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小説

純粋な月光などないらしい

作者: ちりあくた

 降りしきる月光の下で、「月が綺麗ですね」と誰かが言いました。私の脳に残っている最後の記憶がそれでした。


 それ以外の思い出は、あの事故以来もやがかったように曖昧で、私の知っていることは、すべて人づてに聞いた話に過ぎません。「私、友人、私」という経路に「又聞き」という言葉は不適当かもしれませんが、畢竟、今の私は第三者と同じ立場なのです。同じ肉体で体験したはずの出来事も、今では国語の試験問題を解くかのようで、「主人公の気持ち」を推し量るのが限界でした。


 あのセリフを境に、記憶が再び刻まれ始めたのは、真っ白な病床の上でした。事故とは何だったのか、私は思い出せません。医者に尋ねても、友人に聞いても、誰一人として明瞭な答えをくれません。


「あなたは事故で記憶を失いました」

「事故について知るのは早い」

「君の記憶の核心は、君自身が掘り起こすべきだ」


 嫌に含みのある彼らの顔は、どうにも私を苛立たせました。私自身についての情報を、私以外が抱えているというのは、泥棒に入られたような気分でもありました。何度怒鳴り、何度この欠陥品のような頭蓋を叩いたか、今となっては数えられません。


 思うに、私は「応答」が欲しかったのでしょう。それは人間という生き物の性ではないでしょうか。我々は二足で地を踏みしめ、そのたびに地球から抗力という返事を得ます。食物を摂れば、必然的に消化の過程が生まれます。社会を構成する同種へ声をかければ、言語という体裁の有無に関わらず、何らかの音が鼓膜を震わせるはずです。


 世界の基本原理として「作用・反作用の法則」があるように、我々は自身の行為に対し、何かしらの応答が返ってくることを当然視しているのではないでしょうか。ましてや「自分」という、世界より信頼できる原則に裏切られるだなんて、一体誰が想像できるでしょうか。


 事故から今までの時間は、世界から見れば三日でした。しかし、自分にとっては永遠にも思えたのです。それは世界を、自分を信じられなくなっていたからでしょう。アインシュタインは時間の絶対性を反証しましたが、私は別に光速で動く必要はありませんでした。ただ、自分を包んでいた前提を一つ剥がしてしまえばよかったのです。「世界が歪んで見えるのは、私の中の座標軸が狂っているだけだ」。そう割り切ってしまえば、いくばくか気持ちは楽になりました。それは逃避のようでありながら、現状を的確に把握しているようでもありました。


 医者曰く「不幸中の幸い」だそうで、記憶の欠損以外に身体の異常はありませんでした。そうして私は半ば急かされるように退院し、記憶の中で住んでいた家へ戻りました。そこには誰の姿もなく、宙をたゆたうホコリ、部屋を覆う薄闇、やけに響く秋虫の声が、まるで夢の中にいるような疑いを芽生えさせました。そんな中で、すり減ったフローリングの冷たさだけが、私に現実感を与えてくれました。


 私は携帯電話を起動し、世話を見てくれた友人に電話をかけました。コール音が重なるごとに、視界が闇に慣れていくようでした。四コール目で音が途切れ、一瞬の沈黙。そののち、彼の心配げな声が飛び出してきました。


 第一声は「ちゃんと家に着いたのか」。学校帰りの小学生にかけるような言葉でした。彼の気遣いをありがたく思いながらも、今の自身の矮小さをひしひしと感じました。数分間、病院でのことや今後のことを語り合いましたが、私が電話をかけた理由はそこではありません。彼の言葉がまとまり始めたと悟り、手の震えを堪え、冷えた空気へ言葉を置きました。


「本当に、事故だったのか?」


 受話器の向こうで、彼は何かを言いかけ、息を呑むような音を漏らしました。秋虫の声がその空白を埋め、機械の雑音よりよほど不気味な旋律として耳に響きました。答えを聞きたいけれど、聞きたくない。そのジレンマを抱えていること自体が不快でした。


「……完璧な事故なんてない」


 彼は明確に、不明瞭な言葉を示したのです。それだけ告げると、ぶっきらぼうに通信は途切れ、部屋には再び薄闇が戻りました。私は所在なくうろついたあと、ようやく一時的な腰掛けを見つけました。ベランダに置かれた二つの小さな椅子。その片方に腰を下ろすと、奇妙に落ち着くのでした。


 空には満月が浮かんでいました。何一つ欠けたところのない、完全な円に近い形。不均整にへこんだクレーターですら、完璧な法則によって形づくられているように思えました。嫌というほど輝く月面は、だんだんと私をあざ笑う誰かの顔へ変じていく気がしました。霧のような白い月光は、私を無理矢理明るみに引きずり出し、下卑た笑い声を浴びせてくるのです。


 私は月の視線から逃げるように、そっと目を逸らしました。そこには、もう一台の椅子がありました。すると、それまで抱えていた違和感が、全て回収されていくような感覚を覚えました。


 どうやら、生活を共にする誰かがいたようなのです。

 いくら思考回路を巡らせても、その者の名前や素性、顔の一部すら想像の欠片も浮かびません。それでも一つの直感が脳裏をよぎりました。


「月が綺麗ですね」。

 そう言ったのは、多分その人でした。


 確かそのフレーズは、愛を囁くのと同義だったはずです。ならば、その人は私を愛していたのでしょうか。配偶者、恋人、もしくは私を一方的に慕う人間。そのいずれかでしょう。


