2-2 北都と一緒なら頑張れる
それからしばらくの間、記憶が定かでなかった。一日中何も考えられず、動く事も出来ず、血なんか飲む気にもならず、時折北都のことを思い出しては泣いて、謝ることしかできなかった。2週間ほど経ったある日、ヴィンセントが「出かけよう」と言ってミナを外に連れ出した。
季節はもうすぐ夏。湿っぽい空気が鬱陶しく感じた。初夏の夕暮れに帰路につく人々が、「今日は暑かったな」「ビールが美味しいぞ」なんて会話をしながら通り過ぎていく。すれ違う人間たちが羨ましかった。先日までニュースは北都の事件で一杯で、殺された子どもが北都だけだったこともあり、ニュースで北都の顔を見かけることは沢山あった。ネット上でも事件について多く書かれ、犯人の川崎の身の上話なんかが、面白おかしく語られていた。だが、所詮は他人事なのだ。過ぎた事件に人々の興味は既に離れた。この事件は他人にとっては蚊帳の外で、感覚を楽しませてくれる映画とさほど差異はない。他人が通り過ぎているのを見ていると、無性に悔しくて腹が立って、歩きながら泣いてしまった。時折立ち止まってヴィンセントが涙を拭いてくれた。ヴィンセントがミナの手を引いてゆっくり歩く。どこに行くかなんて、どうでもよかった。
ただ、ひたすらヴィンセントに手を引かれるがままに着いて行く。かなり歩いて、途中で電車に乗った気もするが、正直覚えていないし、どうでもよかった。ヴィンセントが足を止めて、ミナも顔を上げる。そして目の前の建物を見て、ようやくミナは意識を取り戻したと同時に、ひどく狼狽した。
「ヴィンセントさん! 嫌! 帰りましょう! 私、私、お父さんとお母さんに合わせる顔なんてないです!」
そこはミナの実家だった。お葬式はとうに済んで、弔問客もいない淋しい家。
「嫌、嫌だ……私、どんな顔して会えばいいんですか? ねぇ!?」
「ミナ、大丈夫だ。落ち着け」
門前で口論をしていたら、声が伝わったのか玄関がカチャリと開いた。
「お母さん……」
「ミナ……!」
玄関先から姿を現したあずまは、ミナの姿をみとめると駆け寄り、わぁっと泣き出した。少しして再び玄関が開いた。
「ヴィンセントさん、ミナ……」
「おと、さん」
「ヴィンセントさん、ミナを連れてきてくれたんだね。ありがとうございます。さぁ、上がってくれ」
セイジは泣くのを必死にこらえながら、中に入るよう促して、ミナも渋々ヴィンセントに支えられるように家に入った。
「北都に言葉をかけてやってくれないか」
セイジがそう言って客間に案内する。客間には壁一面に白い布が貼られて、前面には菊の花が綺麗に生けられた祭壇があって、その真ん中でサッカーのユニフォームを着て、泥のついた顔の北都が満面の笑顔で佇んでいる。だが、その笑顔は写真で、本物の笑顔を見ることはもうできない。そう思うと堪らなくなった。
「うっ、う……北都、北都ぉ」
その場に泣き崩れたミナをヴィンセントが抱き留めてくれる。
「ミナ、北都にお線香をあげようか」
ヴィンセントに手をひかれ、ゆっくりと祭壇の前に足を進めようとしても、先に進みたくない。先にセイジかあずまが点けたであろうお線香の香りが鼻につく。位牌や数珠が恐ろしくて前に進めない。こんな時でも吸血鬼の掟は邪魔をする。それを察したのか、ヴィンセントは足を止めて、セイジに振り向いた。
「お父様、ミナさんはこれ以上近づく事ができません。少し、お話ししたいこともあるので、場所を移してもよろしいでしょうか」
そう伺いを立てて、3人でリビングに戻り、みんなでソファに腰を下ろすと、ヴィンセントが口を開いた。
「北都くんは肉体は死んでしまいましたが、完全に死んだわけではありません」
その言葉にセイジとあずまは顔を上げる。
