1-2 吸血鬼は世捨て人になるのです
「とりあえず、お前はこれで晴れて化け物になったわけだ。これまでと同じ生活をすることは不可能だ。日の光に焼かれれば死ぬ。夜しか生きることはできない。人間の食べ物を私達は受け付けない。私達の食料は血液だ。私達吸血鬼の血液に対する渇望は人間の食欲のそれとは比べ物にならない。腹が減ればところ構わず襲いかかるだろう。友達や家族を餌にしたくないなら縁を切れ。不死身で年を取ることもない。ずっと同じ場所に定住することもできない。今までの人間との関わり、お前の人間としての全てを清算してこい」
ヴィンセントにそれだけ言われて、家を出された。
とぼとぼと歩きながらヴィンセントに言われたことを反芻する。
今後、ミナの食料は血液……人の血がないと生きられない。家族を餌にしたくないなら縁を切るしかない。友達や、家族を餌に……絶対にしたくない。
年を取ることはない。30年後も50年後も年を取らない人間なんて気味が悪いに決まっている。定住は、できない。
ヴィンセントの言っていた言葉、その意味をよく噛み締める。だけど、ミナは昨日まで普通の人間だった。家族と食卓を囲んで友達と笑い合って、それが当たり前だと思っていた。
(離れたくない、ずっとここにいたい。私の居場所はここしかないのに)
どうしようもなく辛い。悲しい。
自分はもう人間じゃない。でも、その現実を今すぐ受け止める事なんてできない。自然と涙が溢れてくる。自分が馬鹿じゃなかったら、昨日あの店に入らなければ、こんなことにはならなかった。後悔しても今更、遅い。涙が止まらない。
段々と周りが眩しくなって駅が見えてくる。なんだか蛍光灯の光が、すごく眩しく感じる。そういえば夜なのに、特に暗いなんて思わなかった。蛍光灯の明かりが眩し過ぎて気持ちが悪い。これが夜に生きるということだろうか。光は、敵。現実に思考が一歩近づくと絶望も一歩近づき、過去は遠く離れていく。
また涙がこみ上げてくる。こんな人通りの多い所で泣きたくない。必死に涙をこらえて、駅の構内に足を踏み入れた。
その瞬間、女性の悲鳴が聞こえた。
「ひったくり! 捕まえて!」
遠くの方で女性が床にしゃがみ込んで、男がこちらに女物のバッグを握って走ってくる。
(捕まえなきゃ!)
そう思って走り出した瞬間、ミナは男の目の前に立っていて、避けられずに男にぶつかってしまい、男はその場に倒れこんだ。
(え? 今の、何? 私、ここまでどうやって……)
動揺している間に男が逃げ出そうとしているのに気付いて、我に返って慌てて男の腕を掴む。
「ギャァァァァ!」
男の悲鳴が構内に響く。
「いっ! 痛! は、離しっ!」
男は必死にミナが掴んだ腕を離そうとする。それは、そよ風のようにか弱い力で。しかし男の顔は必死で、額には汗が滲んでいた。
ミナが男を捕まえている間に、サラリーマンや駅員がやってきて男を取り押さえたので、ミナは腕を離した。
「お嬢ちゃん勇敢だね!」
「姉さん大したもんだね! 柔道でもやってたのかい?」
通りかかる人が話しかけてくるけど、ミナはこの事で、自分が人間ではなくなってしまったという事を実感してしまって、彼らの賛辞は耳に届かなかった。
見つめる先の小さな掌。今までとなんら変わらない自分の掌。それを見つめて戦慄するような事が、自分の力に恐怖するような事が起きるなんて、思いもよらなかった。
この力、これこそが、この暴力こそが人知を超えた化け物の証。風のように早く、海のように強い。この力こそが、今日のことは実は夢で、私は普通の人間なんじゃないか、なんて言う愚かで儚い願望を打ち砕いた。
今が昼間だったら、すぐにでも日の光に焼かれて死んでしまえるのに。人間じゃなかったら、生きてなんかいたくなかった。
あの男性は大丈夫だろうか。大の男をあれほど悶絶させる程の力なら、骨にヒビでも入っているんじゃないだろうか。
そう考えて急に不安になった。今まで他人に危害など加えたことはない。怪我なんてもってのほかだ。女性はお礼を言っていたけど、ミナのしたことは「悪」ではないと言い切れるのか。やりすぎてしまっては、たとえその行いが正義でも、立場が変われば「悪」になるのではないか。
電車の中で悶々と悩み続けていたら、いつの間にか降りる駅についていた。改札を通って家に向かう。
