これはあなたの骨と髪
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
「こんばんは」
桜子は言った。いつものように夜の街を散歩していたときのことだ。植物が濃厚にはびこる道の向こうから、女の子がよろよろと歩いてきた。だから、あいさつをした。それだけのことではあったが、桜子は歓喜で全身の温度が急激に上がるのを感じていた。慌てて意識的にクールダウンさせる。桜子の声に反応したのか、女の子は立ち止まった。
「もうずうっと、ここには私しかいないと思ってた。だって、人間の生体反応がなかったもの。あなた、どこからきたの?」
女の子は、身体をゆらゆらと揺らして唸っているだけで桜子の質問には答えてくれない。かろうじて顔の肉は原型を留めているものの、彼女の目には黒目がなく真っ白だったし、彼女の全身の皮膚や肉は腐って、いまにも崩れ落ちそうだった。ポニーテールにしていたらしき髪の毛もつやがなく、ぼさぼさにほつれてしまっている。反対に、彼女の着ている衣服はきれいなままだった。白い半袖のブラウスが、血のようなものでどす黒く汚れていることを除いたら、チェック柄のプリーツスカートもきれいなものだ。ちゃんと靴下も靴も履いている。白の靴下と黒のローファーだ。どちらも砂埃で汚れてはいるが、やはり状態はよさそうだ。その身に着けているものから推測すると、彼女はもしかしたら高校生くらいの年ごろなのかもしれない。だったら、私と同じくらいの年ごろだわ、と桜子はうれしく思う。桜子は、高校生くらいの年ごろの少女としてこの世に生み出された。桜子はセーラー服を着せられていた。それが、桜子という役目の象徴だったからだ。彼女の身なりに比べ、桜子の着ているセーラー服のほうが、年月を経て、ぼろぼろに朽ちてしまっている。
「あなた、お名前は? 私は、桜子」
桜子の自己紹介にも、女の子は唸るだけで答えない。彼女は全身からとんでもない異臭を発していたが、桜子にはそれを感じ取ることはできなかった。嗅覚はとっくに失ってしまっていたのだ。
「しゃべることができないの? それとも、その唸っているように聞こえる声が、あなたの言葉なのかな」
桜子は言う。自身の翻訳機を起動してみたが、うまくいかなかった。
「すっごく久しぶりに起動したけど、私の翻訳機は壊れているみたい。あなたの言葉がわからない」
桜子は少し寂しげに呟いた。
「でも、いいや。言葉なんてわからなくてもいい。私はあなたに会えてうれしい。私、ずっとお友だちがほしかったんだ」
桜子は、両手で女の子の右手を取って言った。
「ねえ、私といっしょにいてくれる? お友だちになろうよ。この世界で、私たち、きっとふたりきりだよ」
桜子がその手を強く握ると、肘のあたりから女の子の腕があっさりと千切れてしまった。千切れた断面から、どろっとした体液と肉が地面に滴る。
「ごめんなさい」
桜子は慌てて謝罪の言葉を口にする。人を傷つけてしまった。桜子はその事実に恐怖を覚えた。
「そんなに強く握ったつもりはなかったんだけど……」
しかし、女の子は騒ぐことなく、さっきから変わらず小さく唸りながら身体をゆらゆらと揺らすだけだった。
「痛くないの?」
不審に思って桜子は言う。それでも、やはり女の子は答えてくれない。そのとき、桜子の脳にあたる部分が激しく動き出した。そして、ひとつの答えを導き出す。
「ねえ、あなたって、もしかしてゾンビなの? それなら生体反応がないことも納得ができるんだけど」
桜子は千切れてしまった女の子の右腕をぎゅっと抱きしめながら言った。
「あのね。もうずっと、ずうっと前にね、ゾンビが大量発生したことがあるんだよ。そのゾンビたちも、もともとは人間で、人間の作った生物兵器によってゾンビになったのね。でも結局、人間の作った別の兵器によってみんな消えてしまったんだ。あなたは、あのときのゾンビの生き残りなの?」
