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学校断頭  作者: 浪速
15/36

十二月二十四日 金曜日 午後一時五十一分 匿われた休息


 どの人間にもある二面性。

 例えば、表では優しい顔をしながら裏では悪そうな顔をしているような二面性から、実は臆病なのに仲間と連みチャラく見せている二面性など。数え切れないほどある。

 上の者におべっかを使い、下の者には厳しく当たる二面性なんてのはよくある。

 私の場合よくある人見知り。

 最初からあったというわけでもなく、小学生時のクラスメイトは出会った時が大抵は幼い礼儀もほぼわきまえていない歳だったためか、人見知りがなかった。少し、遠慮がちになる事ぐらいしか。男嫌いも幼く同い年のためかなかった。

 しかし、中学校に入り、線が引かれた。何かが変わっていた。小学校卒業前に予想はしていた。別の小学校と一つの中学校に通う事になり、何かが変わると……。

 それからだった。人見知りという人格が生まれたのは。

 別の小学校から来たクラスメイトとは打ち解けられなかった。誰か同じ小学校の子がいれば、まだしゃべれる方だったが、その同じ小学校の子すら何人かには線が引かれた。

 だた、異性と仲良く話していると変な噂が立つために本能的に避けるというより、無意識に離れた。恋愛関係での女の戦いに身を投じたくなかったからかもしれない。

 それとも、本来持っていた男子嫌いからのためかもしれない。過去に何があったとかはない。微かに幼い頃叔父さんを見ると泣いていたのを憶えていた。父がいないため男性になりつつある男子とは、子というより大人として見ていたから避けたかもしれない。

 どれにしても、男嫌いはあった。

 同じ部活に入った何人かとは打ち解けあったが、他はほとんど無理に近かった。

 高校に入れば、何かがまったく変わった。それがわかったのは最近の事だ。小学校までの「過去」が私を縛り付けている。

 それによって壁が出来た。高校生としての自覚がなかった。それによって壊れ始めたのかもしれない。少なくとも一つの要因だ。

 だから、誰にも心を開けずに一歩引いていたのかもしれない。何度かは線が解かれつつあったが、完全に解かれる事はなかった。

 いつまでも解かれていたのは、小学校までのクラスメイトと中学からの数人と家族だった。

 それが私の二面性。他人に見せる自分と親しい者に見せる自分の差異。

 この差異は消さなければ、今の現状についていけなくなる。




 私は見落としていたに違いない。


 たいていの場合、生物の繁殖にオスとメス一匹ずつは必要だ。だとしたら、あの人狼は二匹いる可能性がある。さらにあの血の波を起こしたとするなら、女王蟻みたいなのがいるかもしれない。人狼とあの血の波は関係してる。


 家に着いた時、部長にその考えを話したが含み笑いを返された。複数いるとは考えていたらしいが、女王蟻みたいなのは考えられないそうだ。急ぎの用事があるみたいにお礼を言う暇もなく對崎部長はどこかへ行ってしまった。それから、私はシンディを抱きしめ、感動の再開を果たした。私だけがそう思ってるかもしれないが、シンディが唾液を撒き散らしながら私を舐めつくしたのは確かだ。


 頭をざっと洗った泡を流し、正面の鏡を見る。

 私は細いとは言えそうにない腕と右肩の間にある変なあざが気になっていた。あざとも言えないような何か。看護師の母にも聞いた事があるけど、生まれた時にはなかったらしい。


 もっと変なのは左腕の裂かれた傷。祖父が電動ノコギリで腕を切った時以上の酷い傷だったがすっかり治ってる。「すっかり」は例えで「ほとんど」が正しい。しかし、見るからに治りすぎていた。かなり前から治りかけていたかもしれない。たった数時間でだが。

