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短編

「君は強いから一人でも大丈夫だろう」と後回しにされ続けたので、お二人の邪魔にならないよう婚約を解消しました

作者: スナハコ
掲載日:2026/11/06

『すまない、クレア。今日の衣装合わせには行けなくなった』


 使いの者が届けた手紙には、見慣れた筆跡でそう記されていた。


 わたくしは仕立て屋の鏡の前で、白いヴェールの端を指先で撫でる。


 婚約者であるユージン様からの、今月で三度目のキャンセルだった。


 理由は、手紙の後半を読むまでもなく分かっている。


「また、リディア様でございますか?」


 後ろに控えていた侍女が、悔しそうに眉を寄せた。


 わたくしは小さく頷き、手紙の続きへ目を落とす。


「ええ。『従妹のリディアが、朝から体調を崩して泣いている』んですって」


「まあ……! 今日が最終採寸だとご存じでしたのに!」


「『クレア、君は昔からしっかりしていて、一人でも大丈夫だろう? でもあの子は、俺がそばにいてやらないと駄目なんだ』……そう書いてあるわ」


 手紙をゆっくりと折り畳み、封筒へと戻す。


「お嬢様……本日の採寸は、いかがなさいますか?」


 控えめに尋ねる仕立て屋の主に、わたくしはヴェールを外して微笑んだ。


「今日は、ここまでにしてくださいませ。続きは、日曜日の会食が済んでからお願いいたします」




 ユージン様と婚約して、四年になる。


 隣の領地を治める子爵家の嫡男である彼は、優しい方だと評されていた。


 けれど一年前、従妹であるリディア様が屋敷に身を寄せてきた。


 その日から、すべてが変わってしまったのだ。


 リディア様は小柄で、少しの物音にも肩を震わせるような女性だった。


 わたくしが高熱を出して寝込んだ夜でさえ、彼は見舞いにすら来なかった。


 雷に怯えるリディア様を優先し、「君は強いから一晩くらい平気だろう」と済ませたのだ。


 それでもわたくしは、彼を責めなかった。


 聞き分けのない女だと思われたくなかったのだ。


 だからいつも、「大丈夫ですわ」と笑って頷き続けてきた。


 そうして聞き分けよく振る舞うほど、わたくしは後回しにされていった。




 仕立て屋を訪ねた翌日の土曜日、わたくしはユージン様の屋敷を訪ねた。


 将来の夫人として、わたくしは普段から彼の実務を手伝っていた。


 いつものように、彼の執務室で書類を整理していたのである。


 親族への挨拶状や、領地の陳情書をまとめる作業だった。


 それを終えて廊下へ出ると、ユージン様の腕にリディア様がすがりついていた。


「ユージン様、明日の会食の最終確認なのですが――」


「ああ、クレア。その話はまたあとにしてくれないか」


 ユージン様は慌てた様子で懐中時計を見ていた。


「ごめんなさい、クレア様……。わたし、なんだか動悸がして、一人でお部屋にいるのが怖いんです……」


「そういうわけなんだ。リディアは体が弱いから、俺がついていてやらないと」


「……ですが、両家が揃う婚礼の最終打ち合わせは明日ですわ。当日の流れだけでも、目を通しておいていただきたくて」


「大丈夫、手配はもう済んでいるんだろう? 書類の整理だって、いつも完璧にやってくれているじゃないか」


 ユージン様は悪気のない笑顔で、わたくしの肩をぽんと叩いた。


「君は強いから、なんだって一人でできるよな。頼りにしてるよ、クレア」


 そう言って、二人は仲睦まじく廊下の先へと去っていった。




 そして迎えた、日曜日の昼下がり。


 この日は両家の両親が揃う、婚礼の最終打ち合わせの日だった。


 正式な婚姻届に署名をする予定にもなっている。


 当人であるユージン様がいなければ、手続きは何ひとつ進められない。


 レストランの個室では、父と母が険しい顔で時計を見つめていた。


