3-4 私の友達に手を出したら、ただじゃおきません
ベトナム、ハノイに渡って1年が経った。ハノイは英語を話す人も多く、ボニーからは英語を、ヴィンセントからはベトナム語も教えてもらって、どちらも日常会話程度には話せるようになっていた。この家には金もたくさんあったし、貯蔵していた麻薬もすべて破棄した。麻薬と屋敷を取り返しに来た、同系列と思われるマフィアを全て返り討ちにし、平和な日々が続いていた。この間にミナたちはハノイではすっかり有名人になってしまった。目立つことは避けたかったが、組織を一つ潰して家を強奪するなんて大事をやってしまったものだから、当然と言えば当然だった。
「ミナ! 今日は絹の服が入ったよ!」
「ミナ! 中国から珍しい輸入品が来たよ。見て行かないかい?」
町に出るとこの調子だ。
いつものように喫茶店に入ると、「こっちだよ!」と花のような笑顔を向けてくれる少女。柔らかい栗毛色の癖毛をツインテールにして、大きな瞳を細めて笑う彼女の名前は阮香春――グェン・フォン・スアン。妙な男に絡まれているところを助けてから仲良くなった現地の女の子で、勿論人間。
当然、彼女には吸血鬼だなんて言えないが、例の「家」にいる素性のわからないミナにもとても親しくしてくれる。彼女は母親が頑張ったお陰でなんとか大学を進学できて、今は学校に通いながら出版社でアルバイトしている。兄弟が9人もいて、弟妹の面倒を見るために一生懸命働く、本当にいい子だ。
だからミナが春とお茶するときは、春はいつも遠慮するがミナが奢る。自分がそうしたくてそうしているのだし、なによりこの金は他人の金なので執着は薄い。
ミナが喫茶店に入るとあちこちから「あ、ミナだ!」「ミナ!」と声がかかるので、笑顔で手を振り返す。地元の人たちにとっては英雄のような存在なのだと春が言っていた。
あの家の元の持ち主はデイヴィスファミリー。マイケル・ダン・デイヴィスを筆頭にしたマフィアで、麻薬、金融、少女売春と児童ポルノで財を築いた一家である。盾の中の大鷲が鍵を抱きしめた姿の家紋が門や玄関に施されているのだが、それをマークとしているようで、マフィアの構成員の死体に、同じマークの刺青を見かけた。そのマークを見ると街の人たちは怖がって近寄らないし、来店されると他のお客さんが帰ってしまって商売あがったりという事もしばしば。
麻薬の売買がメインのマフィアなので、街の人に暴力を振るったりと言う事は多くなかったが、その潤沢な資金を元にした金融業や、少女売春業の餌食にされてしまった人は多い。警察も買収済みなのか、殺人など余程の事がなければ市民の訴えに耳を貸すことはない。
ハノイは都会だからまだよいのだが、少し外れた郊外の方では、貧困から抜け出したくてデイヴィスファミリ-に縋った為に、借金まみれになり子どもを良いところで働かせると騙され、子どもの純潔を奪われ麻薬で精神まで崩壊し、更に不幸が上塗りされるという酷い有様だったのである。
だから、その実情を知っているすべての人にとって、警察にも誰にもどうしようもなかった不幸を、思いがけず(ヴィンセントには目論見通りだが)絶ったミナ達は、人々にとってヒーローに映ったのだ。
「ねぇ、ミナ。そう言えば、どうしてデイヴィスファミリーを潰そうと思ったの?」
「潰す気じゃなかったんだけど……色々あって」
「色々って?」
これを言ったらひんしゅくを買いそうなので言いたくないが、急かされて渋々口を開く。