足取りが一段と重くなる。家族になんと言おう。父、母、年の離れた弟。こんな化け物になってしまったら、会う事などできない。化け物が近くにいたら迷惑をかけてしまう。それに、もし錯乱して家族を襲ったらと考えると、恐ろしくて仕方がない。家族の為にも自分の為にも、別れなければならない。
固く決心して、玄関のドアに手を伸ばす。が、玄関を開けることができない。家に拒絶されているような感覚。どうしよう、と玄関先でオロオロしていると、玄関のドアが開いた。
「お姉ちゃん!」
ドアを開けたのは弟の北都だった。
「何してんの? 早く入って?」
そう言われて、ようやく家が開かれた感じがした。
玄関で靴を脱いでいると
「お姉ちゃん! 昨夜はどこ行ってたの!? ぼく心配したんだよ!」
くりっとした大きな瞳を少しだけ潤ませて詰め寄ってくる。
「心配かけてごめんね」
そう言って北都の頭を撫でると、少し落ち着いたようだ。
「お父さんもお母さんも心配したんだよ? 早くこっちきて謝って!」
手を引かれリビングに入る。
ミナは決してお金持ちだとか、そういうのではないけれど、両親や北都がとても心配性で、門限付の箱入り娘。ミナに近寄る男がいると知れば、その度に父や北都が「うちの娘(お姉ちゃん)に近づく奴は許さない!」と喧嘩を吹っ掛けるものだから、今までお付き合いすらしたことがない。それだけ大事にされているというのもわかっている。だから、今から別れを切り出すのが辛いし難しい。
リビングに入ると、ソファで父と母が待ち構えている。父は明らかに怒っているし、母なんか泣きそうだ。心配性にも程がある。
「ミナ、ここに座りなさい」
そう言われてソファに腰かける。
「昨夜はどこに行っていたんだ。連絡もしないで。みんな心配したんだぞ! まさか男じゃないだろうな!」
近からず遠からず、性別だけは正解だ。父が真剣に心配してくれている様子を見ると、だんだん言いづらくなる。さようならと言いたくない。でも、言わなければ。
「そのことで、私も話があるの」
すると、みるみる父と北都の表情が変わる。
(あ、絶対勘違いしてる)
と思った瞬間、案の定父が激昂した。
「ミナ! どういう事だ! 結婚なんて許さん!」
「どこのどいつだよ! ボコボコにしてやる!」
まだ何にも言ってないのだが、この手の話になると、いつもこれだ。
「違うよ……お願い、聞いて?」
何とか誤解を解いて、父と北都をなだめることには一応成功した。
準備が整ったので、意を決して口を開いた。
「信じてもらえないかもしれないけど、私、昨夜化け物になったから、もうここにいられないの。さよならなの」
やはりというべきか、三人とも頭上に疑問符が浮かんでいるので、かいつまんで説明することにした。
「私ね、昨夜吸血鬼になったの。このままじゃみんなのこと食料にしちゃうかもしれないし、私、不死身だからずっとここにはいれないの。しばらくしたら出て行かなくちゃいけないの。馬鹿な娘でごめんなさい」
3人とも、だから何言ってんの? という顔をしている。当然だ。ミナ本人だって、昨日までなら信じられなかったと思う。
「お前は、そんなウソが通ると思っているのか?」
父がだんだん興奮してきたようだ。父が拳を震わせて立ち上がる。
「これだけ心配をかけておきながら……ふざけるのも大概にしろ!」
振り降ろされた父の腕を人差し指で止めてみせる。
「ねぇお父さん、これじゃぁ証拠にならない?」
小柄で、決して父には反抗しなかった娘が、父の鉄拳制裁を人差し指で止めてしまう。そんな光景を見せつけられて、3人とも今度は驚いた顔をしていた。もう一押しだ。
「ちょっと待ってて」
そう言って台所へ立つ。ホルダーからフルーツナイフを取り出し、リビングへ持ってきた。
「みんな見てて」
ナイフを手首に押し付ける。母が小さく「ヒッ」と悲鳴を上げて、北都と父は慌てて立ち上がった。
「やめなさい!」
制止の声を無視して押し付けたナイフを一気に引く。切り裂かれた箇所から赤い血が流れ出る。痛みなんて微塵も感じない。流れ出た血は滴り落ちることなく再び戻っていき、映像の巻き戻しのように傷口は静かに塞がった。非現実的すぎるその光景に、誰もが息を呑むのが見て取れた。