「北都くんの遺言に従い、ミナさんは北都くんを吸血しました。北都くんはミナさんの中でこれからもずっと生き続けます」
ミナはわかっている。だがそんな事を、セイジとあずまには確かめようもない。そう思って落胆していると、ヴィンセントが覗き込んできた。
「ヴィンセントさん……?」
「大丈夫だ。そのままじっとしていろ」
そう言うとヴィンセントはミナの瞳を覗き込む。すると、すうっと意識が遠のき、気付くと大きなテレビのある部屋の中にいた。テレビの中には、両親とヴィンセントが映し出されており、自分が話している声が聞こえた。何が起きているのかわからずに呆然とテレビを見ていると、自分の声が信じられない事を言った。
「僕だよ、北都。お姉ちゃんの中にいる」
ミナの意識と入れ替わりに出てきた、北都の意識がそう言った。何が起きているのかわからずに、「どういうことなの!」と叫ぶと、北都が「ごめんね、お姉ちゃん。テレビ見てて」と言ったので、混乱していたものの、様子を見守ることにした。
突然北都だと名乗ったミナに両親とも唖然としていたが、北都が困った時にする、紙の襟足を撫でる仕草を見て、北都だと僅かに信じたようだった。
「北都? 北都なの?」
「そうだよ。お父さん、お母さん。ぼくまでいなくなっちゃってごめんね。でも、ぼくはずっとお姉ちゃんと一緒にいるから大丈夫だよ。お姉ちゃんの体を借りて、僕は生きてる」
その言葉を聞いてセイジがたまらず泣き出した。
「北都……すまない。守ってあげられなくて、俺は父親なのに、お前を守れなかった……俺は傍にいたのに……俺は……」
実のところ、セイジの方がよほど傷ついている。目の前で北都を殺されたセイジの辛さは、ミナも痛いほどわかる。父親なのに、家族を守るべき自分が、その責務を果たせなかった。その事で自分を責めて、北都に謝罪したいと心から願っていたのは、セイジに違いなかった。ミナは自分の悲しみに囚われて、自分だけが辛い気がしていて、その気持ちを気づいてあげられなかったことを悔いた。
セイジの謝罪を聞いて、北都は眉根を下げて笑った。
「やだな! お父さんのせいじゃないよ! 勿論お姉ちゃんのせいでもないよ! 悪いのはあいつだよ? あいつ以外誰も悪くなんかないよ!」
北都は腰に手をやって「何度も同じこと言わせないでよ!」と、ぷぅと膨れる。
「お父さん、お母さん。ぼく、もう体はなくなっちゃったみたいだけど、死んだわけじゃないよ? こうしてお姉ちゃんと一緒にいるよ。ヴィンセントが教えてくれたから出てこれるようになったよ。だから泣かないでよ。ね?」
北都の言葉を受けて、両親はより慟哭に暮れる。
「ぼく泣かないでって言ったのにー」
涙をはらはらと零しながらあずまが言った。
「違うのよ、北都、悲しくて泣いてるんじゃないのよ。ミナは死なない。ミナと生きるあなたも死なない。それが私は嬉しいの……」
「北都、お前はずっとミナの傍にいるんだな、よかった……!」
そう言ってあずまは涙を零しながら微笑んで、セイジは呻くようにつぶやいて嗚咽を漏らすように激しく慟哭する。
「ぼくだって、死んだことはすごく残念で辛いよ。友達にも逢えないし、学校にも行けないし。でも、お姉ちゃんとこれからはずっと一緒だし、ヴィンセントもいるし寂しくなんかないよ」
北都は少し眉根を寄せながらもそう言って微笑む。本当なら、体を失ってボディイメージの変容に悩まされているのは北都だ。、人間としての生を失って、生活も失って、環境の変化に悩まされているのは北都のほうだ。突然事件に巻き込まれて、痛い思いをして、怖い思いをして、辛い思いを子どもの身に一人で背負っているのは北都だ。その北都にまで心配をかけて、励ましてもらっていたことを考えると、自分が恥ずかしくて仕方がなかった。もっとしっかりしなければいけない。北都に、これから自分が世界を見せてあげるのだ。北都の宿主として、自分がしっかりしなければならない。そう思いいたって、ようやくミナの瞳に精気が宿った。