「泊まるところがなくて、そしたら、ちょうどいい家を見つけて……」
「それがデイヴィスファミリーの家だったの!? アハハハ!」
やっぱり笑われてしまった。
「ホテル代わりに家を取られるなんて聞いたことないよ!」
「うん、本当だよね。私はそんなつもりなかったんだけど、仲間がどうしても豪邸に住みたいって聞かなくて」
「無茶苦茶だね」
「そう、結構大変なの」
春は合っている間中いつも笑顔を絶やさない。春の笑顔は花のようで本当に可愛い。彼女の笑顔を見ていると癒されるし、彼女と過ごす時間をとても大事に思う。
「スアーン」
「ロン!」
ロンと呼ばれた男の子が同じテーブルに着く。黎黄龍――レ・ホァン・ロンは春の恋人で、ボニー&クライド顔負けの仲良しカップルだ。龍が孤児と言う事もあってか、龍はとても春を大事にしているし、二人はとても純粋で、お互いをとても大事に思い合っていて羨ましい。ミナもいつかは彼氏が欲しいものである。
「ねぇ龍、聞いてよ! ミナ達ったらね」
「もう! その話したらまた笑われちゃうじゃない!」
「まぁまぁ! あのね……」
「アハハハ! ミナ最高!」
「ほら、もう! 笑われたじゃない!」
春と龍と会っている時は本当に楽しい。今までの辛い事も全部忘れてしまいそうになる。自分が普通の女の子に戻ったような気がして、すごく幸せな気分だ。ずっと春と龍と友達でいたい。
「あ、私達そろそろ帰らなきゃ」
時計を見るともう夜8時を過ぎていた。
「遅くまで引き留めちゃってごめんね! 送っていくよ!」
「大丈夫だよ! 今日は義もいるんだし! 心配しないで!」
「そっか。じゃぁまたね!」
「うん! またね!」
お店を出て大きく手を振って二人と別れた。この時間が楽しすぎて別れがいつも寂しい。また会いたい。早く会いたい。まるで恋をしているみたいでおかしい。
「ただいま帰りましたぁ」
家に入って広大なリビングに行くと、ヴィンセントが新聞を読んで、メリッサが猫と遊んでいた。
「その猫どうしたんですか?」
家を出る前まではいなかったはずだし、メリッサは野良猫を拾ったりしなさそうだ。それに、どう見ても野良猫ではない。絶対に値の張る血統の猫だ。そんな顔をした猫である。
「さっき、お散歩に出たらね、町のペットショップの店員さんがくれたのよ」
「え? くれたんですか?」
「ええ。仕事がしやすくなったお礼ですって。レオって名前にしたのよ。可愛いでしょ?」
メリッサは猫にほっぺをスリスリしている。いかにも高貴な白い毛並みの、青と黄色の瞳をしたオッドアイの猫、レオは澄ました顔をしているが喉を撫でられて嬉しそうだ。
(めっちゃ可愛い!)
犬は苦手だが猫は大好きなミナも一緒に猫と遊んでいると門のベルが鳴った。
「はーい」
「すいません! ミナいますか!?」
慌てた様子のこの声は聞き覚えがある。
「私ミナだよ。龍? どうしたの?」
「大変なんだ! 春が……春が!」
龍の慌てぶりにただ事ではないと感じて、すぐ行く、とベルを切って慌てて門まで走っていった。門までたどり着くと、龍は本当に慌てた様子で、とても焦った顔をしている。その顔を見て焦燥が私にまで伝播して、思わず龍に掴みかかった。
「龍! 春が、どうしたの!?」
「どうしよう! 春が攫われたんだ!」
「なんですって!? どこで!? 連れて行って!」
「うん! こっちだよ!」
先程見送ったばかりだったのに、春が攫われた事でやっぱり送って帰るんだったと後悔した。
(絶対助けるから! 春、無事でいて!)