 約束の時刻を三十分過ぎた頃、ボーイが一通の伝言メモを持ってきた。


「……なんと書いてある?」


 父の低い問いかけに、わたくしはメモを読み上げた。


「『リディアが庭で足を挫いてしまった。医者が来るまで手を握っていてやりたい。クレアなら、一人で上手に両親へ説明できるだろう?』……だそうですわ」


 ガシャン、と父がテーブルのフォークを置いた。


 向かいに座るユージン様のご両親も、真っ青な顔で頭を下げている。


「申し訳ございません、ヴァレンタイン伯爵……! 息子には私どもからきつく言い聞かせますので……!」


 テーブルの中央には、署名欄が空白のままの婚姻届が置かれていた。


 それを見つめながら、わたくしの中で何かが静かに終わった。


 ああ、きっと結婚したあとも同じなのだ。


 わたくしが子供を産む日も、両親を見送る日も、きっと変わらない。


 わたくし自身が息を引き取る日でさえ、あの方は同じことを言うのだろう。


『君は強いから一人でも大丈夫だろう』と。


 そう言って、泣いているリディア様のもとへ走っていくに違いない。


「……クレア。本当に、あんな男でいいのか」


 父が押し殺した声で尋ねた。


 わたくしはナプキンを畳み、テーブルの上にそっと置いた。


「いいえ、お父様。もう十分でございます」


 背筋を伸ばし、わたくしは晴れやかな声で告げた。


「この婚約は、本日をもって白紙に戻させてくださいませ」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 翌日の午後、わたくしはユージン様の屋敷を訪ねた。


 応接室へ入ると、ユージン様が慌てた様子で立ち上がる。


「クレア! 昨日の会食の件なら謝るよ。だけど、婚約解消だなんて話が大げさすぎるじゃないか」


 ユージン様は苦笑し、わたくしの手を取ろうとした。


 わたくしは自然体で一歩下がり、その手をかわす。


 ユージン様の手が、虚しく宙で止まった。


「……クレア? まだ怒っているのかい」


「いいえ、怒ってなどおりませんわ」


 わたくしは小箱を取り出し、テーブルの中央へと置いた。


 中には、四年前に贈られた婚約指輪が収められている。


「ただ、昨日でようやく気づきましたの。わたくし、ユージン様のおかげで本当に『一人でも大丈夫』になってしまいましたわ」


「……え?」


「衣装合わせも、病気の夜も、両親への説明も、すべて一人でこなせるようになりました」


 わたくしは静かに目を細め、ユージン様をまっすぐ見つめた。


「ですから、わたくしの隣にユージン様がいらっしゃる理由は、もうどこにもございませんの」


「ま、待ってくれ! 俺は君を信頼していたからこそ、そう言ったんだ! 最後に結婚するのは君だと決めていたのに――」


「どうぞ、お気になさらないでくださいませ」


 わたくしは遮るように微笑み、深々と一礼した。


「リディア様は、ユージン様がいないと駄目なのでしょう? わたくしのような強い女が邪魔をしては、お二人がお可哀想ですわ」


 ユージン様が何か言いかけた、その時だった。


「ユージン様ぁ……! どこにいらっしゃるの、足が痛くて心細いんです……!」


 廊下の奥から、リディア様の甘えた呼び声が響いた。


 ユージン様の視線が、反射的に扉の方へと揺れる。


 その一瞬の迷いを見て、わたくしは小さく息を吐いた。


「ほら、呼んでいらっしゃいますわよ。行ってあげてくださいな」


「ク、クレア、話はあとで――」


「いいえ。お話はこれで終わりです。さようなら、ユージン様」


 わたくしは振り返ることなく応接室を出た。


 そのまま屋敷の門をくぐり、待機していた馬車へと乗り込む。


 窓から見上げた空は、驚くほど高くて青かった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 婚約を解消して一ヶ月後、わたくしは南の港町へと移り住んだ。


