「君は強いから一人でも大丈夫だろう」と後回しにされ続けたので、お二人の邪魔にならないよう婚約を解消しました
『すまない、クレア。今日の衣装合わせには行けなくなった』
使いの者が届けた手紙には、見慣れた筆跡でそう記されていた。
わたくしは仕立て屋の鏡の前で、白いヴェールの端を指先で撫でる。
婚約者であるユージン様からの、今月で三度目のキャンセルだった。
理由は、手紙の後半を読むまでもなく分かっている。
「また、リディア様でございますか?」
後ろに控えていた侍女が、悔しそうに眉を寄せた。
わたくしは小さく頷き、手紙の続きへ目を落とす。
「ええ。『従妹のリディアが、朝から体調を崩して泣いている』んですって」
「まあ……! 今日が最終採寸だとご存じでしたのに!」
「『クレア、君は昔からしっかりしていて、一人でも大丈夫だろう? でもあの子は、俺がそばにいてやらないと駄目なんだ』……そう書いてあるわ」
手紙をゆっくりと折り畳み、封筒へと戻す。
「お嬢様……本日の採寸は、いかがなさいますか?」
控えめに尋ねる仕立て屋の主に、わたくしはヴェールを外して微笑んだ。
「今日は、ここまでにしてくださいませ。続きは、日曜日の会食が済んでからお願いいたします」
ユージン様と婚約して、四年になる。
隣の領地を治める子爵家の嫡男である彼は、優しい方だと評されていた。
けれど一年前、従妹であるリディア様が屋敷に身を寄せてきた。
その日から、すべてが変わってしまったのだ。
リディア様は小柄で、少しの物音にも肩を震わせるような女性だった。
わたくしが高熱を出して寝込んだ夜でさえ、彼は見舞いにすら来なかった。
雷に怯えるリディア様を優先し、「君は強いから一晩くらい平気だろう」と済ませたのだ。
それでもわたくしは、彼を責めなかった。
聞き分けのない女だと思われたくなかったのだ。
だからいつも、「大丈夫ですわ」と笑って頷き続けてきた。
そうして聞き分けよく振る舞うほど、わたくしは後回しにされていった。
仕立て屋を訪ねた翌日の土曜日、わたくしはユージン様の屋敷を訪ねた。
将来の夫人として、わたくしは普段から彼の実務を手伝っていた。
いつものように、彼の執務室で書類を整理していたのである。
親族への挨拶状や、領地の陳情書をまとめる作業だった。
それを終えて廊下へ出ると、ユージン様の腕にリディア様がすがりついていた。
「ユージン様、明日の会食の最終確認なのですが――」
「ああ、クレア。その話はまたあとにしてくれないか」
ユージン様は慌てた様子で懐中時計を見ていた。
「ごめんなさい、クレア様……。わたし、なんだか動悸がして、一人でお部屋にいるのが怖いんです……」
「そういうわけなんだ。リディアは体が弱いから、俺がついていてやらないと」
「……ですが、両家が揃う婚礼の最終打ち合わせは明日ですわ。当日の流れだけでも、目を通しておいていただきたくて」
「大丈夫、手配はもう済んでいるんだろう? 書類の整理だって、いつも完璧にやってくれているじゃないか」
ユージン様は悪気のない笑顔で、わたくしの肩をぽんと叩いた。
「君は強いから、なんだって一人でできるよな。頼りにしてるよ、クレア」
そう言って、二人は仲睦まじく廊下の先へと去っていった。
そして迎えた、日曜日の昼下がり。
この日は両家の両親が揃う、婚礼の最終打ち合わせの日だった。
正式な婚姻届に署名をする予定にもなっている。
当人であるユージン様がいなければ、手続きは何ひとつ進められない。
レストランの個室では、父と母が険しい顔で時計を見つめていた。
約束の時刻を三十分過ぎた頃、ボーイが一通の伝言メモを持ってきた。
「……なんと書いてある?」
父の低い問いかけに、わたくしはメモを読み上げた。
「『リディアが庭で足を挫いてしまった。医者が来るまで手を握っていてやりたい。クレアなら、一人で上手に両親へ説明できるだろう?』……だそうですわ」
ガシャン、と父がテーブルのフォークを置いた。
