十二月二十四日 金曜日 午後四時二十二分 知る事のない血痕
突然の事に感情がついていかなかった。歯軋りをして、鼻息が荒くなるのがわかる。咆哮を上げる私は、獣と同じような憤怒の目でバーコウィッツをにらんでいたに違いない。
「怒りなんて言葉だけじゃ追いつけそうにないね」
バーコウィッツの右手には血が滴っている。こいつが咲羅を殺そうとした。もうこいつの姿も何も見たくなかった。存在してほしくなかった。
やつに殴りかかろうとしたがやっと感情が追いついてきて、悲しみと怒りの入り混じった複雑な感情が男に対する憤怒を醒ましてくれた。
「咲羅……咲羅……」
咲羅の頬を軽く叩いた。まぶたを薄く開いた。その目からは涙があふれていた。
銃声がいくつか響いた。少し目を上げると反乱のような戦いが繰り広げられていた。武器を投げ捨てたリサさんと敵唯一の女性が取っ組み合いを始め、上別府は包丁を片手に、足元を兎のように跳びまわる少年を捕まえようとしてるし、矢坂は五歩ほど離れた年長の男の胸に銃で狙いをつけている。
咲羅が私の手を掴んだ。弱弱しい。その手をしっかりと握る。今にも意識を失いそうだった。
「……つぐみ」
久しぶりに自分の名前を聞いた気がした。だけど、そう呼ぶ事にどれほどの意味がこめられているのか私には理解出来なかった。
シンディの時と悲しみを比べられない。だけど、嗚咽以外に私は何もなかった。どうしてか涙があふれる事もない。とても悲しいはずなのに。
まだ、咲羅が死ぬと思っていないのかもしれない。説明出来ない何かしらの望みを体が感じ取っている。
「全員やめろ! 戦うな! 落ち着け!」
この場にそぐわない命令が聞こえた。
すべての動きが止まった。地面の細かい砂を蹴る音が消えた。
私は肩に置かれた手を乱暴に振り払い、服の袖で咲羅の傷口を押さえた。血がとめどなくあふれてくる。戦いがとまった事などどうでもよかった。咲羅の血をこれ以上流させない事が重要なのに、私にはどうしようもなかった。
向かい合うように對崎が屈んだ。殺気が消えていた。
「佐野ちゃんに一つ課題を与えよう」
あまりにも馬鹿馬鹿しい。「黙れ!」私は叫んだ。
「俺が彼女を完全に治癒させて、君がこちらの仲間になるか」
私の視界に入るように指を一本立てる。それが縋りつく答えに見えた。
「このままここでみんな彼女と同じ運命を辿るか」指をもう一本立てた。「温厚にお互いが納得いくように交渉するか」三本目の指を立てる。
「さあ、どれがいい?」
すべてに打開策があるように言うけど、どれも欠けている。でも、咲羅の傷を治せるのは對崎しかいない。従うしかなかった。だけど、仲間には絶対にならない。
「……交渉します。ただし、咲羅の傷を治してからだ」
拒否したら殺す覚悟だった。むちゃくちゃな発想、對崎に関する事すべてにおいて解決するのは殺しだと思った。殺しで始まり、殺しですべてを終える。私があの感情を完全に持ったら死なないといけないように、對崎も死なねばならない。生きるだけに野蛮になった結果がこれなのかもしれない。いや、「過去」を護るためなら仇を討つ事も頭を下げる事もする。ただ今は頭を下げつつも絶対に言いなりにはならない。
對崎はいつもの笑みを浮かべ、咲羅の傷を触った。そのまま傷に指をねじ込もうものなら首を締め上げるつもりだったが、傷は徐々にゆっくりとふさがり始め、血管は血を吸い込み始めた。
私は驚いて對崎を一度見たが、彼は傷口から目を離さなかった。それはまるで怪我をした養豚を後に肥えさせようとするために治療しているような眼差しだった。普通はそんな事しない特例だという風に面白がっていた。
私は對崎の手を握って、一度やめさせた。手はほんのり温かい。傷はまだ完全に治りきっていない。
「治してくれる事には感謝します。だけど、これ以上彼女に手を出さないで。他のみんなにも」
どうしてかほんの少し、もう部長と部員の関係には戻れない事を悲しく思った。この人は優しいのにどうしてこうなってしまったんだろう……。すべて仮面だったのだろうか?