 そこには、母方の叔父が営む『舶来書籍の翻訳工房』がある。


 以前から得意だった外国語の翻訳を、そこで手伝うことにしたのだ。


 潮風の吹き抜ける工房には、珍しい植物図鑑や物語が積まれている。


 誰かの都合を待って時計ばかり気にする日々は、もう終わった。


 ある午後のことだ。


 わたくしは書庫から分厚い辞書を何冊も抱え、階段を降りていた。


「クレア嬢。ずいぶん重そうだね」


 穏やかな声とともに、長身の青年が階段の下で足を止めた。


 フェリクス・ヴァルハイム様。


 侯爵家の次男でありながら、この工房を取り仕切っている共同経営者だ。


 幼い頃に何度か父の書斎で顔を合わせたことがあった。


「あ、フェリクス様。大丈夫ですわ、わたくし一人でも運べますから」


 いつもの癖でそう答えると、フェリクス様は少しだけ目を細めた。


 穏やかな琥珀色の瞳が、わたくしを優しく見上げる。


「運べるのは知っているよ。私にも持たせてくれないか」


 フェリクス様は一歩上がり、両手を差し出した。


「半分、持とうか」


 いつもの返事が口をつきかけて、わたくしは腕の中の辞書を見下ろした。


「……では、上の二冊をお願いできますか」


「ああ。どこへ運べばいい?」


「窓際の、わたくしの机までお願いいたします」


「了解した」


 フェリクス様は上の二冊を受け取ってくれた。


 そして、わたくしの歩調に合わせて並んで歩いてくれる。


 机に辞書を置くと、ふわりと紅茶の香りが漂ってきた。


「お茶を淹れたんだ。この章の翻訳もいいが、先に一息つかないかい?」


「……ええ。ぜひ、いただこうかしら」


「蜂蜜とミルクがあるけれど、どちらがいい?」


「両方、少しずつお願いできますか」


「いいとも」


 手渡されたカップを両手で包み込むと、指先からじんわりと熱が伝わってきた。


 ずっと肩に入っていた余計な力が、すうっと抜けていく。




 それからというもの、フェリクス様はいつでもわたくしの希望を尋ねてくれた。


「クレア嬢、外は雨が降ってきたね。馬車を呼ぼうか、それとも屋根のある回廊を通って帰るかい?」


「今日は少し足が疲れましたから、馬車をお願いしようかしら」


「分かった。来るまで私の部屋で温かいものでも飲んで待とうか」


 決して勝手に取り上げることはしない。


 わたくしが自分で頼れるように、いつも手を差し伸べてくれるのだ。


 わたくしが翻訳した本が王都で評判になった日も、そうだった。


「お祝いに何を食べたい?」と一番に尋ねてくれたのは彼である。


 そんな何気ないやり取りの積み重ねが、たまらなく心地よかった。




 港町へ来て一年が経つ、春の日だった。


 新しい図鑑の校了を終え、海沿いのテラスでお茶を飲んでいた時のことだ。


「ここの暮らしは、すっかり慣れたようだね」


「ええ。毎日がとても楽しくて、このまま一生ここで翻訳のお仕事を続けたいくらいですわ」


 わたくしが笑うと、フェリクス様は静かにカップを置いた。


 そして、真面目な顔でこちらを見つめる。


「それなら、そろそろ私の屋敷へ引っ越してこないか」


「……え? 叔父様の家からでも、十分通えますけれど」


「いや、通いの翻訳家としてではなく、私の妻としてだ」


 あまりにさらりと言われ、わたくしは目を瞬かせた。


「可愛げのない女ですのに……よろしいのですか?」


「誰がそんな見当違いな評価をしたのか知らないがね」


 フェリクス様はふっと目元を和らげた。


 そしてテーブル越しに、わたくしの手へそっと指先を重ねる。


「雨が降れば少し寂しそうな顔をするし、甘い紅茶を飲めば子どもみたいに頬を緩める。そんな君の隣を、他の誰にも譲りたくないと思ったんだ」


 耳の先まで、かあっと熱くなるのが分かった。


「……わたくし、ときどき頼ったり、我儘を言ってしまうかもしれませんわよ?」


「ああ、大歓迎だ。どうしたいか、何でも私に聞かせてくれ」


 潮風に髪を揺らす彼の、優しい微笑みを見つめながら、わたくしは頷いた。


「――こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ◇ ユージン視点 ◇ ◇ ◇


 重たい帳簿をめくるたび、こめかみの奥がずきずきと痛んだ。


 クレアから婚約を解消されて、一年余りが過ぎた。


 当初、俺はすぐにでもクレアが戻ってくるものだと思っていた。