 背中の傷も治りかけてるが、背中の傷に毛先が刺さり、痛みのような痒さが続く。こちらの傷も腕と大差はないがほとんど塞がっている。

 バイクに乗って滑った時の足の傷はマゼンタ色の液体がなくなって傷口は膨らんでロブる事もなく綺麗に癒合してる。


 背中には長い髪が身を裂く稲妻のように張りついていた。黒い髪は半年以上切っていないため雑草のように伸び放題で、手入れはされていないが案外綺麗で枝毛を見つけた事がない。背中に垂れた髪は、へそと同じぐらいの位置まで伸びている。今は濡れていて綺麗に垂れているが、普段はボサボサのままで今の位置よ十センチほど上になる。やはり無駄に長く、除草や天地返しの時には何度も邪魔になったが、短くする気はさらさらない。


 髪に残った泡を綺麗に流していくと、手や腕、足などにある傷に流した湯が沁みる。消毒液で沁みるよりはマシだったが背中と腕には海水のように沁みた。


「痛い痛い痛い……あー、沁みる」


 よくのん気にシャワーを浴びてるともんだとは自分で思うが、人狼から飛んできた血――とりあえず血を洗い流したかった。

 今まさに窓から人狼が入ってきたら私は喉を噛み切られて即死だろう。家に入る時には消臭剤を玄関に吹きかけたし、シンディが人狼の気配かなにかしらを敏感に感じ取ってくれるはずだから、そんな事はありえなさそうだけど。


 別れる際に對崎部長は「血のついたものは袋で密封して地中深くに埋めたほうがいい」と言った。そう言われるのは当然だと思う。知識豊富な部長ならそれぐらい知ってる。血の匂いは捕食者を興奮させる。

 血のついた服を着てる所為でグリズリーに食われたり、恐竜に食われたりした映画を覚えてる。鵜呑みにするわけじゃないが、正しい結末かもしれない。血の匂いは染み付いて消えずに獣に追われる。熊などたった一滴で寄ってくる。実際、映画で血のついた服を埋めなかった人物は食い殺された。


 自分が食い殺されるのはともかく、他者にも被害を出すわけにはいかなかったため近くの空き地に埋めた。祖父母が少し畑をしてた事もあって家の倉庫に鍬があり、それで穴を掘った。


 シャワーを止めて、髪の毛を纏めて絞る。水がボタボタと落ちて、もう一度きつく絞る。タオルで包んでからまた絞る。ある程度したらほうっておく。

 急いで浴場から出た私はバスタオルを体に巻き、二階を「服服服」と連呼しながら行ったり来たりしていた。いつもどおりの長袖を着て、ジーンズを穿いた。髪が思ったより早く乾き、リビングのコタツに滑り込む。寒くないとは言いがたいし、湯冷めしてしまったらそれこそあの人狼の格好の獲物だ。


 結は柴犬のぬいぐるみを大事そうに抱きしめ、リビングの一角にある私専用の棚をいじってる。いつもなら触れさせないけど、今は物をいじれるぐらいの興味があってよかった。


 六段の棚はすべてが何かで埋まっている。下一段目はおもちゃ箱となり、二段目と三段目は本棚が乱雑に置かれ、四段目は画材置き、五段目には貯金箱と小さなぬいぐるみたちの住処、六段目はイヤホンやゲームの空き箱、興味のあった雑誌の切り抜き、どこで拾ったのかもわからない石、ピンポンボールで作った目玉、作りかけの勾玉などなど私の脳内のようにさまざまな物がある。いじり甲斐がありすぎていとこたちから死守するのがいつも大変だった。


 本棚の中から私が昔呼んでいた絵本を取り出した結は、矢坂の横たわるソファと向き合ってコタツで丸まった。ちなみに、シンディは玄関マットの上で周囲に気を配りながらも休憩してる。


 矢坂は未だ眠っている。気を失ってるのかもしれない。本当は死んでるんじゃないかと思って、呼吸を何度も確かめた。もう一度確かめようと薄く開いた口元に手をかざす。ゆっくりとした風がくる。大丈夫、寝てるだけだ。


 それにしても傷がひどい。右肩の包帯は、肩まで捲り上げている袖口から手首まで巻かれて血がにじんでる。額以外にも顔中に細かい傷があったのが見て取れる。やっぱり不思議と治るスピードが速いのが引っかかる。自然治癒力が向上してる。


 なんにしても、私が強引にでもあの時断っていれば、矢坂は傷を負わずにすんだはず。だけど、矢坂がいなかったら私は死んでたかもしれない。こんな事どう思えばいいのだろう?


