十二月二十四日 金曜日 午前十二時十四分 生肉を食らう交戦
時の流れは残酷で、この世界はそれを無感情に押し付けてくる。
小学校のころはあの喜びと楽しみがあふれた日常が永遠に続くと思ってた。いや、思う事もなくそれが当然だと思ってた。
なのに、中学校でずたずたに引き裂かれた。二つの小学校から一つの中学校に合わせられる。クラスは三つ、倍の生徒数。たぶん、ここで私の根本が形成されたのだろう。人見知り、根暗、消極的。
それに矢坂としゃべったのは中学校のころで三回ほどしかない。まあ、クラスが違うんだから当然かもしれない。でも、咲羅同様に保育園から仲がよかったぐらいだから多少は寂しかった。でも、自分自身思春期に対処しきれずに混乱していたからやっぱりしかたない。
中三になると進路が突きつけられた。まったく別の道を選んで進んでいく。知っている同級生たちと離れてしまう。未知の世界への恐怖、知り合いがいなくなる恐怖、大人になる責任への恐怖、とにかくあの時の私は大人に一歩近づくなど考えられなかった。知り合いと離れる事も。
そして、そういう――特に小学校のころの――「過去」を忘れられずに引きずって、高校に進んで不登校になった。
だから、矢坂としゃべれてるこの状況は嬉しい。状況が状況だが。
やっぱり良心がかけてるのだろうか?
背中を裂かれたコートを着込んだ私は右の掌を見つめていると、血がついているように見えた。錯覚ではなく、何かを思い出したように。
布の中身は期待したとおり刃物。それも日本刀だった。骨董品好きという事を見越して持ってきたが、荷が重い。カッターナイフとかのほうがよかっただろうか? でも、あの獣の爪に対応出来るのは本物の刃物しかない。
鞘から柄を持って刀身を引き抜く。太陽の薄い光を受けてキラリと光った。実は模造刀だったらどうしようか。刃がなくても、突き刺せば何とかなるかな。でも重さはかなりある。一キロ半ぐらいか。
本来は戦い――人を斬るための道具だったが、それでも美しいと感じた。
百五十年ほど前まで、こんなものを持ち歩いて町をプラプラしてたなんて……とは考えずにはいられない。
江戸時代を舞台とした小説を思い出していた。刀を腰にさげて、町を歩いていた。それも人類が生まれた時代からくらべれば、つい先ほどのように近い時代だ。
刀をブンブンと振り回す。アクション映画を手本にするしかないけど、高くもジャンプ出来ないし車に匹敵しそうな足の速さでもない。瞬間的判断力と観察眼ならそれなりに自慢できるかもしれない。
獣の襲撃に備えるにしてはあまりにも簡易すぎて脱力する。私は刀を持つだけだし、矢坂は銃を持つだけ。一応ホルスターは渡したが、後十発あるかないかだろう。すでに四発も撃った銃。それを何のためらいもなくいまだに持っている。無法の快楽と言うべきものだろうか? 刀にはないが銃にはある。
それに獣は来るのが遅すぎる。血の匂いを無視したのだろうか。いやそんな事出来るはずがない。手負いの獲物をみすみす逃がすなんて……。もしかして、ライオンみたいに待ってるのだろうか?
