殺されるような真似は絶対にさせられない。
どうするべきかわからなかった。對崎がどこにいるのかわからない。三輪っちたにちも連絡が取れない。
一度、家に帰って考えるべきだろうか? 私の家をあいつは知ってる。だとしたら、家に行くべきだろうか? 自信を持ってそうすべきだとは思わなかったけど、家に帰える事にした。
意識した時には玄関の前だった。なんとなく、学校から帰ってきたのは覚えてる。まるで長年の習慣のように目をつぶっていてもそれが出来るかのように。どうやって――当然徒歩だろうけど――帰ってきたのかわからない。
自宅のはずなのにどうしてか他人の家の気がした。ほとんど真っ暗な家の中に足を踏み入れた。靴を脱ぎ、靴箱に刀を立てかけ、リュックを投げ捨てた。いつもは怖がる光のない階段の上や和室の仏壇の薄明かりがまったく気にならなかった。リビングの電気をつけ、全体を見渡した。だけど、何も変化がない。矢坂と咲羅と結がいた時のまんまだ。
いつも学校から帰ってきた時のように、手を洗うために洗面所に向かい、制服を脱いでかけるためにクローゼットへと順番に行ってみた。だけど、何の変わりもなかった。
時々、帰宅して誰もいない時にダイニングテーブルの上を見るように私は目を向けた。たまに祖母が行き先を知らせるメモが残っている。
あるはずのないメモがあった。だけど、いつもどおりのメモじゃないはず。メモ用紙の隣には、黒の革表紙のノートがあった。古くて埃っぽいそれを手に取った。
私はノートから目を離し、メモを見た。メモには綺麗な文字で「読め」とだけ書いてあった。
私はメモの指示通り読もうとノートの表紙を開いたが、読む気にはなれなかった。その間に咲羅たちが殺されたら? これを読んでさらに酷い事になったら?
一ページ目だけを読む事にした。日付が書いてあり、一行下にこれは二冊目だと伝える文があり、次の行からは本文が始まっていた。
『つぐみが生まれ、一ヶ月になるが――』
これは私の親族の日記だろう。文字にも見覚えがあった。私は二階に駆け上がり、母の部屋のクローゼットの奥にあるアルバムを取り出した。赤い表紙で金の模様が画かれているが、日に焼けて模様が少しはがれている。
それを開くと生後二、三日の私の写真が真ん中にあって、下には「つぐみ」と書かれている。母の話が本当なら、手書きの私の名前は亡き父が書いたものだ。日記の文字と比べてみると、「つ」のカーブや「ぐ」の濁点のバランス、「み」の曲線の部分などが同じだ。
父の事は電気会社務めで、長身、絵が好き、最後に食べたのはカレーとしか聞いていない。日記はその父を知れるチャンスだと思うが、今現在の事が落ち着いた後でも終わった後でも知れるはずだ。読んでる暇はない。ざっと見てみるが「狂狼人」なんて単語は一つもない。
日記を置いて私は服を脱いで、クローゼットから適当に服を引っ張り出して着た。血にまみれてたズボンも脱いで、新しいズボンを穿いた。
日記とアルバムを抱えたまま、一階に戻った。ダイニングテーブルの上に置いた。
誰かがこの家に入り、父の日記を置いていった。この家のどこかに日記があった可能性は低い。七年前ほどに引っ越してきたから。誰かが日記を持ってきたに違いない。でも、誰だろう? 父の知り合いは知らない。もしも狂狼人の誰かがこの日記を持ってきたとしたら? 何か知らせたい事があるのだろうか? それなら、話し合った時に對崎が言えばいい事。もしかしたら、對崎以外の誰かで對崎は知らなかったのかもしれない。バーコウィッツの罠だという可能性は大いにある。かなり卑劣な罠だとしたら、読まないほうがいい。
私はメモの指示を完全無視する事にした。
高校に行こう。いきなり思いついた。総環の部室に誰かいるか何かしらあるかもしれない。永岡さんがわかったなら、高校に狂狼人に関する何かがあるはずだ。
何もなかったら、帰ってこよう。明日絶対に見つける。對崎を、咲羅たちを。
