十二月二十四日 金曜日 午前十一時二十九分 人智と戦う遭遇
すべての音が一瞬止んだ。
なるべく顔を出さないようにして何かがいると思われる部屋を私は覗く。その瞬間、全身が瞬間冷凍された。
怖かった。シンディに隣にいてほしかった。
嘘だ。ありえない。ありえない……。
コソ泥のほうがまだマシなどと考える事も出来なかった。
全身毛むくじゃらの生き物。半獣のようにも見えたが、人間の形に近い動物だった。
相手も見てる。私も見ている。視線が一本になっていた。
心が掻き乱され、ピースが別の場所にぴったり嵌められたような感覚が全身を駆け巡った。
私の手からクラブが落ちるのと同時に相手は動いていた。
赤が舞った。
腕に痛みを感じた時にはもう時間が経っていた。
琥珀色の力強い瞳。突き出た鼻。逆V字型の耳。グレーの毛。顔面は短い毛で覆われている。額辺りから鼻にかけて色の濃い毛が生えている。まさに狼。ウェアウルフやライカンスロープと呼ばれる伝説にあるような生き物だった。
筋肉の盛り上がった腕の先にある五つの鋭い爪が、私が隠れていた壁とその奥にある腕を一緒に裂いていた。
血がポタポタと垂れ、床に小さな池を作り、腕に抱いていた上着は床に落ちて血を吸う。
私は奪われていた思考を戻すと、クラブをすぐにとった。それで獣の頭を殴った。
いつもなら躊躇っていたが、絶対的な命の危険にさらされている今は別だ。
自分が動物に殺されようものなら抵抗せず死を受け入れる。
その思いは消えてはいなかったが、今の私は忘れる事にした。今あるのは生きる事。ただ生きる。生き延びなければならない。思いが全身を動かした。
クラブでもう一度殴りつけると、足を突き出した。硬い筋肉に跳ね返され、クラブでもう一度殴った。
獣はうめき声のような声を上げ、クラブを持ち伸ばしていた私の腕を噛み砕こうと顎門を開いた。黄ばんだ鋭い歯が並んでいる。人間の指よりも大きそうな犬歯が上顎と下顎に二本ずつある。
腕を引くと指に犬歯の先端が引っかかったが何とか噛み切られる事は避けられた。クラブの鉄棒部分が噛まれ、半分に切断される。床に落ちた真っ赤に染まった衣類を拾い上げ、投げつけた。
視界を失った獣は鋭く尖った爪の生えたがむしゃらに腕を振り回す。
真っ二つに噛み切られたクラブの一方の鉄棒を拾い上げ、獣の肩に向かって突き刺した。血のような気味の悪い色が一瞬吹き出る。
( )
一瞬止まった獣の脇を抜けると、隣の家に逃げ込むと机の下に滑り込む。動物――主にイヌ科の知識を羅列して対策考えていた刹那、銃声が響いた。
あいつ……!
怒りよりも私は驚愕していた。あの道路に落としたままだと思っていた拳銃を拾っていたという事にも驚いていた。
「ぅっそだろ…………」
廊下の方から聞こえた。小さな声だったが、私は確信した。獣と人間が向き合っている。胃が反芻しようとしている気がした。
もしも、あれが……ホントに人狼だとしたら? 人間を殺す? 満月は? 人間なのか?
一時的な結論はどうしてか、ジェヴォーダンの獣はあの獣がした事かもしれない、だった。
二発銃声が聞こえた。
たった一秒の間に、無意識のまま私の思考回路が動く。
殺される……殺される! 嫌だ。死を見たくない。嫌。死を。私が……。
机の下から這いずり出ると、椅子を引っつかんだ。ほとんど力の入らない左手。血で滑る。
雄叫びが聞こえたかと思うと、もう一発銃声が聞こえた。凶器が火を噴いた。
視界が滲んでいた。私には獣の顔まではちゃんと見えていた。だが、向かい合っている者の顔までは見えなかった。
「やめてっ!」
私は振り上げた椅子を振り下ろした。何とも例えようのない音がし、獣の上に降りた椅子。衝突した瞬間に椅子の重みを感じ、手を離した。
「お前……」
声が聞こえ、顔を確認する暇も無く、私に何かが飛んできた。腹に鈍い痛みを感じ、気付いた時には机が見え、その向こうに獣がいた。怒りを煮え滾らせた瞳が私を見ていた。
大きな足音で獣は私から視線を離した。バットで殴りかかろうとしていた矢坂を逆に殴り飛ばし、床を蹴り、つい先ほど私が隠れていた机に乗る。机の脚が軋む。
ダイニングの床から五十センチほど高いリビングとなる和室の部屋の入り口の段差に凭れ掛かり、思考を巡らせてはいなかった。痛みと状況についていけず、自分だけが停まっていた。
文字と言うべきか、感情と言うべきか、ある感覚が全身を駆け巡った。
死だ。
「嫌だ!!!」
