8-2.揶揄
「やあ、お邪魔しているよ」
「……」
例えば、理解を超える状況に直面した時。
例えば、複数の疑問が一気に浮かんだ時。
例えば、嫌い、もとい、苦手な相手に心の準備なく対面した時。
――現実を直視したくなくなる。
わかっている。剣士としては失格だ。だが、この場合は生死に関わるわけではないので、回れ右して見なかったことにしても祖父は許してくれるのではなかろうか。いや、逃げる方がむしろ生命に、特に精神に健全だ。
「フィル、何のまねかな、それは」
踵を返した直後、背後から何かの罠としか思えないほど美しい声が、忌まわしくも自分の名を呼んだ。それにゴクリと唾を飲み込んでしまったのは本能のなせる業だ。
「……」
恐る恐る振り向く。見間違いであってほしいと切実に思うのに、窓際に置かれたソファの一つに、この世の存在と思えない、正確には地獄の主はかくやあらんという美貌の持ち主が優雅に足を組んで座っている。
中でも最大の不幸は、その人が自分へとにこやかに笑いかけていることだ。
目に映る彼の笑顔は、美しくも優しい。が、フィルは知っている――あの顔こそが危ない。
(やっぱり逃げる……いや、この人がその気なら、なんだかんだで引き留められる。ならいっそ気絶させる? いや、あの瘴気、触れた瞬間こっちが卒倒する……)
「――ろくでもないことを考えているな」
「っ」
(ばれた!)
笑みを深めた彼に、フィルは全身の毛を逆立てた。この笑顔を前に「ひぃっ」と漏らさなかった自分は最高にえらいと思う。
(だ、が……相手は王子、王族、おまけに太子だ……。騎士が仕えるまさにその相手――大体頑張るって決めたところじゃないか、逃げるな……っ)
自身にそう必死に言い聞かせ、深呼吸を数度繰り返したフィルはその人――カザック王国王太子フェルドリックになんとか向き直った。
「あー、その、なぜ、ここに……?」
それより何より、人の部屋に勝手に入ってくつろいでるってどういう神経してるんだ、とはもちろん言えない。
「アレックスに会いたくて」
警戒と嫌気を露わに訊ねたフィルに、フェルドリックははにかむように笑ってみせる。それで余計鳥肌が立つのはいつものこととして……。
(アレックス? に会いたい? ということは、ひょっとして、まさか……)
思いついた可能性に、フィルは息を止めた。
「いつも一緒だと聞いているけれど、今日は違うの?」
軽やかな物言いの中にどうしようもない険を感じて、フィルは片頬を痙攣させた。
(いつにも増して好意的でないこの感じ……まさか、というよりまさかと思いたいが、フェルドリックはアレックスを好きなのだろうか。確かに知り合いっぽかったけど……)
ゴクリと再び唾を飲み込むと、眼前の、知っているけど知らない幼馴染の顔を見つめた。
「ええと、ど、どういったご関係で……」
「従兄弟だよ、そんなことすら知らないあたりは本当にどうしようもないね、相変わらず」
「……いとこ」
「なに、その胡散臭そうな顔は? どっちも極めつきに頭が良くて美形、血縁だって考える方が普通だろう?」
(頭と顔、はそうかもしれないけど、)
「…………アレックスは性格いいのに」
ボソッと本音を漏らしてしまってから、『しまったっ』と思った。けど遅かった。息苦しいまでに瘴気が部屋に満ちて、フィルは額に脂汗を浮かべる。
(また墓穴を掘ってしまいました、爺さま。ところで、それはそれ。後で反省しますから、今助けてください)
が心の叫び。
「言っておくけど、君よりよほど親密だよ」
「しん、み……」
想像してしまったら、くらりと眩暈がした。
若い美形の男性同士の恋愛は、貴い感じがして少女たちにとっても人気があるのだ、と以前メアリーが言っていた。だからフィルとアレックスの組み合わせは、街でそういう彼女たちの格好の餌食らしい。
言われてみて気を払えば、自分が街でアレックスと一緒にいると、顔を赤くした女の子たちが遠くできゃいきゃい囁き合っていることは珍しくないと気付いた。
(実のところ私は(多分)女なわけだけど、こっちは真実同性同士……)
『フェルドリック……』
『アレックス……』
(で、見つめ合う……? な、なんか、確かに特別な感じ? 見た目だけは文句の付けようの無いこの人とアレックスなら実際絵になる……。けど、なんか嫌。違った、だからこそ嫌)
「お茶」
「はい?」
ちょっと素敵な気がしなくもないけれど、個人的にものすごくありがたくない想像をして硬直するフィルに、彼はもちろん構わない。相変わらず見事に傍若無人だ。
「出して。喉渇いた」
