十二月二十四日 金曜日 午前十一時五十分 食らうものは死肉
バイクは来た道を戻っていく。車の騒音がしない国道は不気味の文字以外ない。
脈を打つごとに燃えるように痛かった傷は少しずつ痛みが引いてる気がした。かなり食い込んだ傷は経験した事がないぐらい痛かったから、かなりの深手だと思ったけど、恐怖心から痛みが増したのだろうか。あの変な液体が傷を癒してるのだろうか。とにかく、ロブッたなんてもんじゃないはず。
攻撃をしてきたあの獣は案外あっさり諦めたようだった。
本来ならば、どこまでも追いかけられる限り追いかけるはずだ。絶好のチャンスが来た餓えた獣なら尚更かもしれない。
しかし、あの獣は食欲ではなく私欲に近い怒りが満ち、諦める事はなさそうな気がした。怒りだけが肉体を離れても追ってきそうなぐらいに。
それでも、あの獣は私に一撃を食らわせたためか、あまりにあっさりと諦めた。野垂れ死ぬとでも思っているのだろうか? でも、そのうち血のにおいを絶対に追ってくる。
自然界の怒りが集まったような生き物を目の前に、殺されても悪い気はしないと思ったのも本心だが、生きなければならないと思ったのも本心だった。
今までの私だったら恐らく死を受け入れていただろう。自分も彼らと同じ命の一つとして。
しかし、生きなければならないと今は思ってる。
理由はわからない。太古からの生存本能なのか。ただ死にたくないのか。それとも――。
道の駅に着くと、バイクから滑り落ちるように降りた私は布に包まれた棒を投げ置き、ベンチに歩み寄る。
声は何で聞こえない……? 足の傷を塞いだ声を待っていた。半液体状の塗り薬のようなものは、すでに肉に馴染んでいた。
あの声は流された血だけをどこかに流していく。だけど、獣によって負わされた傷も流れた血も違う。声も聞こえないし、血も普通に垂れ流しだ。
「リュックを、持ってきて……!」
私は叫ぶように頼んだ。ベンチに腰掛ける事無く、学校で机に突っ伏すようにした。このほうが楽だ。
額の血は止まったみたいだけど、チリチリと痛い。爪で削り取られた痛みではなく、刃物で切られたような痛みだった。
「どうした?」
「あの獣が……?」
「……何て事なの」
異常な事態を察した人が集まり始めた。
「傷を見せて」
一人の女性が前に出た。茶色に染まった髪を纏め上げていて、肌は日に焼けていない。
「看護師よ」
まさか映画のように医療関係の人間が出てくるとは思っていなかった。かなり大きめの箱を持ってる。
「立てる?」
答えるより先に私はよろけながら立ち上がった。脇から女性に抱えられた。私より身長は低くて華奢なのに力強い。
そのままトイレに連れて行かれた。こんな状況じゃなかったらカツアゲとしか思わないだろう。連れしょんって柄じゃないし。
トイレは公衆用のために小汚い。天井近くには蜘蛛の巣まである。バリアフリーの広い個室の便器の蓋を閉めて私はその上に座った。コートを脱いで服をたくし上げる。
「何なの、これ」
声がかすかに震えてた。
生々しい三本か四本の筋に赤黒い血があるのだろう。
勤務していて一生に一度見るか見ないかの傷のはずだ。動物に襲われたって、出来ない傷かもしれない。縫っても治らないかもしれないと私なら判断する。
「血が止まってるわ」
傷口がそっと撫でられる。針でちくちくと刺されたとうな痛みがする。背骨が見えても可笑しくないぐらい抉れてそうなのにありえない。失血して死んだって可笑しくなかったかもしれない。
昔から怪我をするのは日常茶飯事だったけど、痛みには慣れない。大きい傷なら洗って薬を塗ってガーゼを当ててテープで止める。小さい傷なら唾をつけて絆創膏。いつも家での治療だけで、病院にすら行った事はない。だから、母以外に治療してもらうのは初めてだ。
「消毒をしてガーゼを当てておくから……本当は病院に行かせてあげたいんだけど」
看護師の救急箱の中身はかなり充実してた。薬のビンやガーゼ、生理食塩水などがちゃんとそろってる。
「かなりの傷ですか?」
自分の傷の具合を知りたい。身がどれがけ抉れて、傷がどれだけロブるのか。
消毒液を吹きかけられたがあまり沁みなかった。ガーゼを当てられてもガサガサするだけで痛覚は刺激されない。
「正直、こんなのはありえなさそうだけど、今だってありえない事だらけだから」
看護師がありえないって言うなら、それはもうかなりの傷なんだろう。縫われるに私は切り上げようと思った。
「子供二人で何をしてたの? まさかあの狼みたいなのと戦った?」
あまり詮索されるのは好きではないが、この狭い空間で言葉が交わされないのはかなり辛い。だから、出来るだけ深くは話さないようにする。
「……いとこを迎えに来たんで。それで鉢合わせして……」会話が途切れて気まずい空気が流れると思って付け加える。「……あれは何なんですか?」