龍の後を追いかけて走る。しばらくすると、春の家に向かう人通りの途切れた道辻に入った。
「ここで、春は連れ去られたんだ」
「それで、そいつらはどっちに行ったの!?」
「あっちだよ。多分、歓楽街だ」
「歓楽街!?」
歓楽街に攫われるとは一体どういうことだろうか。もしかして、貧苦に喘いだ母親に売られてしまったのだろうか。
そういえば、何かがおかしいような気がする。ミナは何かをし忘れている、本当はすべきことを。不穏な気分になったが、首を振って打ち消した。今はそんな事を考えている場合ではないし、そんな事を考えたくもなかった。
「他に、何か手がかりになりそうなことある!? 何か言ってなかった!?」
「エンジニアの店がなんとかって言ってたと思う!」
「わかった! 私行ってくる!」
そう言って走り出そうとしたら「俺も行くよ!」と龍も着いて来ようとする。
「ダメ! 龍は待ってて!」
「でも、俺も助けに行きたいよ!」
「気持ちはわかるけど、攫われた女の子を助けるなんて危ないからダメ!」
「俺も戦うよ!」
慌てて龍を止めるものの、龍は必死に懇願してついて来ようとする。自分の恋人を取り返そうと思うのは当たり前だし気持ちはわかるが、そんな危険な場所に龍を連れて行くことはできない。
「戦いは、そんな甘い物じゃないよ。相手は銃を持ってるかもしれないんだよ。もし、龍が死んだら春を助けても、何の意味もないじゃない!」
「危ないならミナだって同じじゃないか!」
龍はどうしても引き下がろうとしないが、連れて行くわけにはいかない。
「私は大丈夫。お願い。私を信じて待ってて。絶対春を助け出すから!」
そう言うと渋々だったが「わかった。じゃぁ信じて待ってるよ」と言ってくれた。その返事を聞いて、ミナは一つ大きく頷いて歓楽街へ走り出した。この時はまだ助け出したい一心で、小さな矛盾に気付かなかった。
歓楽街に着くと、煌びやかな店がたくさん立ち並んでいる。この中から一軒一軒探すなんてやってられないので、近くで客引きをしている店員を捕まえた。
「エンジニアの店ってどこですか?」
「あぁ、奴の店なら南側のネオン通りの裏だよ。左から3軒目」
「ありがとう!」
すぐにその南のネオン通りを目指す。派手なネオンが輝く通りに出て、すぐ裏の通りだった。通りの裏に入って、左から3軒目。
(あそこだ!)
裏といっても一応ネオン通りだというのに、どういうわけかその店だけは控えめな電球で看板を照らしているだけで、客引きもいない。
ドアを開けて店に入る。薄暗い店内に怪しげな音楽が流れ、むせ返るような煙が充満している。奥の座敷には生気を失ったような娼婦たちがこちらをじっと見つめて座っていた。なんだか異様な雰囲気の店だ。売春宿に来るのは初めてだが、何となくただの売春宿ではない気がする。
「お嬢ちゃん何の用だい? うちで働きたいのかい?」
用心棒だろうか、屈強な男が話しかけてきた。
「そんなわけないでしょ。ねぇ、エンジニアの店ってここで合ってる?」
「あぁ合ってるぜ。それがなんだい?」
「今すぐエンジニアに会わせて」
男は「はぁ?」とバカにするようにミナを見下ろして、嘲笑するように笑い出す。
「ボスに何の用だい?」
「あんたみたいな三下じゃ話にならない。エンジニアに会わせて」
そう言うと男は笑いながらも、目はイラつきを顕した。
「テメェ何言ってんだ? テメェみてぇなガキがボスに会えるわけねぇだろ?」
ミナを店から追い出そうとその男は肩を押してきた。その手を掴んで力を込めて握りしめると、男の表情は苦悶を帯びてくる。
「会えるかどうかは聞いてない。会わせて、と言ってるのよ。さっさとエンジニアの所に案内して」
そう言うと、男は「わ、わかった、わかったから離してくれ!」と額に汗を浮かべた。
男の後を着いて店の奥に入っていく。白や水色、ピンクなど、色とりどりの薄布がいくつも天井からかけられて、煙も充満しているから視界も悪い。男は一番奥の部屋で足を止めて、ドアをノックした。
「ボス、すいません。ボスに会いたいって奴が来てるんですが」
「どうぞ。お通ししなさい」
