十二月二十四日 金曜日 午後四時五十三分 血を見知る先輩
「永岡日香里」
私は手首からパッと對崎に視線を移してしまう。どうして、對崎は知ってるのだろう。いくら部活連盟の会長だからって一人ひとりの名前まで知らないはずだ。彼女に何かあったのだろうか? あの時、無理にでも一緒にいたほうがよかった。
「彼女は俺らの正体にいち早く気づいた」
私は動揺を隠せなかった。学校に残ると言った時には気づいていたのだろうか? すでにずっと前から、「ブラッディアウト」が起こる前から知っていたのだろうか?
「ど、どうして……」
「彼女は憧れていたからさ。死ぬほどな」
その言葉が不気味に響いた。
永岡さんがそういう歪んだものとか好きだったのは覚えてる。私も少しそうだったから。でも、私なら狂狼人が創作上のものだとしたら憧れたに違いない。でも、彼女は現実だったとしても死ぬほど憧れていた……死ぬほど。
「……殺したんですか?」私は震える声でたずねた。
「ああ、彼女はただ憧れてただけ。なれる素質も何もなかった。信じ込んでるだけだ。誰にでも猟奇的なものを好む事はあっても可笑しくはない事だから」
まるで昔の笑い話でも聞かせるような口ぶりだった。教卓の上で胡坐を掻いて、天井を見上げた。
素質は殺しの迷い。その境界線をわからなくさせ、何かしらが完全に消してしまう。それが彼女にはなかった。彼女が普通なのに、まるで異常な事のように。
「君が上位なのは、生まれながらにしてそういう素質があった。その素質に狂狼人になれる素質が重なった」
運動能力的な事だったら、私は素質なんか持っちゃいない。森の中を走るのが好きとか、人間より動物が好きとかだったらあるのは間違いない。狂狼人の元祖は森に住んでいたのだろうか?
でも、それだけで誰も彼も狂狼人になったら、犯罪者の半分はそうだったとしても可笑しくない。對崎は誰かを殺したのに捕まりもニュースにすらならなかった。殺してないはずがない。現に永岡を殺した。虚言だとは思えない。「ブラッディアウト」が起こる以前にも殺してるはずだ。それに、警察も對崎を疑ったりしてないはず。誰かが殺された事すら知らないかも。だとしたら、知られてる犯罪者の中に狂狼人がいる確立は低い。いくら殺しに快楽を見出している者であっても。
痕跡を残さずに殺しを行う。相手にも邪魔されないはず。だから、殺しを楽しめる。あえて、痕跡も残せるから。
そういう、身体能力の向上は何かしら体に宿ってるはずだ。腕からの放電もそう。人間の器に人間と違う何かが入ってる。物理的な何か。生物学的にまったく違うもの。
「狂狼人って殺しが好きなだけでなれるものじゃないですよね?」
永岡さんは殺しを好きじゃなかったはず。血は好きだろうけど。
「そうだ。君は殺しを俺たちほど好んでないだろけどね」
對崎は私の手首を掴んだ。もう一度馬鹿げたマネをされると思って、私は足を振り上げ蹴り飛ばそうとしたが、踵で膝を押さえられ、足の裏が床から離れる前に拒まれた。
琥珀色の目が何かにとらわれている。血だ。私の手首から流れる血をじっと見てる。吸血鬼のように血を求める衝動に駆られている。そう感じた。
私は逃れようと腕を引っ張った。腕がもげるそうなほど。だけど、手首が握りつぶされるような力でまたしても拒まれた。
「この血だ。佐野ちゃんは自分の血が普通のじゃないと思った事はあるか?」
私の血は赤い。普通だ。血独特の鉄さびっぽい味もする。普通だ。傷を作ればちゃんと流れる。普通の事だ。
對崎はにおいを嗅いだ。
「……血液型を知らない血ってだけ」ぶっきらぼうに答えた。
生まれた時も血液検査をしてない。血筋で見るとB型だろうけど、正確には知らない。ただそれだけだ。だけど、何かしらが普通の血と違う。
咲羅の血がついている服の袖を伸ばして手首の傷を抑えた。止まろうとしない出血が恐ろしい。初めて血が人並みに恐ろしく感じた。私は今までまったく血が怖くなかった。どれだけ無様に血が飛び出すような映画だとしても。手術を紹介する番組で白黒映像なのが逆に怖かったぐらいだ。
溢れてくる血が穢れたものに見えた。たとえ、最初に起きた血の波が今襲ってこようと、自分のだけは穢れて見えるはずだ。
何かがまったく違う。それはウイルスのようであるかもしれないし、遺伝子の何かかもしれない。
私の母は普通の人間だ。父もそうだ。母方の祖父母は東北出身だし、父方の祖父母は中部出身のいたって普通だろう。どこが普通じゃないかはわからない。典型的な型と比較するなら、父が私の誕生後すぐに死に、母は仕事ばかりで、母方の祖父母が私を育て、その四人――母と祖父母と私――で生活してきたのが少し普通じゃないぐらいだ。
性格に現れてるとしたら、私は女としての自覚がほとんどなかった事ぐらい。七五三も一度もしなかったし、何かの行事の時も着物を駄々をこねてやっと着た。保育園でも男の子の中に交じって砂遊びをしてたし、学芸会のプリンセス役にも手を上げた事はなかった。中学校からは女としての自覚が現れて、自分でも戸惑ったのを覚えてる。
性別の差がないとかだろうか? いや、對崎はあの時の農業体験でセクハラだとはっきり言った。それが証拠じゃないけど、性別はあるだろう。オネエ言葉なんか使い出したら私は腹がよじれてしまう。たぶん、どれにも現れない。
だけど、すべて何もかも崩れてしまった。あの時の對崎部長はいない。賢明で意欲的で、とても優しい人だった。優しいからこそ、こうなってしまったのだろうか?