「……」
(なんで私がわざわざ滞在を延ばすような事をしなきゃなんないんだ)
無言のまま、半眼を向ければ、金と緑の不思議な色の瞳が邪悪に弧を描いた。
「――どうやら余計なことを言われたいらしいね」
「ぐ」
誰に何を、とも言わないで、にっこりと可愛らしく笑うその顔は、悪魔そのものだ。
(これ、弱みを握られたってことだ、よりによってこの世でこの人だけは嫌って相手に。最悪すぎる……)
「……淹れさせていただきます」
かくっと肩を落とし、フィルは涙目になりながらキッチンへととぼとぼ向かう。
とりあえずその間は奴から離れられる、それで良しとしよう……などと卑怯なことを考えてしまっているのは、祖父には絶対に内緒にしておきたい。
* * *
「?」
開けた扉の先から茶の香りが漂ってきた。
フィルが淹れているのだろうが、出発の準備はどうしたんだ?と首を傾げつつ、キッチンをのぞいたアレックスは凍りついた。
――フェルドリックだ。
シンクに向かって立つ彼女の背後にいる彼が、一歩前へと踏み出す――その光景に息が止まった。
「っ」
考えるより早く身体が動いた。フィルの腕を取って抱き寄せ、胸の中に囲い込むと、アレックスは自らの従兄を睨みつける。
「何のまねだ、リック」
腕の中で唖然と自分を見上げていたフィルが、「……わ、たしがアレックスの気配に気づかない……? あ、悪魔の存在感たるや……!」と呻いた。
その訳の分からなさに、彼女がいつも通りであることを確認して、アレックスはようやく息を吐き出す。
「大体なぜお前がここに居る」
目を丸くして自分たちを眺めるフェルドリックに改めて声をかけるが、声音が普段より低くなった。
「……くっ……あははははは、すごい効果っ」
だが、彼はアレックスのその様子にも顔を引きつらせたフィルにも一切構わず、盛大に吹き出してげらげらと笑い始めた。
「……」
素を見せて笑う彼を呆然と見つめてしまってから、アレックスは長々とため息を漏らした。経験上、こういう時のフェルドリックはひどく厄介だ。
フィルに茶の準備を任せ、アレックスは諦めに似た心地でフェルドリックに肩を組まれながら部屋に入った。
フィルのショックを受けたような顔が少し気になったが、今はそれより彼の意図の方が気にかかる。基本的に人と共にいたがらないのに、敢えてキッチンにまで行ってフィルと二人でいた理由と、あの時見せていた表情。しかも、先ほど見せた笑い方は間違いなく彼の素だった。
(もしかして、フェルドリックもフィルを……? 彼らの婚約話はあくまで噂という話じゃなかったのか……?)
フェルドリックに椅子を勧めながら、アレックスは露骨に眉をひそめる。
だが、どこから何を切り出すべきか逡巡している間に、フェルドリックはあっさり種明かしをしてみせた。
「フィリシア・フェーナ・ザルアナックでしょ。彼女の祖父と一緒に何度か会ったことがあるし、当然知っているよ」
そう言って、フェルドリックは昔から変わらない意地の悪い顔で微笑む。
「あれが君の想い人だってことも知っているけど……ふうん、結局手に入れたんだ。執念だよねえ」
「……いつ?」
「あのね、ザルアから帰ってきて、いきなりあれだけ変わったってのに、気付かない訳ないだろう?」
「……彼女に余計なことをしゃべるな」
呆れたように息を吐き出した一つ年上の従兄から、アレックスは顔を背けた。
アレックスは、自分が昔出会った『アレク』だとフィルに話さなくてはいけない、そう思っている。だが、その瞬間自分があの『親友』であること、つまり彼女を死にそうな目に遭わせ、何もできなかった、守ってもらっただけの人間だとばれる。そうして今の自分がフィルを失うこと――それがどうしようもなく恐ろしい。
腕の中に囲い込んだフィルが微笑むたびに、幸せな気分になるのと同時に不安になる。知られたくない、そう思ってしまう。そしてどうしようもなく後ろめたくなる。
目線を合わせないアレックスへと、フェルドリックは「意外というか、馬鹿というか」と半眼を向けてきた。
「まあ、心配しなくても、あいつに好き好んで何かをくれてやる気はないよ。けど、あいつも少しは成長してるみたいだし、いつまで隠しておけるか。ま、せいぜい頑張れば」
「……フィルをよく知っているような口ぶりだな」
フェルドリックが自分たちの関係に口を挟まないと言ったことに安堵した後、アレックスは彼へと訝しみの視線を向けた。
彼らがお互いを知っているらしいことは、以前の二人の様子からも察していたが、一体どんな関係だったのだろう?