私は周囲に慌しく目を向けながら、獣がいないか観察する。人見知りのおかげか視線は一つに絞らずに全体を眺めるように見れる。
左から物珍しそうに視線を向けられている気がした。まるで動物園の動物みたいな気分だ。
「……見るな、ヘンタイ」
軽蔑の眼差しを矢坂に刺した。自分の姿が野蛮なのはわかってる。刀を持つなんて平成の世じゃありえない事。
「何だよ、それ!」
「言葉のまんま。あー、獣じゃなくてこっちに殺されたらどうしよー。末代まで呪ってやる……」
これぐらい言ってやらなきゃ、何だか気が治まらない。理解出来ない感情が胃のあたりで固まってる。でも、少し嬉しくなってクスッと笑ってしまう。
「ちょっとだけどさ、お前が元に戻ってよかった」
「元に……? 咲羅が勝手に何か言ったでしょ?」
私は手を額に当て、うんざりして息を吐いた。
……戻ってないから。咲羅はいらない事を言ったに違いない。まあ、バレなきゃいいのは頭の中ぐらいだ。
「あんたは変。咲羅と何取引したん?」
「別に」
自分の時だけそうやって興味なさそうに言うのは少しばかりずるいと思う。
「別にいいよ、咲羅なら口割るし」
くまなく観察してみるが、獣の姿はない。だからって、道の駅周辺の林に入ったら一瞬で肉片になってしまうかもしれない。
もしかしたら、別の獲物をとりにいったのかもしれない。いや、負傷した獲物を狙うはず。肉食獣は群れで一番弱いのを見極める事も出来るのだから。
生き残っていた鳥が私の頭上を飛び去っていった。それも後方から来て、前方に飛んでいった。何かが引っかかる。
動物の感情は人間の感情よりも純粋なもの。人間を二面性というならば、動物は一面性と言えるかもしれない。動物にも二面性があるのかもしれないが、人間のように複雑ではない。人間は笑顔を作りながら頭の中では怒りを覚えてるが、動物はただ純粋に怒りなら怒り、喜びならば喜びがある。
あんなにあっさり諦めたけど、絶対に追ってくる。疑似餌を使う生物だっている。負傷した獲物を放っておいて、漁りにくるハゲワシをさらに捕食するものだっている。最後には食いたいがために。
背にしている方には、建物も道路もない。崩れないように補強した崖とその上に鬱蒼と茂る木々だけ。それに比べ、眼前には道の駅のバス停とその周りの道路。その奥には住宅が立ち並ぶ。
慌てたように羽をばたつかせて飛び去っていった鳥。巣の近くにあの獣がいて巣に戻れないんだ。
「後ろ……」
後ろにいる。
隣から銃声が響いた。矢坂の持つ銃から弾丸が発射されていた。驚いたがそれどころではなかった。
一瞬の静けさ。
森がざわめいた。
私は唾を飲み込み、刀の柄を固く握った。茂った草木の中から獣が見てる。私たちからは見えない。でも、そこにいる。
空気が凍ったように、その場から動けない。緊張感が全身を包んでいる。息を吐くだけでも神経をすり減らす気がした。油断すれば出てくる。
長い時間経ったかもしれないし、一瞬だったかもしれない。本当は獣なんて潜んでいないのかもしれない。
腹のあたりをギュッと縛っていた緊張が解けていく。その瞬間、茶褐灰色の体毛に覆われた生き物が飛び出してくる。捕食者の瞳がサーチライトのように光り、息が白くなって見えた。
着地と共にアスファルトを蹴り、刃物のような爪が振り下ろされた。四本の筋が道路に穿たれる。
私が三歩ほど退くと銃声が響き、獣の体が揺れた。肩の傷がよく見える。私は考える暇もなく、息を吐くと柄を片手で握り締めて斬りかかった。
下手に扱う武器より、野生の本能を知っている素手のほうが強い。私が日本刀を片手で操るのはほぼ不可能となぜか知っていた。本で読んだからかもしれない。いや、今持っている事でそう感じてる。両手でも慣れないものを楽に扱うのは不可能だが、それでも操らなければ死ぬ。
剣道も習った事がないため、アクション映画を手本にする私よりも獣のほうが遥かに強い。それでも、私の腕は止まらなかった。止まりたくなかった。斬撃とはいえない未熟な斬り込み。
心の奥で何かがざわめき、かき乱した。
刀を握るのは何かを守るため、なら私は何を守ってる? 小説の登場人物は何かしら固い意志を持っていたが、私にはそのような固い意志など見つけられない。私は生まれてこのかた三日坊主で一時的な弱い意志しか持ち合わせてない。だから、羨ましい。
未知の獣も出てこないし、機械も出てこない。拳銃のようなものは出てくるかもしれない。それでも、現在とは違う。守るものも違う。時代が変われば、それを実行する心も変わってくる。昔なら、仇討ちや戦争、守りたいものがあるからかもしれない。でも今は違う。逆上で簡単に殺してしまう事もある。人生が嫌になったから他人を殺す事もある。もしかしたら、復讐かもしれない。
だったらこれからは何のため? 生きるため?
