8-5.卑怯
一日一度、基本に立ち返って、祖父が教えてくれた剣の型を行う。それはもう十何年続くフィルの日課だった。
旅の途中でも、特に日中移動ばかりでその時間が無い時は、夜必ず自分の剣に触れた。そうしないと寝られない。
だから、今日もそうしていただけだったのに、まさかそれを後悔する羽目になるとは――。
月光のまぶしい、宿の中庭。人の気配がしたのは気付いていた。だけど、警戒の必要なものには思えなかったし、また見物人でもいるのだろうと放置していたら、その人はフィルが稽古を終えて剣を納めると同時に話しかけてきた。
近衛の副団長であるその人と、そうしてフィルは初めて会話らしい会話を交わした。ロンデールという名の彼は感じていた通り、とてもあたりの良い、落ち着いた人だった。だから、三十に手が届かないと聞いた時は、失礼ながらかなり驚いてしまった。
もっと驚いたのは、「あなたの師は、あのアル・ド・ザルアナックではないか」と聞かれた瞬間――心臓が口から飛び出すのではないかと本当に思った。そんな風になったのは、アレクへと襲い掛かるヒュドラの姿を見たあの日以来だった。
幸い顔色は夜の闇が隠してくれたはずだ。なぜ、と訊き返した声が強張っていなかったことを切に願う。
彼はそんなフィルに穏やかに笑ったまま、十年程前彼に稽古をつけてもらったことがある、と答えた。太刀筋が似ているのだ、と。そして、その後続いた彼の言葉にフィルは文字通り凍りついた。
「若い時分のアル・ド・ザルアナックの肖像を見たことがあります」
変わらない穏やかな表情と声音で、彼はフィルの顔を凝視しつつ、そう静かに告げてきた。
「……」
今度こそ返す言葉が見つけられなかった。
祖父に良く似ている、と微笑みながら言っていたのは祖母だった。彼女が嬉しそうに、愛しげに笑ってくれるのが嬉しくて、尊敬する祖父と似ていることが嬉しくて、この容姿はフィルにとって密かな誇りだったのだけれど……。
直後に中庭へとやってきたアレックスを見て、思わず泣きそうになった。
彼が来てくれて生まれた安堵と、まだ話が出来るほどちゃんとしていないのに、その彼に人伝に秘密を知られてしまうかもしれないという焦り、その時彼はどう反応するのだろうという恐怖。それから……その表情の険しさへの不安。
「……」
彼の瞳が今まで見たこともない鋭さを湛えて自分を捕らえた気がして、更に顔から血の気が引いていく。
「……殿下の御用はお済みですか、フォルデリーク殿?」
「ええ、お気遣いありがとうございます。……貴方も稽古に?」
そのままロンデールと話し始めたアレックスは、いつものように穏やかに見える。でも、何かがおかしい気がして、それでますます不安が増していく。
すぐそばにいるのに、なぜか距離を感じてしまって、気付いた時には左手で彼の服の後ろを掴んでいた。
「……」
綺麗な笑顔をロンデールに向けていたアレックスが一瞬驚いたような表情をみせた。視線を横のフィルへと向ける。
(……あ、邪魔をした、また迷惑を……)
物言いたげに見える彼の顔に我に返り、慌てて服を離そうとした瞬間、後ろ手に回ってきたアレックスの左手にその手を包み込まれた。そのまま強く握られる。
「……」
繋がった場所から伝わってくる体温に、鼻の奥がつんとした。
その後、ジュリアン・セント・ミレイヌや騎士団の皆が遅れてやってきて、稽古や話を始める彼らにロンデールも巻き込まれていく。
そのどさくさに紛れて、フィルはアレックスに促されるまま、部屋へと逃げ帰った。
そして――今はそのアレックスから逃れるため、シャワーを浴びている。
「……」
水を頭から浴び続けること数分。冷たさにやっと落ち着くことが出来て、フィルは思考を再開する。
(あのロンデールという人は、私がザルアナック家の出身だと多分気付いている。――なぜ? どこかで会ったことがある?)