 そんな事を考えてると矢坂がいつの間にか目を開いていた。


 驚いた私は見事にひっくり返って、後頭部をコタツの天板の角にぶつけてしまった。衝撃で意識が一瞬飛びかけた。


「……何ここ?」


「私の家ですけど」


 どうして敬語になったかは、自分のほくろが現れる位置を決めれないのと同じ感じだった。私はソファのほうから離れ、結の隣に座ってコタツに足を入れる。


「どうして?」


 思ったより冷静だ。でも、声に張りがない。まだ頭の半分が眠ってるのかも。


「先輩に助けてもらった。それに、手当てもしてくれたし、ここまで送ってくれた」


 私は疑わしげな目つきで矢坂に見られた。自分が眠っている間にそんな事が起きたなんて信じられないのだろう。


「安心して、人狼はもう追ってこない……」


 矢坂は驚いてか目が見開いた。おずおずとソファから足を下ろして、正しく座る。

 殺すなんて間違ってたのかもしれない。でも、そうしなきゃ私たちが殺されてた。對崎部長がそうしてくれたおかげで今生きてる。


「傷は? 痛くない?」


 矢坂は恐る恐る包帯の上から傷の具合を確かめるように自分の腕を触る。


「めちゃくちゃ痛ぇ……」


 私が思い出させてしまったのか、痛みがぶり返して矢坂は顔を歪めている。矢坂の感じてるはずの苦痛と同等の痛みが、心臓を切り裂かんばかりに襲ってくる。


「シャワーでも浴びてきたら?」


 まるで私が飛行機を身一つで停止させて来い、とでも言ったかのように唖然として矢坂は私を見てくる。


「血、洗ったほうがいいと思うし」


 傷の具合は見てないけど、シャワーを当ててもそんなに痛くはならないはずだ。人間の自然治癒力が上がってるみたいだし。それにずっと血がついてるのは嫌なはず。

 答えが返ってこないからいろいろ説明を足してみる。

「血がついてると厄介な事になるし」私は思いつく限り言い足してみる。「男物の服だってあるし」


 私自身持ってる衣服の半分は男用である。男物の服のほうが着易いのは確かだ。女子のものよりサイズが多くあるし、ピチピチでもフワフワのブカブカでもない。それにピンクもフリルもレースもないし、着るのが簡単だから男物そっちの方がいい。まあ、母がそんな服をよく着る影響かもしれない。だからって、自分からスカートを穿くのは躊躇われる。


「人狼が来たら、シンディがわかるし」


 矢坂から答えらしき答えはまだ返ってこない。そろそろ、一人で話すのがつらくなってきた。


「傷が痛いなら氷でも持ってこようか?」


「佐野はさ、この出来事どう見てるんだ?」


 不意に私は答えられない質問をされて、息を詰まらせてしまった。


「矢坂、……お前はこの出来事、どう思う?」


 呆れられるかイラつかれるだろうと思ったが、自分の考えてる答えが納得いかず聞き返す。

 矢坂は大きくため息をついた。呆れるように。


「聞き返すなよな……ま、信じがたいけど受け入れるしかないだろ」


 私が考える以上にこいつは何も考えてないのかもしれない。小学生のまま変わってないのかも。

 呼吸を何度も確認してた時、血が巡らなさすぎて壊死するかもと考えた私は矢坂の肩に縛られていた止血帯代わりの髪ゴムを勝手に外して、元の私の左手首につけていた。それを無意識のうちに触っていた。