電話の横の鉛筆立てからボールペンを取り出し、メモを裏返した。[2010年12月24日:ブラッディアウトが起こった。]私は手早く書いた。字の汚さなど気にしない。
たぶん、帰ってきたら疲れていてすぐに寝てしまうだろう。それもかなり長時間寝てしまいそう。今も気を抜いたら眠気が襲ってきそうだ。そうやって寝てしまって明日起きたら、今日の証拠がなければ夢だと思ってしまう。時々、まどろんでいると夢と現実の区別がつかなくなる。
アルバムを置いてあるテーブルの椅子に座り、頬杖をついた。
今まさに家族が戻ってきたとしても、この椅子に座る資格は私にはない。
もう私は半分狂狼人。母がこの場所にいたら、自分の子には変わりないと言ってくれる自信はない。母はあまり干渉してこない。私が不登校になっても、最初は部屋から引きずり出そうとした。しばらくして、ただ見守る事しかしなかった。それは私が反発をしないよい対処法だったのかもしれないが。だから、この事にもノータッチかもしれない。
ここにいてもあまりいい思いはしないと、私は家を出ようと思った。
身支度もなんだか可笑しいけど、気合が入りそうだし、鬱陶しい髪を結う事にした。
洗面所まで行くと鏡を覗いた。いつもの自分の顔がある。ちょっとやつれてるけど、いつもよりはどこかマシに見えた。
だけど、いつもどおりに目が虚ろだった。私の目は虚ろに見えるか、殺人者の目に見えるかのどちらかだ。ずっと前に咲羅に言われた事があった。ボーっとして全体を見てると目がうつろになってると。意識して目の前のものを見れば、そうでもないらしいが、自分ではどうもわからなかった。
今まさに虚ろだ。いつもの事だが、どうしてか見るのが久しぶりな気がした。少し意識すれば、自分の目が生き生きしてるようにも見える。自分の目なのに不思議な感じがした。
二、三度瞬きしてから私は自分の頬を叩いて、髪をまとめた。左手首の血が染み込んだ髪ゴムでポニーテールに結う。後頭部のかなり下の位置だが、それが髪をくくる限界だった。四、五年前に髪をいじりたおされたきり、私は髪を自然なままにした。寝癖は治したが結りした事はあれ以来ない。
髪を結うのに伴う少し幸せな記憶が蘇るが、それすらももう命取りかもしれない。人狼が再び動き出していたとしたら、一人で切り倒さなければならない。ちょっとの事が命取りになる。隙を見せたら、すでに喉は血だらけのはず。
廊下に投げ捨てていたリュックのポケットから写真を取り出した。家族五人が写ってる。父の顔に馴染みはない。父と似ているのは眉ぐらいだが、母の顔にも私の顔は似ていない。その写真をアルバムの上に置いた。
外は寒いと思ってクローゼットから黒いコートを取り出し、玄関前に投げた。コートを羽織って、リュックから取り出した帽子を被る。
いったんリビングに戻った。二段目のアクセサリー入れにしている瓶から、咲羅とお揃いの笛のネックレスを選び取る。万が一、咲羅たちが逃げ出してたら、この笛の音でわかってくれるはず。敵に知られる事にもなるだろうけど。
慌てて瓶を戻した所為で絶妙なバランスで積まれている小物の雪崩が起きてしまった。その中にあったピンポンボールが目に入った。悪戯で目を描いたものだ。ハロウィーンにいとこを驚かしたきり使った覚えがない。ふと思いついた自分の馬鹿げた考えに思わず笑ってしまい、コートのポケットに入れる。
玄関に再び向かい、立てかけてあった刀を持つ。靴を履いて、フックから家の鍵をとる。家を出て、いつものように家の玄関の錠を閉めた。ポケットに鍵をしまって、コートのジッパーを引き上げる。夜になろうとする寒さは骨の髄まで凍えそうになる。悴みそうな手で刀を握る。カイロを持ってこればよかったと思う自分に苦笑してしまう。
徒歩で高校に行く事にした。時間はかなりかかるが、何か思いつくはず。對崎がいるところとか……。