ここに来る前に会ったことのある貴族は、王族である建国王アドリオットとフェルドリックを含めても両手で足りるほどで、それもここ数年の話じゃない。
(では、当て推量……? じゃあ、動揺を見せないようにして、しらを切り続ければ……)
フィルはそこで初めて蛇口を変え、湯を出した。
冷え切った身体が徐々に温まっていって、自然と詰めていた息を吐いた。
(その推量を、彼はアレックスに言ったりするだろうか……?)
そういえば、もう一人、フェルドリックもフィルとザルアナック家の関係を知っている。チクチク突かれてはいるけれど、彼はそのことをアレックスに言ったりはしていないようだ。
『お礼に一つ。アレックスに厄介に思われたくないなら君が『元』ザルアナックと知られないほうがいいと思うよ』
真意はいまだわからないままのフェルドリックの忠告、もしくは警告。そのくせ何かと際どい台詞で人をからかったりしてくるのは、何か意図があってのことか、それとも本当にただ遊ばれているだけか……。
フィルは眉根を寄せる。
(それにしても……アレックスが厄介に思うことってなんだろう)
顔に当たるしぶきに、今度は顔全体を顰めた。
「騎士団のことかな……?」
実は貴族の出身だったとばれると、皆はフィルに騙された、と考えるだろうか。そうなると、仲の良いアレックス、彼はただでさえ貴族だと敬遠されていたから、彼も団に居づらくなるとか?
「ありえなくは無いけれど……」
そう呟いてフィルは首をひねった。
今はそんな感じでもなくなってきたし、大体そんなことを王子が気にしてわざわざ忠告するだろうか……? あくまで騎士団内部の話で、ばれたとしてもフィルですら正式に咎められるわけではないような事柄だ。
となると、フィルが貴族であったことが問題なのではなく、貴族ではなくなったこと、だろうか?
「身分が釣り合わない……」
のは確かだろうけど、それは貴族でないことで生じる問題であって、アレックスだって知っているし、貴族でなくなったことで生じる問題じゃない。
(じゃあ、やっぱりやはり勘当されたということが問題……)
「……」
貴族から落ちこぼれた自分と、大きな貴族の子息であるアレックスが仲良くするのは、貴族の中ではまずいことなのかもしれない、と考えついて、フィルは眉尻を下げた。
ザルアナック家とアレックスの実家がどんな関係かは知らないけれど、仲が良いにしろ悪いにしろ、いいことはなさそうだ。外聞も悪いだろう。
(今は同僚として認めてもらえている。でも、同じ貴族だったのに、実の親から失格の烙印を押されたような娘だと知られたら……)
「……迷惑、になって、嫌われる、のかな、やっぱり……」
沈んだ気持ちでシャワーの湯を止め、体をタオルでくるむ。
今度は火照りすぎてしまった身体を冷やそうと、フィルはそのまま脱衣所の椅子に腰掛けた。
アレックスに実家との関係をちゃんと話すべきなのだろう。誰かに言われてしまう前に、迷惑を掛けてしまう前に。アレックスならそんなことを気にしないような気もする。
(でも……)
「フィル、大丈夫か? 随分長くかかっているようだが」
「あ、も、もう上がります」
ドア向こうから声がかかった。上擦った声で応じて、フィルは左手を口元に当てる。
(どうしよう、やっぱりすごく好きだ――……絶対に離れたくない)
目をぎゅっと閉じて、こぶしを握り締める。
一度自覚してしまったこの感情は、既にフィルの意図を離れて動き出してしまった。コントロール出来そうな気がもう全くしない。
自分がちゃんとした自分になるまで、話が出来るようになるまで、ばれないように彼と距離を取る――それが一番いい方法だと思うのに、どうしても離れたくない、そう思ってしまう。
自分のことなのに自分で何とか出来ない、それに恐れ戦く。
「……」
ふと目を開けると、曇った鏡に半分だけ自分の顔が映っている。その顔が泣き出しそうに歪んでいることに気付いて、フィルは唇を噛みしめる。