向かいに座るユージン様のご両親も、真っ青な顔で頭を下げている。
「申し訳ございません、ヴァレンタイン伯爵……! 息子には私どもからきつく言い聞かせますので……!」
テーブルの中央には、署名欄が空白のままの婚姻届が置かれていた。
それを見つめながら、わたくしの中で何かが静かに終わった。
ああ、きっと結婚したあとも同じなのだ。
わたくしが子供を産む日も、両親を見送る日も、きっと変わらない。
わたくし自身が息を引き取る日でさえ、あの方は同じことを言うのだろう。
『君は強いから一人でも大丈夫だろう』と。
そう言って、泣いているリディア様のもとへ走っていくに違いない。
「……クレア。本当に、あんな男でいいのか」
父が押し殺した声で尋ねた。
わたくしはナプキンを畳み、テーブルの上にそっと置いた。
「いいえ、お父様。もう十分でございます」
背筋を伸ばし、わたくしは晴れやかな声で告げた。
「この婚約は、本日をもって白紙に戻させてくださいませ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日の午後、わたくしはユージン様の屋敷を訪ねた。
応接室へ入ると、ユージン様が慌てた様子で立ち上がる。
「クレア! 昨日の会食の件なら謝るよ。だけど、婚約解消だなんて話が大げさすぎるじゃないか」
ユージン様は苦笑し、わたくしの手を取ろうとした。
わたくしは自然体で一歩下がり、その手をかわす。
ユージン様の手が、虚しく宙で止まった。
「……クレア? まだ怒っているのかい」
「いいえ、怒ってなどおりませんわ」
わたくしは小箱を取り出し、テーブルの中央へと置いた。
中には、四年前に贈られた婚約指輪が収められている。
「ただ、昨日でようやく気づきましたの。わたくし、ユージン様のおかげで本当に『一人でも大丈夫』になってしまいましたわ」
「……え?」
「衣装合わせも、病気の夜も、両親への説明も、すべて一人でこなせるようになりました」
わたくしは静かに目を細め、ユージン様をまっすぐ見つめた。
「ですから、わたくしの隣にユージン様がいらっしゃる理由は、もうどこにもございませんの」
「ま、待ってくれ! 俺は君を信頼していたからこそ、そう言ったんだ! 最後に結婚するのは君だと決めていたのに――」
「どうぞ、お気になさらないでくださいませ」
わたくしは遮るように微笑み、深々と一礼した。
「リディア様は、ユージン様がいないと駄目なのでしょう? わたくしのような強い女が邪魔をしては、お二人がお可哀想ですわ」
ユージン様が何か言いかけた、その時だった。
「ユージン様ぁ……! どこにいらっしゃるの、足が痛くて心細いんです……!」
廊下の奥から、リディア様の甘えた呼び声が響いた。
ユージン様の視線が、反射的に扉の方へと揺れる。
その一瞬の迷いを見て、わたくしは小さく息を吐いた。
「ほら、呼んでいらっしゃいますわよ。行ってあげてくださいな」
「ク、クレア、話はあとで――」
「いいえ。お話はこれで終わりです。さようなら、ユージン様」
わたくしは振り返ることなく応接室を出た。
そのまま屋敷の門をくぐり、待機していた馬車へと乗り込む。
窓から見上げた空は、驚くほど高くて青かった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
婚約を解消して一ヶ月後、わたくしは南の港町へと移り住んだ。
そこには、母方の叔父が営む『舶来書籍の翻訳工房』がある。
以前から得意だった外国語の翻訳を、そこで手伝うことにしたのだ。
潮風の吹き抜ける工房には、珍しい植物図鑑や物語が積まれている。
誰かの都合を待って時計ばかり気にする日々は、もう終わった。
ある午後のことだ。
わたくしは書庫から分厚い辞書を何冊も抱え、階段を降りていた。
「クレア嬢。ずいぶん重そうだね」
穏やかな声とともに、長身の青年が階段の下で足を止めた。
フェリクス・ヴァルハイム様。
