幻聴
ああ、もう嫌だな。
辞めちまいたい。
痛いのにはなれたけれど、苦しいものは苦しい。
金にもならないし。
なんで始めたんだけっかな。
俺はそんなことを考えながら練習用の赤いグローブに拳を入れた。
スパーリングでも今は十二オンスを使ってやっている。できるだけ試合に近い形でやりたかったからだ。
リングに上がり立ち上がって構える。目の前の相手はまだプロになりたての新米だ。スパーリングには慣れているけれど、十二オンスでは初めてだろう。
俺は彼の目を見る。
ヘッドギアしてるんだから、そんなにビビるなよ。まあ、試合経験がないんじゃ仕方ないか。
三分間と一分間を交互に鳴らす鐘が鳴った。
それに合わせて周りの人間も練習を初めて、俺と彼もグローブを合わせた。彼は宜しくお願いしますと言った。
軽い左ジャブを打ってみると、彼には思いのほか見えてるようで軽くガードされた。彼は左右に体を揺すりながら半歩前に踏み込んでから一歩下がり、間合いを空けた。
「どうせ無理なんだろ」「なんにも続いたことないじゃない」「口先ばっかだよね、お前は本当に」
うるさい。そう思った瞬間、天井のライトが見えた。
俺の顎が上がっている。
慌てて両の手を顔に持ってきてガードをする。ガードの上にパンチを二発受けてから、左側に回り込んだ。
一発ヒットさせたからか、ほんの二十秒まえよりも彼の目に恐れがなくなっているようだ。
いまの俺の戦績は八戦六勝二敗五KO。俺もまだまだこれからだが、試合に出たことのない彼にスパーリングだとしても負けるわけにはいかない。
最初は順調に六勝したが、このあいだで二回連続で負けてしまった。
「ボクシングは厳しいんだよ。ケンカが強いヤンキーでもギャングでも、チャンピオンにはなれないし、チャンピオンになれたって生活していけないんだよ」
うるさい。
左肩でフェイントを入れてから、右フックと一緒に飛び込んでいった。彼はガードをしながら後ろに下がった。思惑通りにコーナーに追いつめた。
ワン・ツー・フック。間合いが取れない相手に対してなら、コンビネーションが当てやすい。彼は一心不乱にガードをしている。
「やるだけやればいいじゃない。ダメだとしてもまだ若いんだから」
うるさい。
ワン・ツー・フックからもう一度体を捻ってリバーブローを打った。吸い込まれるように左手が彼の脇腹を突き刺す。
彼は一瞬、動きを止めてから、力なくマットに腰をついた。俺は彼を見下ろす。すぐにコーチがやってきて、俺はセコンドに追いやられた。コーチはしゃがみこみ、彼に大丈夫かと声をかけている。
「お前がやろうとしていることは相当に厳しいんだぞ。そんなこともわからないのか。なんのためにそんな無駄な努力と時間の浪費をするんだ」
俺は、ただ楽な道に進みたいなんてわけじゃない。
コーチが立ち上がり、俺に近づいてくる。彼はまだ出来るから、やらせてくれって言ってるんだが、お前はどうだ、そう俺に問いかけた。俺は時計に目をやって、残りが四十三秒しかないことを確認してから、彼がやりたいのならと答えてから、別にやりすぎませんよと付け加えた。コーチは分かったとだけ言ってから、彼に手で合図を出した。
「すげえきついし、もう無理だよ。……もう、辞めようよ」
なんでそんなことを言う? 俺が抜け殻になればいいのか?
セコンドから離れてリングの中央に向かう。両手のグローブを出し、彼のと合わせる。彼は細い声で宜しくお願いしますと言った。
ただそれだけだったのに、何かを熱くさせるものを感じた。やはり俺も手は抜かない。
彼は肩で呼吸をしている。リバーブローは決して浅く入ったわけじゃない。本当は立ってるのも辛いはずだ。彼が勢いよく踏み込んできてパンチを出す。俺はバックステップとスウェーでかわしながら左へ左へと回り込む。彼は構わずに殴りかかってくるが、疲れのせいか大振りで、パンチの軌道はぜんぶ見える。
大振りのパンチに合わせて、カウンター気味に左のフックを出して彼の動きを止めるが、それはほんの一瞬だ。そこから右フック、屈みながらリバーブローを出したがこれはフェイント、彼は先程の恐怖心からか慌ててボディをガードし、俺は右のアッパーでがらあきの彼の顎を打ち抜いた。
彼は膝から崩れて倒れた。
コーチが慌ててリングに入ってきて、俺にやりずぎだぞと言いながら、彼に駆け寄った。
彼はすぐに体を起こして、ヘッドギアを付けているから大丈夫ですよとコーチに言う。俺も彼に近づいていって、大丈夫かと声をかける。
「大丈夫です。真剣に来てくれてありがとうございました」
「あんまり無理すんなよ」
「いつも無理しているのは先輩のほうですよ。それを見て僕は……。僕も先輩のように強くなりたいんです」
俺は何も言わずにリングから出た。
耳を澄ましても幻聴はもう聞こえなかった。