ちゃんと話すべきなのに。そうわかっているのに、言えない。だって、こわい。どうしよう、彼が私を軽蔑した顔で見たりしたら。だって、きっと壊れてしまう。彼が父と同じように私を要らないと言ったら。
――まだ自信が持てない。全部話しても大丈夫だと思えない。
着替えをすませて、そっと扉を開ける。戸の前にいたアレックスはこちらをちらりと確認すると、背を向けて寝室へと向かった。その広い背中を目で追ってしまう。
フレタイ……――。
不意に生じた衝動に、腕が勝手にその背へと伸びた。
「……」
触れた指先から伝わってくる彼の体温。立ち止まった彼に引き寄せられるように、身を彼に寄せてしまう。
「……フィル」
(あ)
低い、良く響く声に名を呼ばれて、我に返った。
寝ぼけてもいないのに、またやってしまった、やるべきことをしてもいないのに、不安を紛らわすために、また彼に甘えている。
「……」
無言のまま、アレックスの身がすっと離れた。
「っ」
拒絶された、と泣きそうになるも、卑怯なおまえの自業自得だ、と理性的な自分が自分を嘲笑う。
情けない顔をしていたのだろう、こちらに向き直ったアレックスが、眉を跳ね上げた後、苦笑を零した。
それからゆっくりと抱きしめてくれて……。
「……」
顔を押し付けた彼の胸から聞こえてきた心臓の音に、ひどく安堵した。
(本当に卑怯だ……)
アレックスの右手が顎にかかるのに合わせて顔をあげた。
青色の瞳と視線が絡んで、思考を奪われる。そして、唇に感じる振動で自分の名が小さく囁かれたことを知り、続いて彼のキスを受け入れた。
最初は優しく、啄ばむようだった口付けが、いつかのように徐々に深くなる。
彼の舌が別の生き物のように唇をなぞり、口蓋を撫でた。ぞくぞくする。すり合わされる舌の感触に身体に奇妙な痺れが走って、呼吸がままならなくなる。
「……ふ」
空気が欲しくて身を捩ったのに、顎にあった彼の手が後頭部に回って逃げ場を失った。段々激しくなるアレックスの舌の動きに応じて、身体が震える。恐怖ではなかった。体の中心から生まれてくる甘い、不思議な感覚のせいだ。
足に力が入らなくなって思わずアレックスの背にしがみ付けば、彼の左腕が腰に添えられ、そのまま持ち上げられるように体が彼へと密着する。
「……っ」
覆いかぶさるような態勢で、絡めとられるように舌が吸い取られた。全身が自分の意思とは無関係に痙攣し始める。
唇を離れた彼の舌が、そのまま首を下に辿っていく。
鎖骨の辺りに落ちた唇によって生じた微かな痛み、それと同時に脳へと突き抜けるような感覚が走って、一際高い声が短く、自分の口から漏れ出た。頭部から離れた右手がいつのまにか胸に下ろされ、優しくうごめく。
出しているつもりなんてないのに、どこから出ているのだろうというような声が自分の唇の合間から次々に零れ出て、馴染みのない部屋の中に響く。
「アレ、ク……ス……」
「フィル……」
息も絶え絶えに彼の名を呼べば、熱を含んだような声で呼び返された。ますます身体が痺れる。
先ほど留めたばかりの夜着のボタンが少しずつ外されていくのを、どこか他人事のように視界に入れた。
「っ」
地肌に直接彼の手が触れた。体がびくりとはねる。いつかと同じ感覚、でも……なぜか今回は怖いとは思わなかった。
自分のものより遥かに長い指が、露になった胸の頂きに這っていく。
「……あ」
感じたことのない感覚が体の芯に伝わり、全身に広がると四肢が細かく震え出した。再度受けた深い口付け、撫でられる口蓋と内頬、そこから生じる痺れが加わって、重力の方向を見失う。
くすぐられでもしているかのように顔に触れていた柔らかい黒髪が、再び下へと降りて行って、指の感触のないほうの胸が柔らかく熱いものに包まれる。
「っ」
同時に意識が白く泡だって……そうして立っていることすら出来なくなった。