そう言ってから、桜子は自分の間違いを訂正した。
「そうだった。ゾンビって、もう死んでるんだっけ」
桜子は気を取り直し、
「あなたのこと、ゾゾ美って呼ぶね。名前がないと不便だから」
言いながら、ゾゾ美の肘から先のない二の腕にそっと触れる。
「ゾンビだから、ゾゾ美だよ。現代風で、かわいい名前でしょ」
桜子は、ゾゾ美の千切れた腕を片手に持ち、もう片方の手でゾゾ美の二の腕をそっと掴んで歩き出す。これ以上、ゾゾ美の身体が崩れてしまわないように、桜子は注意しながらゾゾ美を自分の住む場所へいざなう。脚を引きずるようにしてゆっくりと歩くゾゾ美に合わせて、桜子も努めてゆっくりと歩く。どうせ、急ぐ理由なんてなにひとつないのだ。用事もないし、待っている誰かもいない。
植物におおわれた廃墟が建ち並ぶ一角、その中のひとつ、ひと際小さな廃墟を桜子は拠点としていた。桜子は眠らない。しかし、身体機能を休めることのできる場所が必要だった。桜子がこの家を選んだのは、置かれていた家具が頑丈だったからだ。雨風にさらされていない分、どの家でも屋内のもののほとんどはまだ形が残っていたが、この家の家具はことさら丈夫な素材でできていたらしく、いまでもちゃんと使える。重量のある桜子が座っても壊れない椅子やベッドがあるだけでも幸運だったと桜子は思う。
「ここが、私の家。そして、今日からあなたの家でもあるの」
桜子は言った。
「ねえ、ゾゾ美。私たち、今日から家族だよ。お友だちで、そのうえ家族だなんて素敵だね」
ゾゾ美は、唸りながら身体をゆらゆら揺らしている。
*
桜子は休むが眠らない。ゾゾ美も眠らないようだった。ゾゾ美は、昼間は少し動きが鈍いが夜になると活発になる。なので、ゾゾ美は夜によく出かける。ちゃんと靴を履いて出かける。なにか目的があるわけではなく、ただ、そのへんをゆっくりとうろつくのだ。夜の間、ひとしきりうろつくと、どういうわけかちゃんと家に帰ってくるので、ゾゾ美もここを自分の家だと認識してはいるらしい。そして、ちゃんと靴を脱いで家に上がるのだ。ゾンビになる前の生活習慣が身体にしみついているのかもしれない。
いっしょに暮らし始めて最初のころは、ゾゾ美が出かけるたびに、ちゃんと戻ってくるかどうか心配して、うろつくゾゾ美について歩いていた桜子だが、最近は自分もゾゾ美以外にも誰かいないかと、あたりを探索に出ていた。誰も見つけることはできなかったけれど。
大事に持っていた、千切れてしまったゾゾ美の腕は、肉が腐って落ち、その後、骨もバラバラになってしまった。桜子はその骨を家にあった錆びたクッキーの空き缶に入れてベッドの下にしまっておいた。そして、ときどき取り出しては、中の骨を眺めて楽しんだ。ゾゾ美の骨は、桜子の初めての持ちものとなった。
「今日は、ゾゾ美といっしょにお散歩しようかな」
その日、夜になると桜子は、出かけるゾゾ美について行くことにした。今夜は月がとても大きい。おかげで夜なのに明るい。夜目は利くが、やはり明るいほうが余計なエネルギーを使わなくて済むので楽だ。
「ゾゾ美はお腹が空かないの?」
飲まず食わずでも動けるゾゾ美に、桜子は尋ねる。そして、すぐに自分の迂闊さに気づき、
「ああ、そっか。ごめんね。ゾゾ美は、もう死んでるんだっけ」
質問をかき消した。
「ねえ、ゾゾ美はゾンビだから、人間の肉を食べるんでしょ?」
桜子は質問を変える。ゾゾ美は返事をしない。
「でも、食べてどうするの? 内臓の機能はきっともう正常に働いていないでしょ。栄養にもならないし、空腹とか満腹とか、ゾゾ美は死んでいても感じるの?」
ローファーを履いた脚を引きずるようにして、ゾゾ美は進む。桜子はゾゾ美のペースに合わせて並んで歩く。桜子に与えられていた靴はもうとっくに朽ちてしまっているので、桜子は裸足だ。