「こちらからは手を出さないが、向こうが手を出すならその約束は守りきれないよ」
私は力任せに對崎の手を握りつぶしたが、對崎にはちっとも痛手にはならなかったようだった。
傷を再び治し始めた。その間に私は對崎の後ろに立つバーコウィッツに出来うる限りの軽蔑と憤怒の眼差しを向けた。
「どんな理由もいらない。お前の口から謝罪なんていらない。死んで償えとも言わない」
残忍な考えが頭をよぎる。バーコウィッツがそれを読み取ったのかのように満足そうにニヤリと笑った。私はそれ以上彼を見ないように努めた。
咲羅の傷が綺麗に癒合し終わった。
「咲羅、何も言わないで」
最後に一度だけ咲羅の手を強く握り締めた。
みんな解放されていた。上別府だけは今にも少年に飛びかかろうとしていた以外は、誰も戦う気などない。
リサさんが駆け寄ってきた。リサさんと相手をしていた女性が目に入った。病的に白い肌にクルミ色の髪。その女性が私をちらりと見た。なんだか知ってる気がする。でも、どこからどう見ても東洋人じゃない。彫が深くて鼻は少し高い。骨格標本のようなのにどこか気品があった。いったいどこで見たんだろうか?
リサさんに咲羅を預け、私は無意識にその女性にその質問をしようとしていた。だが、對崎がいつの間にか私の肩を抱いていた。私は女性から目を離し、転がっている刀を見つめた。
對崎が指をパチンと鳴らすと、他の者たちは一瞬にして消えていた。いや、私たちがグラウンドから消えて、生徒会室に――会議用の真っ白い机と薄いけれどクッションがついている椅子と窓からの景色でわかった――移動していた。
毎週木曜日に生徒会しか使ってなく、清潔なのにヤギの小屋みたいな藁のにおいが充満してる。
私は對崎からいち早く距離を置こうと窓際に寄った。窓から見える学校の敷地の外周の柵辺りにも何匹かいた。それにかなり暗い。もうそろそろ一日が終わろうとしてる。本来なら学校も終礼が終わって、帰宅するか部活動かだろう。でも、もう何もない。
私は口を手で押さえ、声の限り叫んだ。意味もなく、ただ叫んだ。ひとしきり叫んだら、落ち着いた。大丈夫。自分に言い聞かせた。目を離したからって誰も殺されはしない。
生徒会室の明かりが突然点いた。誰がいるのか忘れていた。
「何話しますか? 条件は? 屠殺の事でも?」
對崎を振り返り、私は窓際の横棒に背中を預けた。
「それもいいかもしれないな。でも、佐野ちゃんの事について話そう。豪く性格が変わったよね」
私は耳を疑った。平凡以下の自分の事なんて今する話じゃない。苛立った。
「元々ですから。私のシラリュガルーは見えたのに、それは見えてなかったんですね」
グサグサと言葉を突き刺すように私は言った。私の目から本心を読み取られない自信があった。そうやって四月――正しくは四月の数日と九月の二週目――からずっと高校生活を送ってきたんだから。ほとんどのクラスメイトが私をボーっとした暗い子だと認識してたに違いない。あとは私の存在を知らないかもしれない。総合環境部の部員だって、私は引っ込み思案の暗い子にしか見えなかったはずだ。その認識は對崎部長も同じだろう。
「シラリュガルーっていったい何なんですか?」
私の話をこれ以上するつもりはない。私の事なのだから、どこまで話すか決める権利は私にある。
いつもなら自分の知識を活用したくてしゃべりだしているところだろうが、對崎は慎重に言葉を選んでいた。
「狂った狼の人類。狂狼人。君の思うとおり、人外だよ。ざっと簡単に言えば、殺しに生きる人類。この世界にいるには異物さ。ま、この世界は人間以外には居心地が悪いけれどね」
對崎は黒板の前の教卓に腰掛けた。いつもの部長なら想像も出来ない事だった。椅子に座るとこだってほとんど見た事ない。人間と言う単語はやはり軽蔑にあふれていた。それほど人間が嫌いなのか、または価値がないというように見下しているのか。
「あの少年の事が好きなのか?」
自分の目に感情がありありと浮かんでいたに違いない。それぐらい驚愕と動揺があった。私が誰を好きであろうと對崎には関係ないはずだ。そもそもそんなの捨てた。世間知らずだった私の昔の話だ。
「俺が話し、君が答えた。君が訊いて、俺が答えた。俺の番だろ?」
それが間違っていないかのような口ぶりだ。確かに話し合いという点なら間違ってないかもしれないが、趣旨が間違ってる。
「質問には答えるつもりはない」
私が今ここから飛び降りるとでも冗談を言ったのをあしらうように對崎は笑った。
「肯定するって事だね。これから面白くなりそうだ」
私は足音をドシドシと鳴らすように對崎に近寄り、正面に立った。私は表情を変えないように努め、相手の目を見た。瞬時に手を振り上げ、平手で對崎の頬を引っぱたいた。
對崎は一瞬何が起こったのかわからなかったような顔をして、赤くなった頬を押さえていた。こんな事前なら言えなかったが、間抜け面だ。
私は引っぱたいた方の手を、對崎の鼻に指を突き立てそうになるぐらい近くで指差した。
「誰にもそんな感情を抱かない」私は語気を強めて言った。「誰一人として」
對崎は狂狼人なのは疑いようがない。あの男、バーコウィッツすら制した。統制してるのは對崎に違いない。確か、レジェスとも言われていた。あれは名前だろうか? この人はどうして狂狼人なのだろうか?
