1-11 あなたが見ているのは誰ですか?
誕生日会の後、家に帰って恐怖のお仕置きタイムかと戦々恐々としていたが「ミナ、飯」と言われたのでホッとした。
いつものごとくヴィンセントにパックを渡すと、いつものごとく「飲め」と返される。いつものごとく渋っているといつものごとく怒られる……かと思いきや「好きにしろ」と言われた。今日家で血の話をしたせいだろうか。もしかして気遣ってくれているのかもしれない。
本当にヴィンセントは優しい。怖い事もあるけど、いつもミナのことをちゃんと考えてくれている。ふと、疑問が浮かんだ。
(なぜヴィンセントさんは私を大事にしてくれるのだろう?)
まだ出会って2か月と少し。普通ならこんな短い期間でこんなにお互いを信頼することなんかあり得ない。信頼してると思っているのはミナだけかもしれないけど、でもヴィンセントは最初から優しかった。
ミナがヴィンセントの眷愛隷属だからだろうか? でも、まだまだ未熟だし、ただの下僕だし、たまに反抗したりもする。正直信用を得られるほどのことなんかしてない。ただの眷愛隷属でただの下僕で、出会ったばかりなら尚更、気にも留めなくたっておかしくない。
もう一つ気になることもある。ミナが自己紹介したとき、ヴィンセントもミラーカも驚いたような顔をした。あれは一体なんだったのか。ミナに何かあるのか聞いてみたいけど、聞くのが怖い気もする。
それに、ヴィンセントはたまにミナのことを遠い目をしてみることがある。なんとなく、違和感のある視線。見ているのはミナじゃない、誰か……?
突然ガンッと大きな音がした。驚いて音のした方を見ると、ヴィンセントがテーブルを殴っていた。殴られたテーブルは粉々に割れてしまっている。
(あ! そうだ……私の考えてることヴィンセントさんはわかるんだった!)
致命的なミスに気づきサァッと顔から血の気が引いていく。
「ミナ、余計なことを考えるな」
その声はとても冷たい。氷のような視線。どうしよう、どうしようと狼狽えることしかできなかった。ヴィンセントを怒らせた。傷つけてしまったかもしれない。
「下らないことに気を取られるな。お前には関係ない。お前は事故で眷愛隷属になっただけの「ただの」下僕だ」
ヴィンセントはそう冷たく言い放ってリビングから出て行った。
ヴィンセントを怒らせてしまった。きっと踏み込んではいけないところに踏み込もうとして、逆鱗に触れたのだ。涙が溢れてくる。
(どうして私ってバカなんだろう。いつもヴィンセントさんを怒らせてしまう。私はいつもヴィンセントさんに助けてもらっているのに……ヴィンセントさんが私を大事にしてくれていたのは事実だ。違う真実があったとしても、それでいいじゃないか。なのに私は……)
“お前には関係ない。お前は事故で眷属になっただけの「ただの」下僕だ”―――――
―――――――お前なんか別にいらない、そう言われた気がした。
気が付くと、知らない場所にいた。ヴィンセントのマンションを飛び出して、走って走って、どこを走ったかもわからなくなって。ヴィンセントを怒らせて傷つけて、会わせる顔なんかない。ヴィンセントは少し前までは一人だった。ミナがいなくてもきっと困ることなんかない。
(そうだ。今まで一人だったのに、どうして急に下僕を作る気になったのだろう。何か理由が……?)
考えたが、首を横に振って考えを消した。考えたって仕方ない。考えちゃいけない。ミナには関係ないのだから。
小さな公園を見つけてブランコに腰を下ろす。キィと言う音が耳につく。甲高い金属音が余計寂しさを増長させる。
こんな風に出てきてしまって、実家にも帰れない。今更ヴィンセントのところに戻っても、ヴィンセントに面と向かっていらないと言われたら立ち直れない。それに、ここがどこかもわからないし、いっそのこともっと遠くへ行こうか、なんて考えた。
ヴィンセントだって500年も生きているのだ。嫌なことだってたくさんあったに違いない。そこにミナなんかが踏み込もうなんて、おこがましいにもほどがある。嫌われても文句は言えない。謝ったって許してもらえる自信もない。謝りもしないで逃げるのは卑怯だってわかっている。だけど、ヴィンセントに嫌われたという事を、ヴィンセントの傍で実感するのだけは嫌だった。どうしても、それだけは嫌だった。
首筋に触れてみる。膨らんだ噛み痕。一生消えることのない、ヴィンセントの残した痕。涙が溢れてくる。
(馬鹿な下僕でごめんなさい、ごめんなさい。ヴィンセントさんの顔を見て謝るべきだった)
今更後悔しても遅いし、許されるかもわからない。もし、このままミナが遠くに行ってしまえば、その内ヴィンセントは新しく下僕を作るだろう。ヴィンセントにもきっとその方がいい。役に立たない下僕なんか、存在する意味なんてないのだから。
しばらく泣き続けて、少し落ち着いてきた。やっと、逃げる決心がついた、と思って今更だと自嘲した。自分の馬鹿さ加減には苦笑するしかない。
とりあえず、ここを出よう。ブランコから立ち上がろうとした瞬間、頭上に影が被さった。