「…………あまり深く係わりたくはない。声に人狼、血を食う人間……。他にも後の事は考えたら切りがないけど……」


 そして、小さすぎて耳のいいシンディにすら聞こえなさそうな声で言う。

「でも、これが現実なら……私は喜んで受け入れる」


 言うとある程度はすっきりするが、すべて吐き出されるわけじゃない。自分の異常さがはっきりとわかる。言葉だけだとまるで殺戮を喜んでるみたいだから。


「え?」


 やっぱり聞き取れずに矢坂は聞き返してくる。


「受け入れたくないけど、そう言う訳にもいかないって」あまり結にはこういう話をしたくないために早口で言った。「これだけ血を流してるのに死なないのも可笑しい。死にたくも死なせたくもないけど……」


 死に現実味がなかった。戦いの中で死ぬ事を本当の意味で理解してなかった。まるでゲームみたいにリセットがあると無意識に考えてたみたいに。


 祖母が死んでいても、祖父や母が死んでいると理解してもシンディが死んだ時ほどの悲しみはなかった。それに憎しみ。そして「死」という冷たいものも。もしかしたら、私はシンディのほうが好きなのかもしれない。家庭崩壊など起こらない、愛情のある動物が人間――家族以上に好きなのかもしれない。



 だけど、今はそれに勝るとも劣らずの悲しみ。


 シンディ以上に――比較はしたくないけど――もっと好きなのがあるとしたら、小学校までの頃だろう。あの喜びと楽しみは何にも変えられない思い出であると同時に戻れない「過去」だ。「過去」の一部に入ってる矢坂が死んだら、私はその痛みを考えられない。だけど、「過去」の大部分は消えてる。これ以上は消せない。


「それに、本当にごめん。傷の事……」


 矢坂の右腕の傷を思うと私は自分の右腕を差し出したって足りない。壊死したわけでも切断したわけでもないけど、これからずっと神経に障害が残るかもしれない。実は骨にヒビが入ってるかも。


「あ、いや……大丈夫だから」


「大丈夫じゃない!」


 私は咄嗟に叫んでしまった。大丈夫なはずがない。あの部長が言うぐらいなんだから、骨が見えてたって可笑しくない。

 結が目を大きく開いて私を見てた。


「……だって、私が迎え撃つって言ったのにあんたが怪我したら……怪我したら」言葉が見つからない。「私、どうしたらいいかわかんないし!」


 自分の語彙の少なさを痛感する。ちゃんとした具体的な気持ちを言葉に出来ないなんてホント、どうしたらいいかわからない。


「やっぱり傷見せて」私は出し抜けに言った。


 自分の目で確認しなきゃ落ち着かない。私はリュックを引き寄せ、救急箱を取り出す。氷とタオルが必要だと判断して、それらを洗面所と台所にそれぞれ取りに行く。


「結、ジョセフをしっかり抱きしめてこっちは観ないで」


 結を横たわらせ、柴犬のぬいぐるみ――ジョセフを顔にくっつけるように抱きしめさせる。幼いから血に対してあまり恐怖もなく、逆に興味がありそうだからかあまり見せたくはなかった。私自身、自分の血を幼い頃から見いてある程度は平気だ。保育園の工作の時間など自分の指を鋏で切り刻んでいたぐらいなのだから。だから、結には血を見ても少しは怖がってほしい。血が普通だと思わないでほしかった。


 氷嚢代わりにビニール袋に氷水を入れ、三枚持ってきたうちの一枚のタオルで氷水入りビニール袋を包む。コタツの天板の上にそれを置く。


「置いて、腕」


 矢坂は嫌だとでも言うように眉間にしわを寄せてにらんでくる。言葉でねじ伏せれないのがわかってる私は矢坂の腕を引っ張った。


「やめろ、やめろって!」


 私の手を振りほどくように矢坂は腕を振り上げる。これだけ動かせるならそれほど重傷でもなさそうだけど、確認せずに終われるわけない。


 力ずくか泣き落としかで大人しくさせようと考えた時、私には運悪く携帯電話の呼び出し音が鳴った。サッと携帯電話を手に取る。蓋を開けて通話ボタンを押す。目の前では勝ち誇ったかのように矢坂が笑みを浮かべてる。


「何ですか?」


 腹立たしくて語気が強くなる。


[状況は?]