それに、私も変わってた。刀を取り、肉体を限界以上に使い、殺しを行った。想像は出来たが、予想はしていなかった事だ。どれだけ血筋を遡ろうとも、私はまったく違う血が入ってる。散々迷ってきた命については、すべて狂狼人になるための過程だったと言っても過言ではないのかもしれない。殺しを厭わないくなるための。そのうち、殺しを欲するようになってしまうだろう……。
気がつくと私の血は對崎の座る教卓にまで滴っていた。まったく止まろうとはしない。血友病じゃないはず。あの治癒力はどこに消えた? このまま止まらなかったら失血死してしまう。
突然、私はグッと顔を持ち上げられた。顎に對崎の手がある。私は顔をしかめた。
「どうやったら、君はなってくれるのかな?」
私は黙ったまま對崎を見据えた。大抵の女性がすべてを投げ出してでも彼を好いてしまいそうな笑顔だったが、私はいけ好かない。對崎の手を叩こうとしたが、すぐにさっと手をよけられた。
ここには交渉に来た事を不意に思い出した。馬鹿げた話をしにきてるんじゃない。
「それが交渉の要件ですか?」
「そうだ」對崎は言う。「あの少年とか? なんて言ったっけな……や、矢……矢口、矢倉……いや、ぐ、じゃなかったな……」
この独り言に付き合う暇はない。名前を思い出さないように願いながら私は机に座って、両手首を握り締め、自分の爪先を見た。靴はいつものように薄汚れてる。
「そう、矢坂だ」
胸に手が突き刺さって心臓を鷲掴みにされた感覚に襲われた。人狼に背中を取られた時よりも鮮明に全身に警報が鳴った。私は顔を上げて、對崎の目を見てしまった。
「霧生とあの矢坂君のどちらかを殺したら」
「それだけはやめろ!」私は對崎の言葉をさえぎって叫んだ。「お前を絶対に……」
私が言い終わらないうちに對崎は言った。
「君はあだ討ちのために狂狼人になるか?」
あだ討ち……、あの二人だけじゃない、私は誰かを殺されたら怒り狂って報復するはずだ。違う、喪失感に繋がるのか復讐心に繋がるかはわからない。だけど、私を一つの感情で覆い尽くしてしまうだろう。それが怒りなら私は狂狼人になるはず。狂狼人になって相手を殺す。たとえあだ討ちが醜かろうが、私はたぶんそれをする。だけど、私は對崎の問いに答えなかった。
「二人を逃がすために狂狼人になるか? 全員でもいい」
なるかもしれない。自分のために生きる意味がもうないのだから。私は私であって私ではない。だったら、大切なもの――「過去」のために命を使う。
「すでに殺したとしたら?」
髪が逆立つほどの怒りを感じた。もう一度、今度は邪魔されずに對崎の首を絞めてやろうと思ったが、對崎を見て遊ばれてる事がわかった。
狂狼人の素質を持っている人間は何人かいるはずだけど、私が選ばれ、必要とされてるなら、自分を殺しそうなほど絶望させるような事はしないはずだ。
私が自ら死んだとしても、彼らには痛くもかゆくもないし、みんなが殺される。でも一方で、私が私の狂狼人と死んだら、對崎たちの何らかの計画は失敗の可能性が高まるか終わってしまう。そんな危険は冒さないはず。
「まだ生きてる。殺されるはずなんてない」
自分がそう思い込みたいだけだとしてもだ。
「俺は殺しはしないけど、バーコウィッツはどうだろうね」
對崎は私が取り乱すのを期待していた口ぶりだった。
あのほつれた穴は對崎に対して危険じゃなかった。私に対して危険だった。あいつは今何を考え、どうしようとしているのだろうか?