私はため息をついて、對崎から離れ、彼の正面にある机に座った。ひんやりと冷気が伝わって、自分がかっかしてたのがわかる。怒りがだんだんと募ってる。自分の手を掻き毟った。怒りを発散するように自分の指を無理な方向に折り曲げる。
初めて沈黙に耐えられなくなった。たった数分、琥珀色の目が私を見ていて、いつものように視線をどこに置いていいのかわからなくなる。いつもの学校用の人格が出て来そうになるのを抑えて、私は訊ねた。
「どうして、狂狼人なんかに?」
對崎を見ずに、私は窓の向こう側を眺めた。對崎を見てると感化され、何もかも八つ裂きにしたくなる。
「偶然さ。もう何年前かな……。最初は佐野ちゃんと同じで唖然とした。でも、それに逆らおうとしなかったね」
教員がああしなさいこうしなさい、だって自分は昔こうこうこうしたんだからって促すみたいな話し方だった。逆らうなという事だろう。
「殺すのが楽しくてしかたがないんだよ。これこそ生きてるって感じだった」
恐ろしい事だ。殺しは息をするようにいい事だって思ってる。まるで狂った科学者みたいな考え。何人を犠牲にして、いくつの命を殺したんだろうか?
窓の外では鳥がいつものように飛んでいた。少し羽ばたいては少し滑空する。とても気持ちよさそうに見えたが、鳥たちも日常にはない恐怖に駆られているのだろうか?
對崎が言ったようにお互い質問しあうと思っていたから私は少し身構えたが、一向に質問しようとしない。
「あなたは野蛮だ」私はつぶやくように言った。「意味のない殺しを行って、何も意味がない事をした」
「それは違うな。たとえば、そうだな……人類は滅びながら繁栄してる。恐竜が滅びて、人類が現れた。飢饉、疫病、虐殺、それらを糧にして繁栄する。文明もだ。消えて現れてを繰り返して進化してる。その過程のひとつだとしたら意味があると思わないかい?」
「思いません」私は考える事もせずに即答した。
「ずいぶんはっきり言うようになったな」
「ええ、おかげではっきり善悪をつけたくなりましたよ」まるで自分じゃないみたいに言葉が出てくる。
「だけどまだ迷ってる」對崎は指摘してくる。
「そんな事どうでもいい」吐き捨てるように言う。「いつか答えは出てくる」
對崎は私を惑わそうとしてるだけの気がしてきた。あの時の自分のように。答えなんて出ない問題に答えを出させようとして迷わせた。
視界の端っこで對崎がにっこりと作った笑顔でいる。私はもう一度沈黙に耐えられなくなりそうになって、言葉をつむぎだした。
「あなたたちが捜し求めていたのは、私なんですね?」
これがいい事なら自惚れすぎだと自分を殴っていただろうけど、今は悪い事に決まってる。
「そうだけど、佐野ちゃん自身じゃないんだ。君の狂狼人を捜してた」
私を慰めるように言ってくる。残念でもないのに。
「価値があるとしたらどれぐらい?」
「モナリザとも等価交換は出来ないし、世界中の金を集めても無理だろうね」
命に値段はつけられないかもしれない。だが、必要とされてるのは私の命ではなく、私の中の狂狼人。それ単体じゃ無理だから、私の命がおまけでついてくるって事なんだろう、向こうから言わせれば。でも、予想外にそのおまけがでしゃばって、狂狼人を出そうとしない。だから、バーコウィッツは周りの者を傷つけて、私の狂狼人を出そうとした。
「残念ですね」私は言った。「買えないものなのに、狂狼人になろうとしなくて」
私はちらりと對崎を見た。まだ、なってないのには核心があった。今は片足を突っ込んで後戻りが出来ない状態だ。殺しを迷ってるなど狂狼人にあってはならない事だろう。
對崎は一瞬不思議そうな顔をして、私の言葉を理解した。そして、言う。
「そうでもないんだ。反動だよ、反動。迷いに迷って拒否し続けるほど、結果はよくなる。差はあれど、どっちみち狂狼人にはなるんだ。袋小路ってやつかな?」
私は息を吐いた。なると肯定されても、もう恐怖ではなかった。私がどれほど人間を殺したい渇望にとらわれても、殺すなら一番に自分を殺すと決めた。その殺す人間が絶対に殺してはいけない相手の場合なら。拒否し続ければその分、自分を殺す事になる。それでも自分は死んでも構わない。だけど、すんなりとなれるわけじゃない。ここで死んだらただの無駄死にだ。
「なる気になった?」
私は耳を疑った。一瞬、さっきの言葉は全部、狂狼人にさせるための嘘かと思った。だけど、嘘じゃない真実だ。對崎部長だったから。