 だが彼女は王都を離れ、二度と連絡を寄越さなかった。


 俺は引っ込みがつかなくなる形で、従妹のリディアと結婚した。


 俺が守ってやらなければ生きていけない、か弱いリディア。


 彼女を妻に迎えれば、男として誇らしい毎日が送れるはずだった。


「あの、ユージン様……。明日のご婦人方のお茶会、やっぱりお休みしてもいいかしら……」


 執務室の扉の陰から、リディアが心細そうに声をかけてきた。


 小さな肩をすくめ、不安そうに指先を絡めている。


 これで今月に入って四度目の欠席だった。


「リディア、さすがに明日は顔を出してくれないか。先月からずっと断り続けていて、周囲の夫人たちから苦言が出ているんだ」


 俺がなるべく優しく諭すと、リディアの瞳にみるみる涙が盛り上がった。


「ごめんなさい……。でも、皆様がわたくしを見る目が怖くて、お席にいると胸が苦しくなってしまうの……」


 ぽろぽろと涙をこぼし、俺の袖を頼りなげに掴む。


 一年前、俺が愛おしくてたまらなかったはずの仕草だった。


「それに、溜まっているお礼状も、ユージン様なら上手に書けるでしょう? わたくし、失礼なことを書いてしまいそうで怖いの……」


「いや、だが俺も領地の決算で手一杯で、もう二日も寝ていないんだ……」


 思わず弱音を漏らすと、リディアはきょとんと目を瞬かせた。


 それから、悪気のない可憐な微笑みを浮かべて言ったのだ。


「まあ、ユージン様ったら。あなたはしっかりしていらっしゃるから、お一人でも大丈夫でしょう?」


「……っ」


 心臓を冷たい手で掴まれたような気がして、俺は言葉を失った。


 リディアには、皮肉のつもりなど微塵もない。


 ただ純粋に、俺なら何でも一人で引き受けてくれると信じきっている目だった。


 クレアがいた頃は、親族への挨拶状も領地の陳情整理も、すべて整えられていた。


 母上からも、顔を合わせるたびに溜息をつかれる。


「クレア様がいらした頃は、こんな恥をかいたことは一度もなかったのに」と。


 かつてクレアが一人で引き受けていた重荷があった。


 そのすべてが、今はそのまま俺一人の肩にのしかかっていた。




 そんなある日、俺は領地の商談のために南の港町を訪れていた。


 リディアが「一人で残されるのは寂しい」と涙ぐんだため、馬車に同乗させての出張だった。


 雨上がりの昼下がり、馬車を停めて大通りを歩いていた時である。


「――この小さな包みくらい、わたくしが持てますのに」


 聞き覚えのある、澄んだ声が耳に届いた。


 はっとして顔を上げる。


 石畳の向こうから、一組の男女が歩いてくるところだった。


 淡いミントグリーンのワンピースを着た女性は、間違いなくクレアだった。


 その隣には、仕立ての良い服を着た長身の青年が並んでいる。


 青年はすでに自分の片腕に買い物籠を抱えていた。


 さらに、クレアの手元の小包へと手を差し伸べている。


「これも持とうか。雨上がりで石畳が滑りやすいからね」


「……では、お願いしようかしら。ありがとうございます、フェリクス様」


 クレアは迷うことなく小包を預け、青年の腕にそっと自分の手を添えた。


 青年が水たまりの手前で歩調を緩め、大切そうに彼女を歩道へとエスコートする。


「ふふ、頼りきりですわね」


 そう言って見上げたクレアの顔を見て、俺は息を呑んだ。


 柔らかく目元を染め、安心しきったように青年の隣を歩いている。


 無邪気で、愛らしい笑顔だった。


 それは四年間、俺が一度も見たことのない顔だった。


 誰かに頼り、守られている女性の顔である。


 胸の奥が、ぎゅっと音を立てて軋んだ。


 一人でできるからといって、一人でいたかったわけではない。


 俺は、そんなことも分からなかったのだ。


「クレア……」


 かすれた声は、街のざわめきに消えた。


 幸せそうに笑い合いながら通り過ぎていく二人へ、俺は一歩も近づけなかった。


「ユージン様ぁ……? どこへ行ってしまわれたの、わたくし一人で馬車にいると心細いんです……!」


 背後から、馬車の小窓を開けたリディアの頼りなげな声が響いた。


 俺は握りしめた拳をだらりと下ろす。


 そして、遠ざかるクレアの背中からゆっくりと目を逸らした。


「……ああ。今行くよ」



最後までお読みいただきありがとうございます。

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