手首を強く握り締めた所為で止まりかけていた血がまたあふれ出した。私は唇を噛み締め、血が止まるように必死に祈った。気持ちの持ち方かもしれないが、頭がふらふらしてきた。
「昨日みたいな素直な涙が見たいんだけどなぁ」
この人はいったい何を言い出すのかわからない。バーコウィッツより予想がつかないかもしれない。
私は不敵な笑みを作った。弱みなんて出すもんか。
「泣いて請い、縋って泣けって事ですか?」
對崎はいつもの笑い皺の笑顔になる。見た目は何も――いつも見えなかった虹彩の琥珀色以外――変わってないのに、関係は大きく変わってしまった。
得体の知れない恐怖だった。恐怖とも言わないかもしれない。大きくズレたような差が、複雑で奇妙で……理解出来なくて頭が可笑しくなりそう。
「部長としてあなたはとてもいい人だった」口以外は動かさずに言った。「だけど、今は最低だ」
世界が、世の中が間違ってると何度思った事だろう。本当に間違ってる。
絵に描いたように優秀な先輩だった。それなのに裏の顔は殺しを楽しむような人だった。誰が予想出来た? 人知れず殺しを行い、「ブラッディアウト」を起こし、異常な人だったなんて。そういえば、快楽殺人者ほどまともに見えるなんて聞いた事がある。ある連続快楽殺人犯は妻にも自分の犯行を知られずにすごしていた。最後には妻に自分を警察に突き出させて、褒賞金を得て生活難を救おうとしたのだ。異常と理解してるからこそ、まともになれるのかもしれない。
この人が人間だったら、世の中はどうなっていただろう? 「ブラッディアウト」なんて起きやしないし、人知れず殺される人もいない、善い行いをしていて社会に貢献していただろう、そして家族は誇らしく思ったはずだ。でも、予想にしかならない。いや、現実にはなりえない妄想だ。
なのに……
對崎は私の目の前にいて、手を差し出してきた。私はその手を縋るように握った。自分でも馬鹿な行いなのはわかってる。だけど、それしか出来なかった。
普通の人間のように温かい。私はその握った手に額をつけて泣いた。悲しみによる嗚咽ではなく、叫びだった。
自分でも混乱してた。この人は誰なのかわからない。對崎部長なのか、まったく別の殺人鬼なのか。ただ、今この瞬間だけは部長でいてほしかった。
對崎部長は私を慰めるように肩をさすってきた。手を放して、肩を掴んで顔を上げさせようとする。
「残念だけど、約束はなくなった」
誰かが手を出したのだろう。最悪な事になってなければいいが……。私の体はいち早く反応して、教室の扉に手をかけていた。だが、開かなかった。鍵をかけているわけでもないのに。
私の肩に手を置いて、對崎は琥珀色の目で覗き込んでくる。あの時と同じ。ただ、いくつもの命が死んでいる事が違うだけだった。
「最後に一つ。狂狼人が恐れるものは次のうちどれだ思う? 火、水、光、さあ、どれ?」
私にはもう考える力がなかった。ただ、對崎を見返す事しか出来なかった。
「答えはまたの機会にね」
今まで以上に優しそうな笑みを浮かべ、瞬きした瞬間に對崎は消えてしまった。
私は呆然としていた。服が血の所為でほとんど真っ赤に染まっていた。
我に返った私は無我夢中で窓に足をかけた。窓枠を掴み、体を窓の外に投げ出す。少し前に跳んでからすぐに落下を始める。一瞬の間にグラウンドを見た。真っ赤な血はなかったが、誰もいなかった。ただ中央に刀が突き刺さっていた。校舎のすぐ下にある花壇の木を折って私は着地した。
足首を打撲してちゃんと歩けなかったが、グラウンドにある陸上競技用のトラックのテープまで来ると、グラウンドの真ん中に突き刺さっている刀に駆け寄った。
誰もいない。どういう事? 咲羅たちは殺されていない。だけど、どこに行った? 刀は転がっていたはずなのに、突き刺されていた。意図的に……。
私は刀の柄を握って、地面から引き抜こうとしたがなかなか引っこ抜けなかった。刀はやっぱり刃こぼれしておらず、新品のようだ。やっとの事で地面から抜いて、遠くに転がっている鞘を拾った時には自分が何をしていたのか一瞬忘れてしまった。近くに投げ出されていた自分のリュックを拾いに行って思い出した。
對崎たちはみんなをどこかに連れて行った。私はそれを探さなければならない。絶対に。何があっても。
三輪っちがいる場所も知らない。ケータイも粉々になったっけ。三輪っちたちと話したのがつい昨日の事のよう、もしかしたら一ヶ月前にも感じる。