「さあ、知らないわ。だけど、逃げるのが先決。もう二人も殺されたの。さあ、これで終わりよ」
救急箱の蓋を音を立てて閉める。
テープで皮膚が引っ張られる以外には何も感じない。服の裾を下ろして、腕を振り回したり、背中をねじったりして感覚を確かめる。強い衝撃がない限り痛みは感じなさそうだ。
「ありがとうございます」
腕の傷をちらりと見てみたが、もうほとんど塞がってる。これってやっぱりあの塗り薬みたいなものの所為なのだろうか。
個室から出ると外で待っていた結が抱きついてきた。グッと何かを堪えるように服を千切れそうなほど握る。
結を抱え上げて、とぼとぼとバイクのほうまで歩く。
「あの……この子を連れて行ってもらえませんか?」
ここにあの獣は来る。それには確信があった。あれは人間ではない。動物に近い何かだ。それも飢えた。犬の嗅覚以上か熊の嗅覚ぐらいあれば、負傷した獲物を簡単に追ってくる。地面に血がついておらずとも空気中のにおいでやってくるから。
何より他人を巻き込めないし、私が撒いた種なのだから自分で回収するだけ。ここには私一人が残って足止めするつもりだ。
「そんな事出来るわけないでしょ」
子供を見殺しには出来ない。そういう体だけでも必要だろう。
「まだもう一人迎えに行かないといけないんで」
もちろん嘘だ。あからさまな嘘かもしれない。だけど、私にはそれぐらいしか言い訳が思いつかない。
「その子も連れて行かないといけないんです。すぐに追いつくので……」
もしかしたら、追いつけないかもしれない。それは私の死を意味し、逆の場合は獣の死を意味する。
私にあの獣が殺せるだろうか? 殺すしか方法はない。それ以外で足止めなど出来ない。これが生きるためなのだろうか?
理解出来ない吐き気がこみ上げる。まるで狂犬病の疑いがあるからってだけなのに殺処分を迫られてるみたい。だとしたら、私は殺すか? いや、答えはない。学校の部活で殺処分した場合点数をやると言われても私は迷うだろう。
私にとっては、母親が愛した子供を殺されるに等しい。だからって自分の場合はそうは思えない。母は私を愛してくれていただろうか?
嫌な考えを振り払うように結を抱き返した。少なくとも結は私の愛情を受けてるはず。だって、いとこで唯一念願の女の子だから。右も左も男ばっかりの上に私は親戚の子供の中で一番年上だった。結とは九歳ほど離れていたが、生まれた時は喜んだ。それからはまあ、あれなのだけれど……。
「お願いします」
看護師の女性は私の瞳の奥を確認するように見つめてきた。
もうちょっと何か言わないと信用されなさそう、と思って武術でも習ってるとか言えば何とかなると私は考えた。
「……いいわ。三〇九をずっと歩いてるから」
もしかしたらこの人は、得体の知れない状況の上に捕食者がいてもその恐怖に打ち勝ってる気がした。職業柄以上に精神的に強いのだろう。
私は結を下ろして、目線を同じになるように膝を曲げた。
「結。絶対に迎えに行くから、待っててね」
バイクの後方に備え付けられた鞄から結の荷物を出す。
バイクに寄りかかっていた矢坂に顔を向ける。
「あんたにも結を頼む」
一人であんな獣を倒そうなんて自殺行為かもしれない。だけど、殺しをするのは重圧だ。それを誰彼構わず負わせるわけにはいかない。銃という武器だけじゃない。行為一つ一つに相手を殺す力がある。
それに、万が一殺されたら? 結や矢坂が死ぬのは私自身が死ぬのと同じ。すでに私の三分の一がシンディとともに死んでる気がする。
あの時は激しい怒りを感じなかったのに今になって腸が煮えくり返る。慈愛に満ちたシンディを殺したあいつに殺意を覚える。生まれて初めて覚える殺意を処理しきれずに、手のひらに爪が食い込む。
「お前一人であの獣をどうにかできるはずないだろ。こっちだって咲羅にお前の事を頼まれてんだ」
納得した。矢坂が私についてきた理由が。咲羅に取引でも持ちかけられたに違いない。私を見張る代わりに、サバイバル術を一つ教えるとか安全な場所を教えるとか……いや、違う。咲羅ならそういうのは全員に平等に分けるはず。だとしたら、何だろう? お金とか。いや、紙切れ同然だ。
矢坂は私が考えている間にもくどくど言っていたみたいだが、まったく耳に入ってこなかった。
「死んでもらっちゃ困んだ」
その時初めてシンディの瞳に灯っていたあの光の正体がわかったかもしれない。私の解釈が少しでも正しければ、死んでほしくはない、という事。涙腺は緩みそうになるのに私は頬が綻ぶのを感じた。
「そう……わかった。死ぬつもりなんてない」
その返事は矢坂にしたのか、今は亡きシンディに対してかはわからない。
結が持ってきた荷物だけを持たせて行かせた。私たちは獣を迎え撃つ。