足もとのマットを投げつけると、開けた事も開いていたのを見た事もないベニヤ板で作られた扉を見た。机の上の堅そうなものを引っ掴み扉に殴りかかり、打ち破った。
扉の先には段差がいくつもある。階段だ。その上からは光が射している。埃が舞い、覆い、まったく使われていないようだった。
私は獣を確認する事無く、階段を駆け上がる。逃げているのかおびき寄せているのかわからない。あれだけの敵意があるなら殺人蜂並みに――二つの種の目的は違うが――追ってくると私は確信していた。
二階には箱がたくさんあった。埃を被り開けられるのを待っていたかのように。本来ならねずみがいるかもしれないが、一階であれだけ騒いでいたら巣穴に戻っているだろう。
一つだけ作戦が思い浮かんだ。
いつも通り突拍子もなく、成功率もほとんどない上に相手の敵意にかかっていて、尚且つ結を危険に晒す事になる。
抉られた腕に痛みがぶり返してきた私は、痛みを振り払おうと近くにあった箱を投げつけた。軽いものをいくつも。階段を転げ落ち、何個かは蓋が開き中身が散らばった。転がり出た中身を見ると私は二つ目の作戦を練り上げた
。
荒い息遣いと、怒り狂った叫びが聞こえた。
私は一つ目の作戦を破棄した。よっぽどの勝機がなければ、もしもの時はどうしようもない。
確認するようにゆっくりと足音が階段を上ってくる。段が重みに耐えられなくなって折れた。階段の出入り口となる場所と反対側、すなわち獣が上がってきた時に背になる場所に逃げ込む。獣が来るまでにそれほど時間はかからなかった。一秒にも満たず、獣は階段を駆け上がり、埃の舞う部屋を見渡した。
逃げ出したい。その気持ちを抑える。落ち着け。落ち着け。
丸められた掛軸を握り締め、私は震えだしそうな腕を押さえると、においで気付かれる前にと壁の上に乗った。
それと同時に獣が気付いた。
静と動。
私は落ち着いて獣を見た。
獣は怒りを露にして私を見た。
獣が床を蹴った。埃が舞い。足がついていた床は軋み、凹みを作っていた。
少しの差を作り、私は身をかがめ、落ちるように階段に下りた。想像力豊かな脳が最悪の事態を想定する。
大きく跳躍していた獣は目の前から消える獲物を追いかけ、腕が動いた。私の額を切り、髪が舞った。
右足が段に着く。続いて左足も段に着く前に落とした箱に着いた。バランスを崩し、背中から落ちていく。まだ、七段ほど残っている。
景色が動いた。髪の毛が見える。ドンッと鈍い乾いた音と共に足に痺れを感じた。
気付けば、私は両足でしっかり立っていた。上手くいったんだ。
足もとを見た。古そうなものばかり転がっていた。砕けた壷、散らばった小判、解かれた掛け軸、鈍く光る手裏剣、布で包まれた棒。
私は布の隙間から見えた柄を見つけると、それを引っつかんだ。
( )
左腕の痛みがさらにぶり返し、淡く蘇る記憶を振り払い、机を跳び箱のように飛び越すと二つの家を繋ぐ廊下に出た。
廊下で誰かと正面衝突しそうになった。
「……大丈夫だったか?」
私は自分のした事が信じられなくて、首を縦に振る事しか出来なかった。それも出来たかわからないうちに家を飛び出していた。
「あれ、何なんだよっ!!」
矢坂は私の腕を引っ張り、門を通り抜け、少し坂を駆け上るとバイクとその横に結がいた。荷物は備え付けの鞄のようなもに詰め終わっていた。
素早く矢坂がバイクに乗る。結を押し上げるように乗せてからその後ろに私が乗る。
エンジンの噴く音がするとガラスまたは壁を突き破る音がした。
「出して!」
哮る声が迫っていた。道路に擦れる爪の音と荒く息を吐く呼吸が後ろに続く。
突然、音が止んだ。
私は後ろを振り返った。
道路を蹴って跳び上がり、腕大きく振り上げ、切り裂いた後に噛み付けるようにと牙の生えた顎をいっぱいに開いていた。
私に向けて凶器の腕が振り下ろされた。
( )
片手に持った布に包まれた棒を握り、もう一方の腕で矢坂との間に結を納めるように、そして恐怖を忘れ去るために私は矢坂に回した腕に力をこめた。
「っぁ!」背中を焼き鏝を走らせたような猛烈な痛みに私は唇を噛み締めた。
矢坂は迫っていたのがわかっていたのか、少し速度を速めたために、私の背中を骨まで深々と裂かれていなかったが、それでも深く裂かれているに違いない。
「クッソ!」
矢坂はアクセルを握り締め、一気に速度を上げた。
「つぅちゃん……?」
消えそうな意識の中で私の耳に結のかすかな声が聞こえた。
「大丈夫……結。矢坂、出来れば、来た時にあった道の駅に止まってほしい……」