「それとも、食べることが目的じゃないのかな。人を噛んで、ゾンビを増やすのが目的? それなら、ゾンビって本当はすごく楽しいのかもしれないね。だから仲間を増やすんだ」
ゾゾ美の反応がないので、桜子はひとりで勝手にしゃべる。
「私のことを食べようとしないのは、ゾゾ美は、私が人間じゃないってわかってるから?」
ゾゾ美はやはり、唸るだけでなにも言わない。
「私は、空腹とか満腹とか、感じないんだ」
桜子は、人工知能が搭載された人型ロボットだ。人間の皮膚に似せた特殊な素材で全身をおおわれているものの、その中身は頑丈な金属である。
「もし私が人間だったら、ゾゾ美に噛まれてゾンビになりたかったなあ。ふたりでゾンビになったら、きっと楽しいよね」
桜子は明るく言う。
むかしむかし、ある国が半永久的に絶えることのないエネルギーを開発した。そのエネルギーを動力として、試験的に造られた初めてのサンプルが『SAKURAKO』だった。その国の、ずっと古い時代に流行していたらしい女性の名前を与えられた桜子は、相手の警戒心を薄れさせるような素朴な少女の姿をしていた。製作者は、誰かの話し相手になるような「親愛」をテーマにしたロボットを意図して桜子を造ったらしい。その製作者の趣味で、桜子はレトロなセーラー服を着せられていた。当時はもうセーラー服など誰も着ていなかったので、セーラー服は桜子独自の象徴として認知された。そして、桜子は半永久的エネルギーの象徴だった。しかし、半永久的エネルギーが国内で広く利用され始めると、そのエネルギーを巡って他国との戦争が起こった。その過程で人間が大量にゾンビ化することになり、やはりその過程で人類ごと少しずつ消滅していった。最後に取り残された桜子は、永い年月をたったひとりで過ごした。街全体を、成長した植物がまるごと飲み込んでしまうまで、ひとりで過ごした。虫や動物はいたが、桜子に搭載されている翻訳機では彼らの言語は翻訳できなかったし、彼らはいつだって自由で、桜子のそばには留まっていてくれなかった。誰かの話し相手になるために生まれたはずが、その誰かが、誰もいなくなってしまった。
そんなことを、桜子はゾゾ美に滔々と語って聞かせる。
「ゾゾ美ともお話できたらいいのにな。ねえ、ゾゾ美はどこからきたの? どうやって私の目の前に現れたの? ゾンビも人間も、もう誰もいないのに」
そのとき、初めてゾゾ美が顔を動かして桜子を見た。見た、というには、その眼球は真っ白で黒目が見当たらなかったが、桜子はそのとき、初めてゾゾ美と意思が通じ合ったように感じた。
ゾゾ美は再び顔を前方へ向け、そして歩調を少しだけ速めた。
「急がなくてもいいよ。無理しないで」
ゾゾ美の脚の肉や骨が崩れてしまいそうで不安になった桜子がそう言うと、ゾゾ美の歩調はまたゆっくりに戻った。
「ねえ。もしかして、どこか、ちゃんと目的地があるの?」
ゾゾ美はやはり返事をしない。桜子は、ゾゾ美についてゆっくりと歩く。
しばらくして、ゾゾ美は大きな駐車場だったらしき空地のある廃墟の前で立ち止まった。蔦におおわれた色彩の薄くなった看板から、この建物がスーパーマーケットだったことがわかる。ゾゾ美は壊れた硝子戸から中に入り、そのずっと奥の半開きの扉の前で立ち止まった。
「ここに、なにかあるの?」
桜子は扉を全開にし、中に入る。その部屋には、食料が大量に保管されていた。そして、その大半は床にめちゃくちゃに散らばっていた。大量の肉や魚、そしてアイスクリーム。アイスクリームはカップと蓋の隙間からどろっと溶け出している。肉や魚は腐ってひどい臭いを放っていたが、嗅覚が壊れてしまっている桜子は、その臭いは感じなかった。この部屋はおそらく、冷凍倉庫だったのだろう。
「ゾゾ美、もしかしてずうっとここにいたの?」