「なりません。どうして必要なんですか?」
「うーん、それは難しい質問だ」
少しの間、對崎は腕を組んで考えるふりをした。
「佐野ちゃんが必要なのは、たまたま佐野ちゃんの狂狼人が上位だったってだけ。狂狼人を必要なのはまあ――」そう言って肩をすくめた。
私の狂狼人じゃないとダメだって事だろう。それとも完全に表に出てないほうがいいのだろうか? 私以外にも素質を持っている誰かがいるはず。それは同じ部員かもしれない。同じ事を体験してるんだから。でも、部員は誰も生き残らなかった。じゃあ、誰? わかったとしても、その人に代わってほしいとは頼まない。ただ、知りたいだけ。
「言えるわけないだろう?」
たぶん、私の想像もつかない事に違いない。想像力豊かな私ですら狂狼人なんて思いつかなかったんだから。
「どうして「ブラッディアウト」を起こしたんですか?」これも私の想像もつかない事に違いない。
「教えられないんだよね」
對崎が機械的に答えた。何度もそう答えたみたいに。
「どうやって「ブラッディアウト」を起こしたんですか?」
その質問には對崎は笑顔で答えてくれた。
「そのうち知られるようになるよ」
腹部辺りを巨大な手で鷲掴みにされた気がした。
よくあるように最後の最後に知らされるネタばらしと同じな気がした。そして、最後に殺される。手の内を知らされるのは、そういう事だろう。知らないほうがいいと思ったのも事実だが、知らなければならない。私が一番近いのだから。
私は話を変える事にした。これ以上聞いたら、後で気が狂うに違いないから。
「あのバーコウィッツは心を読めるんですね」
あの顔を思い出すと、怒りがわいてくる。なるべく考えないようにしよう。
バーコウィッツが心の迷いを読み取って、對崎に知らせる。その迷いに漬け込んで私を仲間に取り込もうとする。迷っている隙間に入るのは簡単なものだ。特にそれを心得て、利用しようとする者ほど。
「ま、それぐらいは誰でもわかるかな。あいつは考えを読めるよ。深層心理までは無理だけどな。相手を踏みにじるのが楽しくてしかたないらしくて、俺でも手に負えない時があるくらいだ」
對崎は少し言い過ぎたに違いない。表情には出していないが、不味い事を言ったはずだ。私は心の中でニヤリとした。完全に統制してるわけじゃなさそう。それはほつれた穴だ。
心を読めるバーコウィッツはシンディを殺し、咲羅を殺そうとした。心を踏みにじるために。
途端に私は、バーコウィッツが對崎の手に負えないに恐怖に駆られた。全部無視して、咲羅にもう一度手を出したら? それこそあいつは私が戻るまでに全員を瀕死に追い込んで、その惨状を目の前に突きつけるやもしれない。あいつのほつれた穴は危険だ。私を陥れる事もその逆も出来る。
私の心を踏みにじるには簡単だ。なるべく考えないようにしよう。考えてないのに私がその種を作ってしまうかもしれない。心を読み取れるのはどれぐらいの範囲か知らないから。
そこでふと考えた。狂狼人になるという事は殺しを行うだけじゃない。身体能力は向上するし、雷のようなものが腕から出るし、嗅覚は人間の比にいならない。殺しは一部だ。すべてじゃない。對崎が言うように殺しが生きる事だとしても、それだけじゃないはずだ。その事を考えると狂狼人になってもいい気がした。ただ、對崎の仲間には絶対にならない。
「佐野ちゃんは狂狼人にならないのか?」
見透かされたような質問に私の視線は戸惑うように揺らいでしまった。
「……これ以上、なりません」声が上ずるのを必死で抑えた。「たとえ、半分は狂狼人だとしても」
「それに関しては、はっきり白黒つけるつもりはないんだね」
まるで早くなれと言わんばかりに對崎は言った。楽しそうで待ち遠しそうな表情を隠して切れてなかった。
一瞬、對崎を殺したいという考えに囚われた。囚われただけじゃなく、体はそれを実行していた。目の前の憎い男の首を絞めてやろうと手を伸ばした。だけど、私の両手は對崎に阻まれ、そのままそいつは私の胸に耳をつけてきた。叫ぼうとしたが、口からは空気が漏れただけだった。
「心音が速い。今にも狂狼人になりそうだ。殺しを楽しむようにね」
私は無理やり、その手を振りほどいた。對崎の爪が私の手首を引っかいた。血がドクドクとあふれ、小さなパニックに陥る。手首から血が流れるのが一番怖い。
私は両方の手首を両手で押さえたまま、その場から動けなかった。