侯爵家の次男でありながら、この工房を取り仕切っている共同経営者だ。
幼い頃に何度か父の書斎で顔を合わせたことがあった。
「あ、フェリクス様。大丈夫ですわ、わたくし一人でも運べますから」
いつもの癖でそう答えると、フェリクス様は少しだけ目を細めた。
穏やかな琥珀色の瞳が、わたくしを優しく見上げる。
「運べるのは知っているよ。私にも持たせてくれないか」
フェリクス様は一歩上がり、両手を差し出した。
「半分、持とうか」
いつもの返事が口をつきかけて、わたくしは腕の中の辞書を見下ろした。
「……では、上の二冊をお願いできますか」
「ああ。どこへ運べばいい?」
「窓際の、わたくしの机までお願いいたします」
「了解した」
フェリクス様は上の二冊を受け取ってくれた。
そして、わたくしの歩調に合わせて並んで歩いてくれる。
机に辞書を置くと、ふわりと紅茶の香りが漂ってきた。
「お茶を淹れたんだ。この章の翻訳もいいが、先に一息つかないかい?」
「……ええ。ぜひ、いただこうかしら」
「蜂蜜とミルクがあるけれど、どちらがいい?」
「両方、少しずつお願いできますか」
「いいとも」
手渡されたカップを両手で包み込むと、指先からじんわりと熱が伝わってきた。
ずっと肩に入っていた余計な力が、すうっと抜けていく。
それからというもの、フェリクス様はいつでもわたくしの希望を尋ねてくれた。
「クレア嬢、外は雨が降ってきたね。馬車を呼ぼうか、それとも屋根のある回廊を通って帰るかい?」
「今日は少し足が疲れましたから、馬車をお願いしようかしら」
「分かった。来るまで私の部屋で温かいものでも飲んで待とうか」
決して勝手に取り上げることはしない。
わたくしが自分で頼れるように、いつも手を差し伸べてくれるのだ。
わたくしが翻訳した本が王都で評判になった日も、そうだった。
「お祝いに何を食べたい?」と一番に尋ねてくれたのは彼である。
そんな何気ないやり取りの積み重ねが、たまらなく心地よかった。
港町へ来て一年が経つ、春の日だった。
新しい図鑑の校了を終え、海沿いのテラスでお茶を飲んでいた時のことだ。
「ここの暮らしは、すっかり慣れたようだね」
「ええ。毎日がとても楽しくて、このまま一生ここで翻訳のお仕事を続けたいくらいですわ」
わたくしが笑うと、フェリクス様は静かにカップを置いた。
そして、真面目な顔でこちらを見つめる。
「それなら、そろそろ私の屋敷へ引っ越してこないか」
「……え? 叔父様の家からでも、十分通えますけれど」
「いや、通いの翻訳家としてではなく、私の妻としてだ」
あまりにさらりと言われ、わたくしは目を瞬かせた。
「可愛げのない女ですのに……よろしいのですか?」
「誰がそんな見当違いな評価をしたのか知らないがね」
フェリクス様はふっと目元を和らげた。
そしてテーブル越しに、わたくしの手へそっと指先を重ねる。
「雨が降れば少し寂しそうな顔をするし、甘い紅茶を飲めば子どもみたいに頬を緩める。そんな君の隣を、他の誰にも譲りたくないと思ったんだ」
耳の先まで、かあっと熱くなるのが分かった。
「……わたくし、ときどき頼ったり、我儘を言ってしまうかもしれませんわよ?」
「ああ、大歓迎だ。どうしたいか、何でも私に聞かせてくれ」
潮風に髪を揺らす彼の、優しい微笑みを見つめながら、わたくしは頷いた。
「――こちらこそ、よろしくお願いいたします」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
◇ ユージン視点 ◇ ◇ ◇
重たい帳簿をめくるたび、こめかみの奥がずきずきと痛んだ。
クレアから婚約を解消されて、一年余りが過ぎた。
当初、俺はすぐにでもクレアが戻ってくるものだと思っていた。
だが彼女は王都を離れ、二度と連絡を寄越さなかった。
俺は引っ込みがつかなくなる形で、従妹のリディアと結婚した。
俺が守ってやらなければ生きていけない、か弱いリディア。
彼女を妻に迎えれば、男として誇らしい毎日が送れるはずだった。