半永久的エネルギーにより、人類がいなくなったあとも電力はそのままだった。その電力が最近、ちらほらと切れ始めていることに桜子は気づいていた。可動していた冷凍倉庫の電力が切れ、冷凍されていたゾゾ美が解凍され、さらに扉のセキュリティーが解放された。ゾゾ美は自由になったのだ。ゾゾ美は誰かに閉じ込められたのか、それとも自分で冷凍倉庫へ入ったのか、それはわからない。しかし、人類がゾンビを兵器で消そうとしたそのとき、頑丈な冷凍倉庫の中で動けなくなっていたゾゾ美だけが無事だったということらしい。
「そうだったんだね」
相変わらずゾゾ美は唸るだけだが、桜子はひとりで納得した。
「秘密をおしえてくれて、ありがとう」
桜子はゾゾ美に礼を言う。ゾゾ美は、ゆらゆらと身体を揺らす。
*
その日は朝から雨風が強く、雷が鳴っていた。
ベッドで休んでいた桜子の傍らに、いつの間にかゾゾ美が立っている。ゆらゆらと身体を揺らしながら、ゾゾ美はそこを動こうとしない。
「どうしたの、ゾゾ美」
桜子は身体を起こしてベッドの淵に座る。そのとき、窓の外がピカッと光った。遅れてドカンと大きな音が聞こえてくる。身体を揺らしていたゾゾ美がぴたりと静止する。
「雷がこわいの?」
桜子が言うと、ゾゾ美は低く唸った。そして、
「こ……」
いつもの唸り声ではなく、ゾゾ美は初めて、声らしい声で発音した。
「こ、こ、わ、こ……こ、わい……い……」
「ゾゾ美!」
桜子は、ゾゾ美が言葉を発したことがうれしくて、ゾゾ美を抱きしめたくなった。だが、ゾゾ美の身体が折れてしまうことを危惧して思いとどまる。桜子は特別怪力に造られているわけではないのだが、ゾゾ美の身体が壊れやすいのだ。
「ゾゾ美、私といっしょにいよう。そうしたら、きっとこわくないよ。ここに座って」
ゾゾ美はもたもたと動くと、言われたとおりに桜子の隣に腰を下ろした。
「私は雷がこわいとは思わないんだけど、雷がこわいって人がいることは知ってるよ。私に雷が落ちたらきっと壊れちゃうのに、こわくないなんて不思議でしょ。そういえば、ゾゾ美はもう死んでるのに雷がこわいなんて不思議だね。もしかしたら、生きてるときから雷がこわかったのかもしれないね。ゾゾ美、生きてたころのこと、覚えてる?」
桜子はゾゾ美の肩に自分の肩をくっつけて話しかける。ゾゾ美は口をゆっくり開いたり閉じたりした。声を出そうとしているのかもしれない。しばらく待ったがゾゾ美の声は聞けなかった。
「ゾゾ美は、どんな子だったのかな。なにが好きだったのかな。もし、ゾンビになる前のゾゾ美と出会っていても、私たち、こんなふうにお友だちになれたかな。私はね、お花が好き。私を造った人が、女の子はお花が好きだろうって思い込んでたから、私はお花が好きなんだよ。だから、いま植物にまみれてるこの世界を、私は結構気に入ってるんだ。緑がたくさんで、お花がいっぱい咲くから」
桜子は話し続ける。ゾゾ美が雷に気を取られないように。
「お友だちも好き。私は誰かのお友だちになるために造られたから。だから、ゾゾ美のことが大好き」
ゾゾ美は座ったままゆらゆらと身体を揺らした。
「ゾンビになる前のゾゾ美には、きっとお友だちがいっぱいいたんだろうね。この世界に私とふたりきりなんて、寂しい?」
桜子の言葉に、ゾゾ美の動きが止まる。
「寂しくないの? そっか。ありがとう」
桜子はゾゾ美に礼を言う。
「雨はもうすぐ止むよ。お昼ごろにはきっと止むから。大丈夫だよ」
桜子の言葉どおり、しばらくして雨は止んだ。雲の間から、陽の光が植物たちに降り注いでいる。
「雨が止んだから虹が出てるかもしれないよ。ちょっと外に出てみよう」
桜子はゾゾ美を促して外に出る。
「ゾゾ美、見て」
桜子は空にかかった大きな虹を指差す。
「きれいだね」
ゾゾ美も頭を傾けて虹を見上げている。虹が消えるまでの少しの間、ふたりは空を見上げていた。虹が消え、家に入ろうとしたときに、桜子はゾゾ美が緑の繁みにじっと顔を向けているのに気づいた。