「あのね、判断力を失うのも大概にしときなよ? あれは僕の好みから最も遠いタイプだ。婚約者って噂、便利だけど冗談じゃない。まあ、敢えて言うなら……ライバル?」
フェルドリックは、アレックスの懸念を見透かしたかのように含みのある笑いを見せた。そして、意味深に微笑みながら、頬へと手を伸ばしてくる。
「僕の好み、知ってるだろ」
「……」
昔からこうしてずっとからかわれている。小さい頃は『かわいいし、いざという時は使えるんじゃないか』などと言われて女装させられたことすらあるのだから、それに比べればましになったと言えなくもないのだが……。
またか、と思ってうんざりしながら部屋の入り口を見ると、真っ赤な顔をしたフィルが茶器を載せたトレーを持って固まっていた。
大笑いしているフェルドリックと、半泣きになりつつ恨めしそうにその顔を睨むフィル――この二人の関係が少し見えてきた気がする。
そんな彼らをなんとか宥め、アレックスは既に冷え始めたお茶にようやく口をつけた。
「プレビカ領へ?」
「そう、なんせ提案者だからね」
ひとしきりフィルをからかって満足したらしいフェルドリックは、騎士団を訪れた本題の極秘事項をあっさりとアレックスに明かした。
(俺はともかくフィルにも明かしたということは……)
アレックスは彼女とフェルドリックを交互に見比べ、『そういうことか』と結論付ける。
「北に行くなら真夏の方が良かったんだけどねえ」
フェルドリックはいずれ訪れる即位を前に、この夏から順に国内を見てまわる事が決まっている。提案者はフェルドリックの言うようにハフトリー辺境伯で、彼の現在の領地であるプレビカ領がその最初の訪問地となったらしい。
「で、同じ方角なんだからせっかくだし、アレックスと一緒に出発しようかと」
ついでだから一足先に国境を視察してもいいしね、と彼は上機嫌に話した。
実際のところは厄介な魔物、グリフィスの出没を受けて、騎士団と行動を共にする方が懸命との判断だろう。
だが、案の定というか、フィルはフェルドリックの言葉を真正面から受け取ったらしい。「アレックス、と……?」と呟いて顔を引きつらせる。
そして、彼女のその様子にフェルドリックは、カップの向こうで邪悪と満足を顔に浮かべた。
(……性質の悪い奴に、最悪な目の付けられ方をしている訳か……)
二人の関係を確信して、アレックスは思わずフィルに同情の視線を送った。
「さて、」
フェルドリックがカップを置いて立ち上がる。
「今からコレクトに会って来るから。また後でね」
そう言って歩き出した彼は、わざとらしくこちらを振り返った。
「あ、そうそう。僕に同行する近衛の責任者は、アンドリュー・バロック・ロンデールだから」
そうしてフェルデリックはアレックスに心底楽しそうに笑いかけ、今度こそ部屋を出て行った。
顔をこわばらせたアレックスを不思議そうにフィルが見つめ、「お知り合いですか?」と訊ねてくる。
「……まあ」
(知り合いも何も、それこそフィルの婚約者候補だ……)
からかわれているのはどうやらフィルだけではないらしいと知って、その原因となっている彼女を苦笑と共に見つめた。
鮮やかな金色の柔らかい髪、変わらない色の瞳、愛しくて仕方のない額の傷……。
(離したくない)
そう幾度目か知れないことを思っていると、その顔が少しずつ紅潮していくのに気付いた。
「……え、と」
続いて居心地悪げにそわそわし出したフィルに、アレックスは口元を緩める。
ついこの前まで、こんな時フィルはただただにっこり笑いかけてきた。それを思えば、ちゃんと意識されているということだろう。
ふと確かめてみたい、悪戯をしてみたいという誘惑に駆られた。
「っ、ア、アレックス?」
腕を引き寄せ、その柔らかい身を抱きしめて、耳元で囁く。
「フィル、さっきフェルドリックと俺を見て何を考えていた?」
「う」
フィルが全身を硬くしたのを感じ取って、その内容を予想した。
最近ヘンリックの幼馴染のメアリーとよく会っているらしいから、その辺から吹き込まれたのか、と赤みを帯びた茶色の髪のこまっしゃくれた少女を思い出す。
(純粋培養も考え物だが、偏った知識を身に付けるのもまずいな)
今の時点でも常識が怪し……独特の世界観を持っているから、と片眉をひそめたアレックスを、フィルが困ったように見上げてくる。
「ええと、違います、よね……?」
その顔に思わず笑って、左の目蓋にキスを落とした。
ちゃんと答えなかったせいかフィルは不満そうだが、それを敢えて無視して彼女の髪の中に顔を埋めた。さらに強く抱きしめる。
そして逡巡の気配の後に、彼女がおずおずと腕をこちらの背に廻し返してくれたのに再び口元を緩めた。
(フィルの横は俺のものだ)
そう、相手が婚約者と取り沙汰されるアンドリュー・バロック・ロンデールだろうとこの国の王太子だろうと、親友の『アレク』だろうと――この場所は絶対に渡せない。




