8-4.モラトリアム
宿の自室にあるソファに座り、食後の茶を飲んでいたフェルドリックの耳にノックの音が届いた。
「アレクサンダー・エル・フォルデリークです」
許可の声とほぼ同時に入室してきたアレックスの顔を、フェルドリックはそこに腰掛けたままゆっくりと見上げる。
自分より遥かに高い背、微妙に日焼けした肌、鍛え上げられた騎士そのものの体つき、触れれば凍りそうな空気――女の子としか思えなかった透けるような白い肌も華奢な身体も柔らかい雰囲気も、失われてしまって久しい。
「……」
フェルドリックは無言のまま、そんなアレックスの表情をじっと観察する。
フェルドリックの母親のカザック正后は、彼の父親フォルデリーク公爵の双子の妹だ。
年齢差は半年、政治的な立場が同じ彼とフェルドリックの付き合いは、彼が学友となった五、六歳の時分から数えて十年を超える。
ただ、幼少期、フェルドリックは湖西地方の離宮にいることが多かったし、アレックスはアレックスで体が弱く、学友とはいえ、一緒に過ごしたのは時間的には長くない。
だが、不思議なぐらい馬が合った。彼はフェルドリックが手放しでその頭脳を褒めることができる数少ない人間だ。記憶力・思考力共にずば抜けて高く、加えて人の感情や思考を読むことにも長けている。
そのくせ妙に人が良くて、悪意を持ってその能力を使うことがない。フェルドリックが本性をさらけ出して毒を吐いても、ため息を吐くぐらいで引くこともない。
そんな彼だから、ほとんどの人間が気付かないフェルドリックの仮面の裏も敏感に感じ取る――。
(……身構えた)
現に今彼は、フェルドリックが彼をからかう気で呼び出したことにも気付いたようだ。
そんな関係が心地よくも、少し腹立たしい。
「リック……」
ため息とともに彼が昔のように自分を呼ぶ。その声は、でも昔と違ってひどく低い。
「まあまあ、座りなよ。そんなに彼女のところに早く行きたい?」
『彼女』という言葉に反応して、アレックスの雰囲気が冷たく尖った。
それに「こわいなあ」と心にもないことを呟いて苦笑してみせれば、それにも気づいたのだろう。彼はうんざりしたように息を吐き出した。
――昔僕が占めていた、彼に一番近い場所は、今あの彼女が占めている。
そう、彼は彼女ゆえに自分の生を取り戻した。
生きて、と両親に懇願されたからではなく、生きろ、とフェルドリックに命令されたからではなく、彼女と生きたいがために。
十の時だ。彼は半年ほどザルアに療養に行き、そこからすっかり変わってしまった。そして……フェルドリックから離れていった。
立ち上がって窓辺に近寄り、硝子窓を開け放った。中庭を見下ろせば、一人、剣の型を行う彼女――フィルの姿が見える。
ぶれひとつ無く空を割く剣、乱れの無い体裁き、それらを支える長い手足と華奢な身体が、昇り始めた月の光に浮かび上がってとても幻想的だった。
(そっくりだな……)
その姿に、フェルドリックは祖父の親友であり、建国の英雄でもあるアル・ド・ザルアナックを重ねる。
少年だったフェルドリックはアルに出会うたびに、よく剣舞をねだった。フィルがナシュアナに捧げた忠誠の儀の場面の剣舞も見たことがある。
記憶の彼にぴたりと重なる彼女の動きに、ああ、本当に彼の孫なのだな、と実感する。
(……今度、彼と同じ剣舞が舞えないか、彼女に訊ねてみるかな)
『私は私のなりたい自分になれるように努力します』
王宮で再会したあの日、彼女はそう言った。どこまでも腹立たしい言葉だった。
フェルドリックは、『なりたい自分』がわからない。わかっているのは、いずれ王になり、国に、他人に一生を捧げ、そのために自分ではない何かを演じ続けて生きて、ただ死ぬ。そう皆に期待されているということだけだ。
どこまでも滑稽でくだらない人生だと思いながら、フェルドリックはそれを捨てることができない。そのくせ諦めて受け入れることもできない。