シンディの仇のため。
殺しをしたくないのはわかってる。でも、今ここは生死をわける戦場なんだ。傷を増やすのは私の考えの結果。甘い考えだから……。いや、考えなんてないかもしれない。
それでも、今は生き抜く。私の命は、彼女が助けてくれた命だ。
私の背後から、さらに六発の弾丸が撃ち放たれた。よく平気で撃てるもんだ。十数発しかないんだから、途中でなくなったら、もう私の刀しかない。いや、それでいい。刀にはライムグリーンとラズベリー色のマーブル模様の液体がベットリとついている。血なのか、血に似たものなのか。でも、刃こぼれはしていない。見る限りは。
獣の肩には果物ナイフが刺さっている。獣の体格と比べると小さく見える。私がリュックから抜き取っていたケース入りの果物ナイフだ。矢坂にもしもの時の予備として渡した。心臓を抉り取られるのは免れたかもしれない。
それよりも、もう、腕を上げるのも現界だった。体育の持久走も最下位を争うほどの体力ない私には不可能だったんだ。左腕の痛みもまだあるし。
「いぁっ!」
熱を帯びた鋭い凶器の爪が私の肩を抉った。四度受けた攻撃の中では一番深い。
傷が増えるたび、「声」を求める心が大きくなっていく。あれにどんな作用があるかわからない。でも、今はそれしかない。
だけど、何か違和感を覚えた。二メートルはありそうな筋肉質の獣が非力な人間の子供二人と同等の力しかないのは可笑しい。傷もそれほど酷くない。像に踏まれても虎の檻に入れられてもこんな軽傷のわけがない。
私たち武器を持つからかもしれない。だけど、文明の利器を持たない獣は本能で人間より強い。まるでシャチが獲物で遊ぶかのような感じが引っかかる。
だけど、殺さなければ、私たちは殺される。
殺しは間違ってる。私たちが生きたいと思うように目の前の獣も生きたいと思ってるはず。
人間は生きる事の喜びをさらに受けようとたった一種で他の生命を殺しすぎてる。そして、自然界を汚してる。だから、人間がこの獣の怒りを買っても可笑しくない。どんなに怒りを私たちにぶつけようと根本は生きたいとい事だろう。
命は変わりない。人間だから上なんてない。すべて平等だ。人間が殺せる命があるとしたら、それはその命に対しても人間を殺す権利のある時。
私の良心がかけてるならこんなに考えずに殺せるはずだ。いや、これは良心から出てくる考えだろうか?
殺す事は喜び。生きてるものなど何もない。殺したって何も起きやしない。殺す事は普通の事。感情がなく、苦痛を感じる事はない。
そんな事思ってない。だから、殺せるわけがない。
いつの間にか、私たちは道の駅にある店の中で戦っていた。寒さも忘れて、全身が火照り、息が上がっている。商品は棚から落ちたり、踏み潰されたりして店内はグチャグチャだった。商品棚ももとの位置がわからないほど動いてたり、ひっくり返ったりしている。
私は左からの打撃を刀で防ぎ、引っつかんだワインのボトルを獣の顔面に叩きつける。顔の毛を切り裂くガラス片を振り払おうと獣が頭を振り、両手で液体を拭おうとしているところに矢坂が銃弾を食らわす。右の脛に銃弾がめり込んで普通は立ってられないと思うが、この獣は二発の銃弾と一度の斬撃を受けても立っている。異常だ。
二人は言葉も交わさず、一つのひっくり返った棚の後ろに隠れる。荒くなった息を整え、身を潜める。
私は矢坂に礼を言う事にした。死ぬのに備えてじゃなくて、ただの礼儀として。
「いとこの家の時、来てくれて……、その、ありがとう……。それと――」
目の前に落っこちていた割れた鏡が獣の姿を映し出していた。
私は言葉をグッと飲み込み、力いっぱい矢坂を脇に押しのける。私も反対側に飛びのく。獣の振り下ろした凶器に足が捕まった。半田鏝を押し付けれれる痛みがする。足をむやみに動かしながら、私は逃げようともがく。肉食動物に背中を向けるのは自殺行為――私を食ってくれと言ってるようなものだ。
発砲音が鼓膜を震わして、私は後ろを振り返った。獣はゴリラのような体はこちらに向けているのに頭だけがフクロウのように別の方向を向いている。
「こっちだ! 怪物!」
獣の目玉が弾き飛んだ。痛みを堪えるように唸り声が響く。
私は獣の首をなぎ払おうと、近くの商品棚をジャンプ台にして出来るだけ高く跳躍すると肩辺りに刀を構えた。獣の頭が飛ぼうとどうだっていい。
( )
記憶の一断片が見えた。血の池と手に持つ刃物。
吐き気がこみ上げ、切っ先が思いもしない方向へと向かってしまう。その甘い攻撃に獣は、うざったいハエを払うかのように私を殴り飛ばした。吐き気と衝撃で方向感覚を失う。
本能的な恐怖と言うべき何かがじわじわと這い登ってくる。ライオンが目と鼻の先まで迫っているインパラの気持ちが今なら本当にわかる。
一目散に逃げて安全な距離をとらなければならないと思う一方で地の果てまで逃げたいと欲求がある。
足がふらつき、その場に滑るように倒れた。最悪。こけてしまったインパラだ。
もう、死ぬ。喉を引き裂かれて、体は肉片にされて、獣の胃に放り込まれる。
シンディが残した命は消えてしまう。
嫌だと叫んだはずだったが、声にならなかった。もう一度立ち上がる体力もない。
それを見た獣が私に狙いを定める。
矢坂が気を引こうと三発撃つ。最後の一発は発砲されなかった。銃弾は獣の背中にめり込み、血のような液体が飛び散る。奇妙な緑色だ。
そして、黒と白の弾丸が獣の喉に突き刺さった。
「シンディ!」
シンディが獣の喉元に食らいついてた。ありえない。そんなはずがない。
だけど、嬉しい。
獣がこの世のものとは思えない叫びを上げる。
感傷的になってるひまなどなかった。だけど、体が動かない。
矢坂はこっちに向かってきた。
「おい!」
額を押さえていた私の肩を揺すった。痛みで戻された私は顔を上げる。
喉元に噛み付かれた痕がある獣が矢坂の後ろで腕を振り上げている姿が目に入った。全身が恐怖と怒りで言いようのない脱力感のようなもので満たされた。
血を噴出するロケットのように矢坂が飛んだ。
!