 聞こえたのは咲羅の声。向こうから電話してきてそれはないと思う。


「矢坂が傷を見せてくれない」あきれ果ててる感を作って私は答える。「化膿したら困るのに」


 ちらと矢坂を見ると、咲羅からの電話だとわかって、勝ち誇っていた表情が消えていく。


「坂ちゃん、つーに傷の手当てぐらいさせてあげなさい!」


 耳が張り裂けそうな声が響いた。スピーカーフォンにしなくても十分に矢坂には聞こえたはず。結が頭を上げたが、元の位置に押し返した。


「もう、治ってる!」


「治ってない」


[いいから! あと、二十分ぐらいで着くけど、それまでにしてなかったら女装でフラメンコ踊ってもらうから]


 返事を聞かずに通話は切れてしまった。人狼の事を言うのを忘れてた。

 咲羅の発想もやたらと奇抜だ。今回はまだマシな方。この前は蛇の肉詰めを作ってるなんて言ってたし、修学旅行の時なんか罰ゲームで頭に牛肉つけてアナコンダの前に立たせるなんてテレビ張りの提案までした。しかも、用意までしてた。だとしたら、その言葉も本当だろう。


 矢坂は不貞腐れたように腕をタオルの上に置いた。本人が手当てされる気があっても私がしなければ、目の前の不貞腐れた矢坂はフラメンコを踊る羽目になる。それはそれで面白そうだったけど、望みどおりになったんだからそれ以上は望まない。


 矢坂の左腕に張り付いてる包帯の端を引っ張ってみる。血の所為で少し固まってる。

 私は台所で水を汲んで戻ってくる。

 矢坂の腕の下にタオルを敷いて、包帯を少しずつ解きながら、固まった血を水で溶かす。繊維にも水が吸い込まれるために包帯は安易に取れて、赤黒いガーゼが現れる。


「全然、治ってない……」


 ガーゼを恐る恐る剥がしてみる。生々しいピンク色の肉どころか、もう少しで筋肉の表面が見えそう。だけど、不思議と出血は少ない。

 救急箱を探ってみるが、何も使えそうなのはなかったためにクローゼットの奥から母の本格的な救急箱を取り出す。蓋を開けると見た事もないものが多い。塗り薬のチューブや瓶、包帯やテープ、体温計やピンセットなど知ってるものもある。

 コタツの上にあるティッシュを取って、生理食塩水で皮膚についた血を洗いながら、ティッシュで水と血をふき取る。

 救急箱の中から、使った事のある袋を取り出す。新品の歯ブラシを包んでる容器みたいな形でで、中にはオキシドールに浸された大きな綿棒が入ってる。それを容器から取り出して、傷口にそっと当てる。


「痛いって!」


 痛みで腕を若干引き、強張ったのがわかった。よく怪我をしてた私にはその痛みよくわかる。まるで蚊に刺されて掻き毟ったところに唐辛子を塗りこんだような我慢ならない痛み。


「男なら我慢しろ」


 傷はやはり四本の筋だ。それ以外にもあるがもう古傷のようになってる。人狼の爪によって肉が抉り取られてる。痛々しいなんてもんじゃない惨い。

 その一つ一つにオキシドールを塗って、ガーゼで血を吸い取っていく。

 出来れば膝に張るような大きな絆創膏で収まってほしかったが、それで覆うのにはかなり無理がある。

 でも、よく見ると端のほうから癒合していく。ナメクジが這うようにゆっくりと。目に見えて治癒力が向上してる。世界がどうかしてるのか人間の体がどうかしてるのかのどっちかしかない。