「お父さん、お母さん、それからお姉ちゃんも、もうぼくが死んだって思って、泣くのはやめて? 人間じゃなくても体がなくてもぼくはちゃんと生きてるから」
両親は北都の話を咀嚼するように強く頷いて涙を止めた。
「まさか北都にまた会って話ができるなんて思ってなかったから、こんなに嬉しい事はない。それにしても吸血鬼はこんなこともできるんだなぁ。本当にすごいな」
涙を止めて、未だ頬を濡らしたセイジがミナにまじまじと見いる。実をいうとミナもかなりびっくりしている。
「あ、ぼくが出てきたこと? これはヴィンセントが教えてくれたんだよ。お姉ちゃんずっとふさぎ込んでたし、お父さんやお母さんもきっとそうだろうと思って。ヴィンセントに聞いたら僕が出てくるを教えてくれて、出てこれたんだよ」
北都は、あれほどヴィンセントのことを嫌いだったのに、家族の為に意地を捨ててくれた。やはり、その優しさに報いなければ罪だ。しかし、少し疑問はある。テレビに向かって問いかけた。
「でも、ヴィンセントさんに聞いたって、どうやって? 北都は私の中にしかいないのに」
「だって、お姉ちゃんとヴィンセントは心の中でお話しできるでしょ? ヴィンセントはずっとお姉ちゃんに話しかけてたけど、お姉ちゃんは答えなかったから、代わりにぼくが返事してみた!」
いたずらが成功したような顔で北都は笑う。北都はヴィンセントの問いかけに答え、ヴィンセントに顕在化の仕方を教えてもらい、時折出てきては話していたらしい。そんな事にも気付かない程心身喪失していたのだと思うと、ヴィンセントにも北都にも、相当な心配をかけたのだ。今更ながら申し訳なく思う。
「北都、心配かけてごめんね。ありがとう」
そう言って笑うと、「笑ってくれたから許してあげる!」と、北都が嬉しそうに言った。本当に久しぶりに笑顔が出せた気がする。これも北都とヴィンセントのおかげだ。
しばらく入れ替わりながら4人で話をして、もう時間も遅いからと帰ることになった。帰る間際に北都がセイジとあずまに向かって言った。
「ていうか、お父さんもお母さんもヴィンセントに騙されてるよ。ヴィンセントは普段めちゃくちゃ偉そうにしてるよ」
なんて言うもんだから、「北都ぉぉぉ!」と慌ててミナが表面に出た。北都は「なにすんだよ!」と憤慨している。興奮する北都に、「それはしーだから!」と必死に心の中で訴えて、「じゃ、じゃぁもう帰るね!」と両親に向き直った。
「ミナ、北都、今日は来てくれてありがとう。ヴィンセントさん、ミナを連れてきてくれて本当にありがとう」
セイジはそう言うと深く頭を下げた。
「今日、北都に会えるまで俺はずっと自分を責めていた。父親なのに息子を守れなかったことで胸が押し潰されそうで、もう死んでしまいたかった。でも、北都に会えて北都がいるという事が分かって、俺は許されたような気がするよ」
そう言いながらセイジは微笑んだ。
「うん、そうだね。私も同じだよ」
北都を守れなかったという罪が完全に免除されたわけではない。北都の肉体は死んでしまった。だけど、北都はちゃんと存在して赦してくれた。生きる理由を与えてくれた。ミナ達には十分すぎる。
「それじゃぁ、気をつけるのよ」
「うん。ありがとう。また来るね」
「北都、ミナと一緒に頑張るんだぞ」
「うん! お姉ちゃんのことはぼくに任せといて!」
そう言って家を後にした。
ミナ達が立ち去ると、入れ違いで玄関先で見送る両親に二人の男が近づく。黒いスーツを纏った二人の男は、立ち去るミナ達には気付かないまま、神妙な面持ちで歩み寄った。