「あ、お花」
ゾゾ美の向いているほうには、むせかえるような緑の中に、ちらほらと赤やピンクのバラに似た花が咲いていた。永い年月をかけて進化したらしい名前のない花だ。
「お花が咲いてること、おしえてくれたの?」
ゾゾ美は、身体をゆらゆらと揺らした。
「ありがとう、ゾゾ美」
桜子は花を一本ずつ摘んで、器用に花冠を編むとゾゾ美の頭に乗せてやった。
「かわいいよ、ゾゾ美。お姫さまみたい」
ゾゾ美はリズミカルに身体を揺らした。
「うれしいの? よかった。私もうれしい」
*
「私たち、なにも食べないでも半永久的に動けるところは同じだね」
昼間、ゆらゆらと身体を揺らしながら椅子に座るゾゾ美の髪の毛を梳かしながら、桜子は言う。桜子はゾゾ美の髪の毛を、歯の欠けた櫛でゆっくりと丁寧に梳かす。以前、何気なくゾゾ美の髪の毛を梳かしたら、梳かした分だけごっそりと頭皮ごと抜けてしまったのだ。桜子はゾゾ美に謝り、頭皮の肉を髪の毛から剥がすと、その髪の毛の束を真ん中でぎゅっと結んで、ゾゾ美の腕の骨を入れてあるクッキーの空き缶に大事にしまった。そして、やはりときどき取り出しては眺めていた。
「ゾゾ美の身体は、ずっとこのままなのかなあ。もう再生することはないのかな。これ以上腐って肉が全部落ちちゃったら、ゾゾ美は骨だけになっちゃうの? 骨だけでも動けるの?」
ひとり言のように桜子は言う。
「そうだったらいいな。骨だけになっても、私のそばにいてくれたらいいな」
しかし、そんな桜子の願いは、自らのエネルギー切れで叶うことはなさそうだった。
「ねえ、ゾゾ美。半永久って、永久じゃないんだね」
ゾゾ美との夜の散歩中、急に身体が思うように動かなくなった桜子は、その場にへたり込んで言った。
「本当は、電力が切れ始めたころから気づいてたんだ。私の動力もきっともうすぐ……」
植物にまみれた道で、すっぽりと植物におおわれて、桜子は弱々しい言葉を吐き出す。
「どうしよう、ゾゾ美。私、きっともうすぐ止まっちゃう。ゾゾ美よりも早く死んじゃうかもしれない」
そして、
「あ、そっか。ゾゾ美はもう、死んでるんだっけ」
間違いに気づいて訂正する。
「私だって、生きてるわけじゃないもんね。ただ、動いてるだけ。これからも、死ぬんじゃなくて、止まっちゃうだけ。でも、ごめんね、ゾゾ美。私が止まっちゃったら、ゾゾ美がひとりになっちゃう」
ゾゾ美は、植物の中にへたり込んだ桜子のそばに立ち、その場で身体をゆらゆらと揺らしている。
「ひとりは、寂しい。私は、それをよく知ってる」
桜子は、エネルギーを振り絞り、なんとか立ち上がり、よたよたと歩いて家へ向かう。ゾゾ美もその後ろをついてきてくれる。
「ゾゾ美に、返さなきゃいけないものがあるんだ」
桜子は、ベッドの下にしまっておいたクッキーの缶を取り出す。
「ゾゾ美、これはあなたの骨と髪」
桜子はゾゾ美にクッキーの缶を差し出した。ゾゾ美は唸りながら身体を揺らすだけで、受け取ろうとはしない。
「そっか。ゾゾ美の右腕は私が取っちゃったから、持てないよね」
桜子は言って、クッキーの缶をテーブルに置いた。
「これは私の唯一の持ちもので、初めてできた大切な宝物。でも、動けなくなる前にあなたに返すね。だって、これはもともとあなたのものだったんだから。ずっと持ったままでいて、ごめんね」
一気に言って、桜子は椅子に倒れ込むように座った。
「ゾゾ美、私が死んでも、どこかへ行ってしまわないで。あなたが死ぬまで、私のそばにいて」
ゾゾ美は答えない。呆然としたようにじっとしている。
「ああ、そうだった。ゾゾ美は、もう死んでるんだっけ。そうだったね。死んでも私のそばにいてくれてたんだね」
桜子は言う。
「私の願いは、もう叶ってたんだね」