 三択に絞っても、記憶は頑として答えてくれません。ただ、薬指に痕がないことから、妻という線はすぐに消えました。では恋人だとして、彼女はどこへ行ってしまったのでしょう。友人より先に病床へ駆けつけるのが自然なはずなのに。


 ………………『事故』。


 その一般名詞が、何よりも強い影を帯びているように感じられました。なぜ同居人が私の元へ現れないのか。なぜ友人や医者が真相を教えてくれないのか。ある最悪の仮説を立てれば、すべてが線となって繋がってしまうような気がしました。


 私はその思案に蓋をし、頭の片隅へ押し込めました。コップ一杯の水を喉へ流し込むと、神経上の仮想動作が現実に後押しされるようで、妙な落ち着きを覚えました。


 それから私はソファーに倒れ込み、熱しすぎた脳を冷ますように目を閉じました。月光を避けるため、カーテンを閉じるのも忘れずに。


 翌朝、目を覚ますと、無意識に伸びをしてから起き上がりました。どうやら、記憶を失う前からの癖のようです。眠気まなこで考えなしにカーテンを開くと、途端、まばゆい朝焼けに両眼が焼かれるような錯覚を覚えました。不思議なことに、その光景をしばらく眺めていました。月とは違い、不定形の太陽こそが、正面から私と向き合ってくれる気がしたのです。


 私は、朝焼けの中でしばらく立ち尽くしたまま、月と太陽の違いについて考え始めていました。それは理科の教科書に載るような話ではなく、もっと生活に近い、私自身の感覚に根差した比較でした。


 太陽は、疑いようもなく我々に恵みを与えます。その光がなければ、小麦は芽吹かず、朝の食卓にパンが並ぶこともありません。洗濯物が乾くかどうかを気にすることも、休日に公園へ出かけようと思い立つことも、すべて太陽があるからこそ成立しています。もっと言えば、我々は太陽なしでは生まれてくることすら叶わなかった存在です。太陽は、存在の前提条件として、あまりにも大きく、あまりにも当然の顔でそこにあります。


 では、月はどうでしょうか。


 月の光がもたらすものは、決して多くありません。街灯のない夜道を、辛うじて照らす程度。闇に沈みかけた輪郭を、曖昧に浮かび上がらせるだけです。しかもその光は、親切というよりも冷淡で、迷う我々を助けるというより、上空から静かに見下ろし、どこか嘲っているようにさえ感じられます。当の月自身も、表面はあばただらけで、その光とて太陽からの借り物に過ぎません。それなのに、満ち欠けの一瞬だけは、完全無欠の円を気取って夜空に鎮座するのです。


 そこまで考えて、私は自分の眉間に力が入っていることに気づきました。月を論じているはずが、どうにも胸の内側を爪で引っかかれているような違和感がありました。


 ……結局、私も同じなのではないか。


 反射するものがなければ、私は何ひとつ発することができない。そう思い至った瞬間、胸の奥が妙に冷えました。太陽の光にあたるものが、記憶なのだとすれば、それを受けて形を成しているのが、今の私です。過去の出来事、他人の言葉、残された感情。それらを反射して、私は自分を「私」だと認識しているに過ぎません。


 そう考えると、今の私の痛みや、理由のわからない苦しさも、月光の反射のようなものに思えてきます。自分から発しているつもりでいて、実際には借り物の光を歪めて返しているだけ。そこに主体性があるのかどうかは、ひどく怪しい。


 けれど、昨夜私が浴びていたのは、本当に月光だけだったのでしょうか。


 そうではない、とすぐに答えが出ました。眼下の街には無数の灯りが点在し、遠い水平線には貨物船がいくつも、星屑のような光点となって浮かんでいました。信号機、ネオン、窓越しの生活。夜は、決して月だけで構成されてはいなかったのです。月光はそれらと混ざり合い、純粋な形を失っていました。


 どうやら、純粋な月光など存在しないらしい。


 街の光というノイズが、私を照らし出してくる。私という存在は、私の記憶だけで作られているのではなく、他人の営みや、無関係な仕事や、偶然そこにあった光によっても形作られているのかもしれません。その事実は、奇妙な安心と、同時に言いようのない空虚さを伴っていました。


 そうして思考が一巡したところで、私はようやく一つの結論に辿り着きました。


 ああ、どうやら、彼女のことは思い出せないらしい。


「月が綺麗ですね」と彼女は言った。その言葉だけが、月の残光のように脳裏に引っかかっています。しかし、その言葉に込められていたはずの温度や意図は、もうどこにも見当たりません。彼女自身も、きっと月と同じだったのでしょう。記憶の反射、情報の反射。誰かの光を受けて輝いていただけの存在。


 その好意を、私は愛だと思い込んだのかもしれませんし、あるいは最初から、受け取るに値しないものだったのかもしれません。


 そう結論づけると、胸の内は不思議なほど静まり返りました。私は朝の光から逃げるように身を翻し、太陽に背を向けます。光の正体がどうあれ、生活は続いていくのです。


 私は仕事へと向かいました。

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