「あの、ユージン様……。明日のご婦人方のお茶会、やっぱりお休みしてもいいかしら……」
執務室の扉の陰から、リディアが心細そうに声をかけてきた。
小さな肩をすくめ、不安そうに指先を絡めている。
これで今月に入って四度目の欠席だった。
「リディア、さすがに明日は顔を出してくれないか。先月からずっと断り続けていて、周囲の夫人たちから苦言が出ているんだ」
俺がなるべく優しく諭すと、リディアの瞳にみるみる涙が盛り上がった。
「ごめんなさい……。でも、皆様がわたくしを見る目が怖くて、お席にいると胸が苦しくなってしまうの……」
ぽろぽろと涙をこぼし、俺の袖を頼りなげに掴む。
一年前、俺が愛おしくてたまらなかったはずの仕草だった。
「それに、溜まっているお礼状も、ユージン様なら上手に書けるでしょう? わたくし、失礼なことを書いてしまいそうで怖いの……」
「いや、だが俺も領地の決算で手一杯で、もう二日も寝ていないんだ……」
思わず弱音を漏らすと、リディアはきょとんと目を瞬かせた。
それから、悪気のない可憐な微笑みを浮かべて言ったのだ。
「まあ、ユージン様ったら。あなたはしっかりしていらっしゃるから、お一人でも大丈夫でしょう?」
「……っ」
心臓を冷たい手で掴まれたような気がして、俺は言葉を失った。
リディアには、皮肉のつもりなど微塵もない。
ただ純粋に、俺なら何でも一人で引き受けてくれると信じきっている目だった。
クレアがいた頃は、親族への挨拶状も領地の陳情整理も、すべて整えられていた。
母上からも、顔を合わせるたびに溜息をつかれる。
「クレア様がいらした頃は、こんな恥をかいたことは一度もなかったのに」と。
かつてクレアが一人で引き受けていた重荷があった。
そのすべてが、今はそのまま俺一人の肩にのしかかっていた。
そんなある日、俺は領地の商談のために南の港町を訪れていた。
リディアが「一人で残されるのは寂しい」と涙ぐんだため、馬車に同乗させての出張だった。
雨上がりの昼下がり、馬車を停めて大通りを歩いていた時である。
「――この小さな包みくらい、わたくしが持てますのに」
聞き覚えのある、澄んだ声が耳に届いた。
はっとして顔を上げる。
石畳の向こうから、一組の男女が歩いてくるところだった。
淡いミントグリーンのワンピースを着た女性は、間違いなくクレアだった。
その隣には、仕立ての良い服を着た長身の青年が並んでいる。
青年はすでに自分の片腕に買い物籠を抱えていた。
さらに、クレアの手元の小包へと手を差し伸べている。
「これも持とうか。雨上がりで石畳が滑りやすいからね」
「……では、お願いしようかしら。ありがとうございます、フェリクス様」
クレアは迷うことなく小包を預け、青年の腕にそっと自分の手を添えた。
青年が水たまりの手前で歩調を緩め、大切そうに彼女を歩道へとエスコートする。
「ふふ、頼りきりですわね」
そう言って見上げたクレアの顔を見て、俺は息を呑んだ。
柔らかく目元を染め、安心しきったように青年の隣を歩いている。
無邪気で、愛らしい笑顔だった。
それは四年間、俺が一度も見たことのない顔だった。
誰かに頼り、守られている女性の顔である。
胸の奥が、ぎゅっと音を立てて軋んだ。
一人でできるからといって、一人でいたかったわけではない。
俺は、そんなことも分からなかったのだ。
「クレア……」
かすれた声は、街のざわめきに消えた。
幸せそうに笑い合いながら通り過ぎていく二人へ、俺は一歩も近づけなかった。
「ユージン様ぁ……? どこへ行ってしまわれたの、わたくし一人で馬車にいると心細いんです……!」
背後から、馬車の小窓を開けたリディアの頼りなげな声が響いた。
俺は握りしめた拳をだらりと下ろす。
そして、遠ざかるクレアの背中からゆっくりと目を逸らした。
「……ああ。今行くよ」
最後までお読みいただきありがとうございます。
コメントや評価、ブクマなどいただけましたら励みになります。