不思議に思って空を見上げると、そこには月明かりを遮って佇むヴィンセントがいた。ヴィンセントは静かにミナの前に下りてくる。
「ど、して……」
驚きのあまり言葉が出てこない。そんなミナにヴィンセントは平手打ちをした。
「痛……」
ここまで嫌われたとは、ちょっと計算外だった。もう自嘲するしかない。
「勝手に出てきてごめんなさい。最後にどんな罰でも受けます。でも、できたら殺さないでください」
いつも怒らせたときはお仕置きが待っている。きっと、今回ばかりはヴィンセントもそうしなきゃ気が済まない。さすがにヴィンセントに殺されたら悲しすぎて悪霊になる自信があるが。
ヴィンセントは怒りをにじませた目で、真っすぐミナを見下ろして言った。
「ミナ、最後かどうか決めるのは私だ。私を無視して独断専行することは許さん」
ヴィンセントの言っている意味が良くわからなかった。
「私はお前を必要ないと言った覚えはないし、出て行っていいと許可した覚えもない」
確かにそうだ。でも、ヴィンセントの傍で邪険に扱われるのが怖かった。自分はヴィンセントを傷つけておきながら傷つきたくないなんて、卑怯者だとわかっているけが、どうしても怖い。
「出て行ったとして、行く当てがあるのか? 無いだろう。お前の居場所は私のところしかないし、私はお前を手放す気などない」
「え? でも、私……ヴィンセントさんを傷つけたのに……」
「勝手に出て行って殺さないでだと? 私を傷つけて嫌われただと? ふざけるのも大概にしろ。余計なことを考えるなと言った筈だ」
ヴィンセントが何を言っているのか、意味が分からない。
「私をなめるな。さっきは確かに腹が立ったが、こんなことでお前を嫌いにはならないし、手放す気もさらさら無い。お前は私の下僕だろう。私の傍で私に一生仕えるのがお前の仕事だ。出て行くことは絶対に許さない」
涙が出そうになった。
「本当に? 本当に私はヴィンセントさんのところにいていいんですか?」
「いい悪いではない。私がいろ、と言っているのだ。お前は下僕のくせに私の命令が聞けないのか?」
ヴィンセントがいいと言っているのに、それを断る理由は無い。
「でも、ヴィンセントさんは何故私を傍に置くんですか? 私は未熟だし、役立たずだし、ヴィンセントさんを怒らせるのもしょっちゅうだし。自分でも出来た下僕ではないってわかってます。それなのに、どうしてですか?」
ヴィンセントは面倒くさそうに大きな溜息を吐いた。
「全く、お前は何度言ったらわかるんだ。余計なことは考えるなと言っただろう……お前を傍に置くのは、私にはお前が必要だからだ。お前が私の愛しい下僕だからだ。それでは不満か?」
ヴィンセントは少し悲しそうな眼をして問い詰める。愛しい下僕……今まで何度か言われた言葉。なんとなく、この言葉で何かをはぐらかされた気がした。
でも、それでも。ヴィンセントはミナが必要なのだと言ってくれた。傍にいろと言ってくれた。それで、いいじゃないか。何も不満などない。ヴィンセントが必要としてくれている。その事に間違いはないからそれで、十分だ。
「いいえ。ありがとうございます。私、いつもヴィンセントさんに迷惑をかけてばかりで、嫌われてもおかしくないって思って、必要とされてないような気がして卑屈になっていました。迷惑かけて本当にごめんなさい。ヴィンセントさんが許してくれるのなら、一生お仕えします」
そういってヴィンセントを見つめると、ヴィンセントはさっきよりも大きな溜息を吐いた。
「何度も言うが、私はお前を手放す気はない。お前は何か勘違いしているようだが、お前を傍に置くのに他意はない。お前の帰る場所は私のところだけだ。お前の居場所はこの私だ。二度は言わない。よく覚えておけ」
そう一息に言って「帰るぞ」と手を差し伸べてきた。本当のことがどこにあったとしても、ヴィンセントが必要としてくれる。それが事実だということが素直に嬉しかった。自分の居場所はここにある。ここに一生いよう。そう誓って、ヴィンセントの手を取って一緒に空へ舞いあがった。
家に帰ると、ミナはすぐ風呂に入った。
「ヴィンセントさん、今日のことは本当にごめんなさい。もう、余計なこと考えたりしません。これからはちゃんとします。卑屈になる必要もないように努力もします。本当にごめんなさい。今日は疲れたから寝ますね。お休みなさい」
そう言って先に眠ってしまった。
ミナはずっと謝ってばかりだ。ヴィンセントを怒らせて傷つけたと、とても後悔していた。だが、謝らなければならないのはヴィンセントの方だ。
ミナにウソをついた。
ミナを傍に置くのは、大事にするのは、本当はヴィンセントの、弱さのせいだ。ミナには真実を知られたくない。ミナにだけは知ってほしくない。そのせいで、ヴィンセントが弱いせいで、ミナを傷つけた。本当はミナがヴィンセントから離れられないと知っていて、利用している。メリッサに嘲笑されたことを思いだして、嘆息した。
(メリッサの言う通り、私は本当に最低だな。嫌われて当然なのはむしろ、私の方だ)
嘆息して、一人になった広い部屋で、ミナの寝ている棺に向かって呟いた。
「ミナ……すまない」