フィル──フィリシア・フェーナ・ザルアナックは、そんな自分と同じくらい愚かな人間のはずだった。
女性に生まれながら、その才能を祖父に見込まれて剣を持ち、着飾りもせず、社交の場に出ることもなく、山奥でひたすら修行し、他人のためにその力をふるうことを期待されて生きている。
フェルドリックと違って、能天気な彼女はそれを疑問に思うことすらなかったようで、その無邪気さが一層癇に障った。
だが、大人になり、祖父を失った彼女は、剣を捨てて結婚するという、貴族令嬢に期待される当たり前の人生をバッサリ捨てた。
困難を承知で、自らの望むように生きようとする彼女――自分と同じだと思っていた彼女は、そうじゃなかった。
『この先は私の意志です。私がそうしたいと、そうありたいと願った在り方です。それをあなたが愚かだと、不幸だと決め付けて蔑むことはできない』
何もかも見透かされている気がした。同時に、浅ましさを指摘されていると感じた。
(そこまで考える頭、あいつは絶対持ってないのにな)
ついでに言えば、わざわざ他人を貶めようとすることもないだろう、まっすぐで善良と言えば聞こえはいいが、鬱屈自体ほとんどない単純馬鹿だ。
自分の馬鹿馬鹿しさに思わず鼻を鳴らせば、目の前のアレックスの眉間に皺が寄った。
「リック、何があった」
フェルドリックは、彼が自分の命以上に大事にしている彼女をつついて遊び、彼自身をもからかいの対象としている。そして、彼はそうと気付いている。なのに、こうしてフェルドリックの心配をしてくる。
(こいつも善良というか、馬鹿というか)
『皆も幸せにできて、自分も幸せになれる』
もう一人、まっすぐで善良という言葉がそのままあてはまった少女を思い出して、フェルドリックは苦笑を零した。
「別に何も。ただ本気で爺さんに生き写しだなと思ってさ」
「……言うなよ、誰にも」
「言わないよ」
視線を中庭のフィルに戻しながらそう言えば、アレックスが横に並んだ。
貶めてやるつもりだった。フィルだけ自由になろうなんて許せない。望む未来に歩いていこうとする、無謀で、それゆえに奇麗な存在を、自分と同じところへもう一度引き摺り下ろしてやろう、と。
だが、今となってはそれもめんどくさい。
「……」
横目でアレックスをうかがえば、同じ彼女を憧憬するような、蕩けそうに甘い視線で見つめている。
その姿をやけに遠く感じる。
「……そろそろ、かな」
中庭に面したドアの一つが開き、そこから人影が出てきた。アンドリュー・バロック・ロンデールだ。彼は迷うことなく、対方にいるフィルへと向かって歩いていく。横のアレックスも気付いたらしい。息をのんだ。
「婚約しようというぐらいなのだから、少しぐらいは知り合わないとね」
「彼にフィルがそうだと話したのか……?」
「いや、言わないよ。彼がどこまで知っているかも知らないし、興味も無い」
興味があるのはフィルだけ、アレックスだけ――フェルドリックをおいて、変わっていく二人だけ。
月明かりの下、話し始めたロンデールとフィル、二人の影が寄り添うように地面に落ちている。
「……」
無言のまま踵を返し、アレックスが振り向きもせず部屋を出て行く。フェルドリックは小さく笑いながら、肩越しにその姿を見送った。
妬み、なのだろう。でも、どちらに?
自分の道を自ら選んだアレックスと、それを選ぶきっかけを与えたフィル。
自分の道を自ら選んだフィルと、それを選ぶきっかけを与えたアレックス。
それとも両方にだろうか。そういう相手を見つけた幸運な彼ら――。
しばらくの後、庭に落ちた二つの影に、この建物から出たアレックスの長い影が近づいていく。
そうして並んだ三つの影は、緩やかに互いの距離を変えていく。
(あと少し……)
自分が決意を固めるまであと少し。だからそれまで少しだけ――。
「……」
今宵は満月。明るく、一片の曇りもなく輝くその美しさが、今は少し目に痛い。