中から返事があると、男はドアを開けてミナを部屋へ入るよう促した。部屋へ入ると余計に煙が濃くなる。発生源はここらしい。何の煙を焚いてる野か知らないが、煙が濃くてエンジニアの顔がよく見えない。
「あなたがエンジニアさん?」
そう尋ねると椅子がキィという音を響かせて、エンジニアがこちらに向いたのが煙の向こうにうっすら見えた。
「おや、女性の方ですか? いかにも、私がエンジニアですよ」
声は40代男性と言ったところだろうか。
「どのようなご用件ですか?」
物腰の優しい喋り方だ。こういう仕事をしてこの喋り方はいかにも怪しい。
「今日、ここに連れてこられた女の子がいたはずです。くせっけの茶髪で、身長は160センチくらい。水色のアオザイを着た子です。その子を返していただきたくて伺いました」
「ほぉ! これは驚きました。お友達ですか? それともご姉妹?」
直接奪い返しに来る人なんていないだろう。しかもミナは女だ。エンジニアは大層驚いたような言い方だ。
「友達です。返してくれますよね?」
「ええ。返して差し上げますよ。いくらでも」
エンジニアがそう言った瞬間、殺気を感じて横に避けると、銃声が鳴り響いた。
「残念、はずれです。さぁ、返してくれるんですよね? 早く返してください」
「むう。只者ではないようですね」
「只者が直接乗り込んでくるとでも? なんならお店を破壊してあげても構いませんよ。それとも、あなたを破壊しても構いませんが」
「いいえ。壊れるのはあなたの方です」
その直後ガチャンと音がしたかと思うと、連続的に銃声が鳴り響く。銃声に紛れてかすかに、店の方から娼婦たちの悲鳴が聞こえた。それに満足したように、エンジニアはふうと溜息を吐くと椅子に座りなおす。
「それ、サブマシンガンっていうんでしたっけ? 売春宿のはずなのに、大層なものをお持ちで」
「なっ! あ、なぜ!」
ミナの声にエンジニアは驚きを隠せないようだが、鉛玉如き当たったところで何と言う事もない(とはいえ痛いが我慢だ)。
「只者ではないと言った筈です。サブマシンガン如きでは、私を追い払うのには役不足ですね。さぁ返してください」
そう言いながら壁を殴りつけると、壁がガラガラと音を立てて崩れ落ちて、開いた穴から煙が逃げて、エンジニアの姿が見えてくる。そこにいたのは茶髪の40代後半くらいの男性だった。
ようやく顔が見えてこちらは安心し、あちらは顔が割れた事を不愉快そうに眉を寄せた。
「さぁ、あなたの命と私の友達、どちらを差し出してくれますか?」
「わ、わかりました。案内しましょう」
「案内? 冗談はやめてください。私は差し出せと言ってるんですよ。彼女を、いえ、今日連れてこられた方全員、無事にここまで、部下に連れて来させてください」
ミナの突然の要求の変更に、エンジニアは顔色を変えた。
「な、何を言っているんです! そんな事、聞き入れられません!」
「聞き入れる? あなたにそんな権利があるとでも? すべては私が決める事です。気が変わりました。もし、誰か一人でも無事でない人がいたら、あなたの命を含め、全てを奪います。彼女一人だけ差し出すなら、あなたの命だけは保証しましょう。全員を連れてきてくれたら、命も財産も、何もかも保証しましょう。少しの労力とお金が水の泡になるだけ。悪い取引ではないと思いますが、どうしますか?」
「ぐっ……」
エンジニアは悩んでいる様子だ。さて、この店を壊してしまおうか。そうすれば早めに片が付くか、いや、短気を起こされては困る。エンジニアの返事を待ちながら考えていると、突然部屋のドアが開いて、さっきのマッチョ男が顔面蒼白で入ってきた。
「ボス! 大変です! 妙な4人組が乗り込んできて鳥籠が破られました! 女たちには全員逃げられました!」
とマッチョから報告を聞いた瞬間、ヴィンセントが話しかけてきた。
(ミナ、こんな面白そうなことを独り占めするなんてズルいではないか)
(もしかして、鳥籠を破ったって……)
(あぁ、お前の友達も無事だ)
(ていうか、なんで知ってるんですか……鳥籠だって私、今知ったのに!)