翌日の夜、ゾゾ美が玄関に向かったので、桜子はそのあとをついて行く。もしかしたら、これが最後の散歩になるかもしれない。桜子はそう覚悟していた。しかし玄関先で、ゾゾ美は立ち止まったまま身体を揺らしている。
「どうしたの? 行こうよ、お散歩」
桜子は言うのだが、ゾゾ美はやはり動かない。
「もしかして、私が外に出ないように、とおせんぼしてるの?」
ゾゾ美は首だけで振り返り、後ろの桜子を見た。
「いいんだよ。私は土には還れないけど、死ぬときは土の上で、植物やお花に囲まれて死にたい。きっと、私の身体ごと植物が飲み込んでくれるから。そうしたら、自然に還ったような気持ちになれると思うんだ」
ゾゾ美は、桜子の言葉に納得したのか、玄関の扉を押し開け外に出た。
「私が生まれたころはね、星って天体望遠鏡で見るものだったんだよ。だけど、いまは空を見上げるだけで、こんなに星が見える」
桜子は顔を上に向けたまま歩く。
「ゾゾ美も見てる? きれいだね」
ゾゾ美は立ち止まり、頭を傾けた。
「いつか、いっしょに虹を見たよね。きれいだった」
桜子は滔々と話す。
「私、これまで、きれいなものをいっぱい見たよ。虹や星もそうだし、お花が咲く瞬間や、お日さまがのぼる瞬間に沈む瞬間。動物たちの生活。桜の花も見たよ。私の名前の花。珍しい花で、この辺にはないけど、春に山のほうへ少し行くと桜の木があるんだ。ひとりで海へ行ってみたこともあるんだよ。すごく遠かったけど、歩いて行ったんだ。時間だけはたっぷりあったから。誰もいなくなってからのほうが、きれいだなって思うもの、いっぱい見た気がする。不思議だね」
ゾゾ美は空を見上げるのをやめて、桜子のほうに顔を向けている。
「だけど、ゾゾ美と出会ってからのほうが、ずっとずっと楽しかった。虹だって、お花だって、ひとりで見るよりもゾゾ美と見たほうが何倍もきれいだった。ゾゾ美の骨や髪の毛も、きれいだなって思ったよ。私にはないものだったからかもしれないね。私、ゾゾ美といっしょに、もっともっといろんなものを見たかった」
桜子の声にノイズが入り、聴き取りやすく滑らかだった声が耳障りな質感に変化する。
「ゾゾ美、ごめんね」
桜子は、どすんと重たい音を立てて後ろに仰向けに倒れた。
「もう、きっと止まっちゃう。星が見えなくなっちゃった」
植物に埋もれるようにして桜子はぴくりともせず、ただ横たわっている。
「ゾゾ美。顔見せて。見えないけど、見せて。最後までいっしょにいてくれてありがとう。ゾゾ美、大好きだよ。ゾゾ美、ゾゾ美……」
ノイズの入った、ぎゅるぎゅるした声でそう言うと、桜子はぷつりと動かなくなった。
ゾゾ美は、突っ立ってゆらゆらと身体を動かしながら、草の上に横たわる桜子を見ている。ゾゾ美の白い眼球が、どろりと溶け出し、桜子の頬にぼとんと当たると地面にはびこる植物の中に消えた。ゾゾ美は脚を引きずりながらゆっくりと引き返し、家へ戻ると、テーブルの上のクッキーの缶を左腕と胴体で挟むようにして持ち、時間をかけて桜子のもとへ戻ってきた。ゾゾ美は桜子のそばに座り込むと、もたもたした動作でクッキーの缶を開ける。
「こ……れは、あ……あなた……」
ゾゾ美の口から、ざらざらした声がこぼれる。ゾゾ美は、横たわる桜子の身体の上に、自らの右腕の骨を、左手で一本ずつ並べていく。
「あなた……の、ほ……骨と……か、か、髪」
髪の毛の束も同じように並べると、ゾゾ美は言った。
「あ……あ、げる。ぜん……ぶ、あな、た、あなた、さ、さ、さくらこ」
たどたどしく、必死に言葉を絞り出す。
「桜子。あなた……に、ぜ……んぶ、ぜんぶ、あげ、あ、げる」
ゾゾ美のもう片方の眼球がどろりと落ちた。
「だ、だ、だい……だいすき、さくら、こ」
ゾゾ美は、座り込んだまま、もう動こうとはしなかった。空洞になった眼窩からぼたぼたと透明な液体が滴り落ちていた。
了
ありがとうございました。