 軟膏をガーゼにつけて伸ばす。四本の痛々しい傷を三枚を使ってガーゼで覆う。最後に包帯を最初と同じように巻く。


「ホント、ごめん」


 これ以上懺悔するのは苔が生えそう。矢坂の顔を一度も見ずに、血のついたガーゼや包帯をかき集めて、タオルに包んでゴミ箱に捨てた。


「何か食べる?」


 私は救急箱をクローゼットに直して、台所の吊り棚を探る。母が隠してたポテトチップスが二、三袋とクッキーの箱が一つ出てくる。冷蔵庫から二リットルのペットボトルを持ち出して、それらを抱えてコタツに戻る。

 矢坂は腕を曲げたり伸ばしたりを繰り返しながら、包帯の具合を確かめていた。


「ここにずっとおるつもりなのか?」


 私は抱えていた食料を適当にコタツに置いた。それは人狼と戦うのを拒否するのか、と聞いているのだろうか。

 複数いたって可笑しくない。全世界であの現象が起きてるなら、全世界に人狼がいたって可笑しくない。なのに、私は家に閉じこもって無視するのか? 最悪、誰かを見殺しにするのか?


「……私にはあの人狼を殺す理由がない」


 殺す事への正当化なんてしたくない。あの人狼が私たちを殺すから殺し返してもいいなんて、家畜たちは人間を食べてもいいと同じ事の気がする。なのに、後者はどう考えたって馬鹿げてるって世間は言うだろう。

 ポテトチップスの袋を開けて、結に渡す。お腹が空いていたに違いない結は袋に手を突っ込み、パリパリという音とともに腕を引き抜く。そして、小さな手の中に握り締められたポテトチップスを口に運ぶ。

 私は俯いて刀を握っていた右手を見つめる。戦ってる時は感じなかった肉を切る感触がよみがえってくる。


「よくわかんない。どうして人狼が人間を殺してるのか。どうして人間が人狼を殺さなきゃいけないのか。……どうして?」


 私が延々と悩んでる事に矢坂は間髪を容れずに答えた。


「死にたくないからだ」


 私は矢坂の言葉にハッとした。勝手にポッテトチップスを食べ始めていたが、今は気にしない。對崎部長は「殺すのが生きる事」と言った。だけど、私はそれは自然界に生きる野生動物に適応される事だと思った。当てはめるなら人間は殺す側ではなく、殺される側かもしれない、とまで。私だって生きるか死ぬかの野生動物と同等でいたい。だけど、所詮人間だ。文明の利器に浸って野性に返る事は出来ない。もし、人間がそんな事をしても歪かもしれない。


 だけど、どの生き物だって思ってる。死にたくない、と。生きていたいのだ。


「それでいいや」


 精確な答えなんてない。たとえ偉い学者に依頼したって答えは出せない。端からそんな人の答え信じるつもりもないけど。

 今こそ人間にとって自然界なのかもしれない。生と死が隣り合ってる。

 だったら、自然界に入り込めばいい。自分が望んだ事なのだから。そう思わずとも勝手に順応してくに違いない。


「咲羅が来てから考えるけど、ここにずっとおるつもりはない」


 半年前みたいに引きこもって見てないフリなど出来ない。たとえ殺す事になっても殺される事になっても「過去」を殺されるわけにはいかない。

 私は飲み物を飲みたくなってペットボトルに手を伸ばしたがコップがない事に気づいた。台所に再び出向き、咲羅が来る事を見越してコップを四つ持って戻る。

 コップにペットボトルの炭酸飲料を注いでいた私を矢坂はじっと観察してくる。


「ちょっと変わったよな」


 いつでも殴れる準備をする。太ったなんて言ったら炭酸飲料をぶっ掛けてやる。


「そういう気配りとか」


 予想外すぎて新喜劇みたいにずっこける気にもならなかった。あんまりにも心外だ。無駄な気配りのしすぎで大勢が集まるとこには行きたくないぐらいなのに。


「ずっと前から変わってませんけど」つっけんどんに私は言い返す。


「俺の事散々殴ってきたようには見えないからさ」


「何、その、むやみやたらに私が殴ったみたいな言い方は。あんたがオニババって言うからやんか!」


 何かある毎にオニババって言われた気がする。だけど最初にどちらがやりだしたのかはわからない。たぶん、何度も繰り返されてて、オニババと言われては殴って、殴ってはオニババと言ってきた。