ホントに何かが切れるような音がしたかもしれない。
私は刀の柄を握り締めると、獣の首と胴体の付け根辺りを刺した。
( )
目の前が一瞬別の光景と重なった。テレビのスノーノイズのように何かが点々と見えた。視界がもとに戻った瞬間、風船が破裂したように勢いよく血が噴出すのを視界の端で捉える。
「フフハッ…」
血にかき消された誰かの笑い声が聞こえた気がした。
獣の爪が振り下ろされた瞬間、私は獣の脇に滑り込み、つい先ほどまでいた場所に爪が食い込む。背後に回った私は落ちていた大きなガラス片を引っつかみ、獣の背中に突き刺した。血が噴き出し、一瞬のうちに蹴りを叩き込む。
自分の動きが信じられない。勝手に動いて、勝手に戦う。まるで死にたくないともがくように。それとも、戦いの中で自分を見出してるかのように。
それを実感してる間にコンクリートタイルの道に叩きつけられ、肺からすべての空気が押し出された。私は息を吸う暇もなく、獣に道路に押し付けられた。
頭が戦いから抜け出したように、考えた。今すぐ、矢坂の傷を見に行かねば。今すぐ、シンディの安否を確認しなければ。
――私 が こ の 獣 を 殺 さ な け れ ば 。
獣は頸窩に刺さった刀の痛みが感じないとでも言いたそうに哮り、私に腕を伸ばした。いや、私に同じ痛みを与えようとしている。鋭い爪が生えた大きな手は私の首を鷲掴みにした。爪が食い込み血が流れた。少し冷たい。首だけを掴まれ、持ち上げられる。
二メートル以上はありそうな獣と同じ目線に上げられると、足が宙に浮いた。自分の手も足も力なく垂れ下がっている。
今ならじっくりと獣が見える。まさに狼といった顔。逆V字に尖がったの耳。琥珀色の狼の目。突き出た鼻。発達した犬歯が口からはみ出ている。顔は短いグレーの毛で覆われて、体は四足歩行動物にはない鎖骨があり、違和感なく人間の体に近い。綱のような筋肉がしっかりとついており、ゴリラのようでもある。
人間が人工的に作り上げたものじゃない、生物としてこの世界にいても何の不思議も感じない生き物。人狼だ。
頭を引きちぎられるか、頭を噛み砕かれるか、首を握りつぶされるか、と思ったが、重心が揺らいだ。
声も上げれないまま、道路に叩きつけられ、大きな足で身体を押さえつけられる。プレス機で押しつぶされ、内蔵が飛び出るんじゃないかと思ってしまうほどの力。
人狼は首から刀を抜くと、不思議そうに刀全体を見て、柄の部分を握った。そして、大きく高く振り上げる。
私は文明の利器を持った獣に殺される。文明の利器に命を奪われるほど、不名誉な事は私にはない。
その目は動物のものではなかった。憤怒の色が見える瞳。まるで傍若無人だった人間を憎しんでいるかのよう。
隕石のように落ちてくる光の筋。銃声に近い奇妙な音が人狼の腕を貫通したが、振り下ろされた刀は止まる事無く突き刺さる。
まるでアーサー王の剣のように刺さっていた――硬いアスファルトに。私の首の横ギリギリに刃がギラついていた。
腕を貫かれた人狼は背後を振り向いた。
顔を動かした私にもその人物は見えた。知ってる。
( )
蘇る記憶に耐え切れず、記憶を停めた。