(私を甘く見るなよ)
(んもー! まぁ、いいや。ありがとうございます)
(女たちは中央公園に集めている。お前も来い)
(はい)
美味しいところを全部持って行かれてとても残念ではあるが、春は助かったようなのでよしとすることにした。
「エンジニアさん、壁一枚で済んでよかったですね。それでは私はこれで」
狼狽えて目を白黒させるエンジニアにとどめを刺しておく。
「あ、最後に一つだけ。私に逆らったら、壊れるのは鳥籠と壁だけじゃ済みませんから。町で私に会った時はお気を付けくださいね。では、お体にはくれぐれもお気をつけて」
さっさとエンジニアの店を出て町へ走り、途中で龍の家に寄り、龍を連れて公園へ向かった。公園の中央付近にヴィンセントとメリッサ、ボニーとクライド、そして20人ほどの女性の中に春がいた。
「春、無事でよかった! 大丈夫!? 何もされてない!?」
彼女を見つけた瞬間に駆け寄って、龍と二人で春を抱きしめると彼女は急に泣き出した。それを見てミナも龍も慌てだす。
「春まさか、何かされたの!? あいつらやっぱりやっつけてくる!!」
駆け出そうとすると春にワンピースの裾を引っ張られて、引き留められた。
「ミナ、違うよ。何もされてない。でも、すごく怖かった……」
そう言うと春はしばらく声をあげて泣いた。
「春、無事で本当に良かった。怖かったね。早く来れなくてごめんね」
「ううん。助けに来てくれてありがとう」
「ていうか、直接助けたのは私じゃないけど」
と自分で言ってようやく思い出す、腹立たしい現実。
「ていうかそうだよ! ちょっとみんな酷くないですか!? 美味しいとこだけ持ってって! 私、エンジニアにケンカ売っただけじゃないですか!」
そうみんなに向かって吠えると、みんなはヘラヘラ笑っている。
「いや、お前が暴走しているものだからつい、放っておこうと思ってな」
「放っとかないでくださいよ! 私は龍に絶対連れ戻すって大見得切ったのに! 超かっこ悪いじゃないですか!」
「いや、しかしお前の脅迫は中々よかったぞ」
「えー? なになに? なんて言ってたの?」
「一番良かったのは「あなたの命と私の友達、どちらを差し出してくれますか?」だな」
「ヒュー! カッケェー!」
「それから、散々脅しておいて最後に「お体にはくれぐれも気をつけて」だと」
「うわ! 怖!」
「ていうか、私脅迫して壁壊しただけですよ! 撃たれ損ですよ! 割に合わない!」
ミナ達でワーワー言っていると、春と龍が掴み掛る勢いで傍に来た。
「ミナ撃たれたのか!?」
「え、いやー全然平気。避けたし」
「って服、穴だらけじゃない!」
「あ、大丈夫。無傷だよ」
「こんなに撃たれて無傷なはずないじゃない!!」
「ホントだって! 服の中に鉄板仕込んでたから! 大体撃たれて怪我したなら今頃病院行ってるか、死んでるかしてるよ!」
「あ、そっか。それもそうだよな」
二人はホッとした顔をする。危ない危ない。ミナもホッとした。
「今度からは二人が何と言っても絶対、帰りは送るからね!」
そう言って春の手を握ると、春は少し戸惑ったようだが「ありがとう」と、握った手を握り返してくれた。
二人を家まで送っていく。春の家に彼女を送り届けると、彼女の母親の雪――トゥイエットが号泣しながら春を抱きしめていた。遅くなったのを心配したのか、弟妹達も春をわらわら迎えに来て足元に抱き着いていた。
雪の様子からして、家族に売られてしまったわけではなさそうだ。春が可愛いから攫われただけかもしれない。「だけ」と言っても許せることではないので、やっぱり後日灸をすえることにする。
雪の涙を見て両親を思い出した。今頃どうしているだろう。二人とも元気だろうか。もう二度と会えないのだろうか。30年くらい経ったら、会いに行っても大丈夫だろうか。
「ミナ、本当に、本当にありがとう」
考え事をして異次元トリップしていたら、雪のお礼の言葉に現実に戻された。雪は涙を流しながら何度も何度もお礼を言ってくれる。
「いつも春には仲良くしてもらっててお礼を言わなきゃいけないのは私の方です。春は大事な親友ですもの。どこにだって助けに行きます」
そう言うと雪はまた涙を流して何度も何度もお礼を言った。
登場人物紹介
【阮香春 グェン・フォン・スアン】
ミナの友達。母親の金雪キム・トゥイエットと9人の兄弟と11人暮らしで割と苦労しているが明るくていつも笑顔を絶やさない。
母娘の努力で何とか大学に進学できた苦学生。
【黎黄龍――レ・ホァン・ロン】
春の恋人。春をとても大切にしているので、同じく春を大事にしてくれるミナも大好き。
普段は缶詰工場で働いている。孤児で結構な苦労人だが真面目で優しい。
【マッチョ】
オツムが弱そうな用心棒。普通の人間相手ならそこそこ強い。エンジニアの腰ぎんちゃく。
【エンジニア】
本名は不明。「うまい事世渡りする技術者」という意味でエンジニアと名乗っている。
一見好々爺のような物腰の柔らかさがあるが、その本質は非情。