「そりゃ、あんだけの力で殴ってきたらオニババだろ!」


 売り言葉に買い言葉。けど、本気の喧嘩じゃなかった。それが私には楽しかった。こんな低脳な言い合いなど何年ぶりだろうか。教室に立たされた事やよく転んだ事、遠足で班が迷子になった原因の擦り付け合いにまで言い合いは発展した。



 いつの間にか結はジュースを飲みながら私たちの言い合いを物珍しそうに見てた。


「あんた、本真にアホみたい。プハハハハッ!」思わず声を上げて笑ってしまった。「矢坂こそ、変わった。というか、変」


 ジュースの入ったコップを一つ矢坂のほうへ差し出す。


「失礼な奴だな」


「だって、普通、保育園の時の事なんて覚えてないし。覚えてても思い出す事なんてないのに」


 まるで自分の事を言ってるみたいだ。保育園の思い出ではないが、小学校の思い出。事あるたびに思い出せる。そういうのって成長とともに忘れるものだと思ってた。私の記憶力はチーズのように穴だらけだ。


「お前だって十分変わってる。ちょっと考えすぎになった」


 それは自分でもわかってた。考えすぎて行動より先に出てくる。だから、行動する前にストッパーがかかる。それが本来だと思ってるし。


「あんたは…………」頭の隅々まで何かいじれるものを探してみるが、何も浮かばない。たった一つを除いて。「私より背が高くなった」


 矢坂が耐え切れなさそうに笑う。


「何だよそれ!」


「小六までは私のほうが高かったのにさ」


 今となってはその差が縮まる事はない。矢坂むこうはまだ成長し続けるのだから。背に関してはだが。


「何かムカつく」そのムカつきの度合いが可笑しな方向にいって私はつい笑ってしまう。


「あんたが変わってるって言うなら変わってるんやろうね」


 たぶん、矢坂が言いたいのは成長とかでの変化を抜いてだ。私だって自分で変だって思うけど、それが他人にわかるとは思ってない。まだ私自身、完全に理解してない。

 矢坂は何かを紛らわすように私が差し出したコップを呷った。


「……坂ちゃん」


 咲羅との会話で思い出した矢坂のあだ名らしい呼び名をポツリとつぶやいた途端、矢坂はコップの中に勢いよく液体を噴き戻した。


「汚っ!」


 思わず私は身をを引いたが、コップが全部受け止めてくれたらしい。隣で結がキャッキャと笑う。

 そういえば、矢坂とは保育園からの付き合いだが、特定のあだ名はなかった気がする。一時期、サングラスが似合いすぎてグラサンなんてあだ名もあったし、由来は知らないけど工場長ってのもあった。


「お前が変な事言うからだろ!」


 矢坂は口から垂れたジュースを袖でぬぐいながら私をにらみつけてくる。


「どこが変な事ですか」何も可笑しい事はなかったという風を作って私は言い返した。「私何か言いましたっけ?」思わず笑ってしまいそうだ。


 ジョセフを置いて結は冷蔵庫まで行って二リットルのペットボトルを抱えて戻ってくる。それを矢坂に渡す。噴出したのが面白かったのかもう一度してほしいらしい。

 受け取ったほうも理解したのか、顔を少々赤くして怒鳴るように言った。


「しねえからな!」


 結は楽しそうな声を上げながら逃げていく。私は「あまり騒がないで」と忠告するが、聞こえてないみたいにもう一本ペットボトルを抱えて持ってくる。今度は満面の笑みで。

 思わず私は笑ってしまった。可笑しくて腹がよじれそうだ。


「そうだ……!」


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