「ね? 私がもう化け物だってとりあえず理解してもらえた?」
自分で言っておいて傷ついた。ミナは本当に化け物になってしまった。3人ともまだ呆然としている。こんなものを急に見せつけられて、驚いて当然だ。自分の血に触れた物を使わせるわけにもいかないと考えて、ナイフを新聞紙で包んでバッグに入れていると
「ねぇ、化け物になったからって、どうして出て行かなきゃいけないの?」
目に涙を溜めた北都が縋り付いた。
「ぼくお姉ちゃんと離れるの嫌だよ!」
そう言って涙をこぼす。勿論、ミナだって離れたくはない。しかし、そうしないでいて、一体どうしろと言うのか。
「お姉ちゃんはね、吸血鬼になっちゃったの。吸血鬼は人間の血がご飯なの。吸血鬼はお腹が空いたら人の血を飲むの。それはそれはお腹が空くから、我慢できないんだって。吸血鬼に血を飲まれた人は、映画に出てくるゾンビみたいな化け物になっちゃうし、お姉ちゃんはみんなをそんな化け物にしたくないの。みんなをご飯になんてしたくないの。それに死なないから、私が100歳になってもこのままなの。そんなの気持ち悪いでしょ? だから、仕方がないんだよ」
できるだけ優しく諭すも、北都は腕の中で「嫌だ!」と泣いている。父と母も複雑そうな表情を浮かべていた。きっと、どうしたらいいのかわからないのだ。それはそうだ。家族が決められるようなことではない。自分が強行してしまった方が、きっと家族も諦められるだろう。泣きつく北都を離して
「じゃぁそういうことだから、もうしばらくしたら出ていくね。19年間育ててもらったのに、親孝行できなくてごめんなさい」
それだけ言って自分の部屋に戻った。
部屋は真っ暗なのに、昼のようによく見える。
(そういえば、私はもう太陽の光はダメなんだ)
この家にいるうちは、光を遮断できるようにしなければいけない。明日の日が昇るまであと4時間。早めにやってしまおうと考えて、早速作業を始めた。部屋にあった雑誌を切り取って窓ガラスに張っていく。それでも心配で、クローゼットの中の荷物を引っ張り出して、布団とガムテープを持ち込んで黒いコートを布団の上からかぶせる。ここまですれば大丈夫だろう。
そうこうしている間に深夜になっていた。もう夜中なのに、眠くもなんともない。改めて、夜を歩く生物に変貌してしまったことに落胆したが、何となく手持無沙汰になってしまって、荷物の整理をすることにした。持っていくものは着替えとお財布と定期入れと。あまり大荷物でもヴィンセントに怒られること請け合いだ。
纏めようとした時、机の上の家族写真が目に入る。ミナの高校の卒業式の日の写真。花を胸に付けたミナを中心にしてみんなが笑顔で写っている。写真の一枚くらい持ち出しても罰は当たらないと考えて、定期入れに写真をしまった。
(携帯と通帳は解約しなきゃなぁ。銀行にはお母さんに行ってもらおう。私、昼間は外に出る事は出来ないし。明日はバイト先にも辞めますって言いに行かなきゃ。急に辞めるなんて言ったら、みんなに迷惑かけちゃうけど……店長、ごめんなさい!)
今後必要そうな「人間としての人生の精算」を考えているうちに、眠気が襲ってくる。時計を見るともうすぐ5時、もうすぐ日が昇る。クローゼットに入り、隙間をガムテープで目張りして布団とコートをかぶって、深い深い眠りについた。
登場人物紹介
【永倉ミナ】
19歳。普通のフリーター。普通の家庭に生まれ普通のレベルの高校を卒業し、普通に就職難で普通にフリーターをやっている。
高校時代は工業高校の建築科で剣道部に入っていた。腕前はまぁまぁ。
座右の銘は「いきあたりばったり」直情型脳筋バカ。人の役に立つ事が好きで、褒められるのはもっと好きな天性の偽善者。
自分で自分の容姿をまぁまぁのはずだ、と思っているが、彼氏ができたことがないので、いい加減悩んでいる。
【ヴィンセント・ドラクレスティ】
500年ほど前に吸血鬼となり、不死王と呼ばれる吸血鬼の頂点。
外国人、本当は大陸の奴。ミナの飼い主で師匠。
変身できるのをいいことに、毎回超絶イケメンに変身して餌を引っかけている。
陰険、陰湿、卑怯、最低、ムカつく策略家。傲岸不遜な嫌な奴。
ただ吸血鬼の頂点に立つだけあって、超能力も使えるし半端なく強く、本当に死んでくれない。