【特権】
「騎士団……?」
「……はい」
国外追放と諸外国の放浪を経て内戦を経験し、新王朝を樹立、さらにはそれを維持してきアドリオットはもう齢七十を越した。
そんな自分はもはや何事にも驚くことはない――……と思っていた、今の今まで。
「……フィリシア・フェーナ・ザルアナック、だぞ?」
「はい、フィリシア・フェーナ・ザルアナック、嬢、です」
王位に就いて以後、自分にずっと付き従っている、諜報を専門とするこの者の表情は鉄壁――……と思っていた、今の今まで。
「…………アル、エレン、一人で生きていけるようにと言ったって、限度があると思うんだ」
アドリオットは天を仰ぎ、今は亡き親友たちに向けて呻いた。
アドリオットたちが今話題にしているのは、フィリシア・フェーナ・ザルアナック、内戦を共に乗り越え、その後の国づくりにもアドリオットの手足となって(時々、いや、しょっちゅう勝手に動く手足だったが……)、共にこの国を支えてくれた親友アルとエレンの忘れ形見だ。
母は既に亡く、父に疎まれたその娘は、それゆえ祖父母である親友夫妻に育てられたのだが、前年の春の終わりにその最後の庇護者であるアルさえも失った。
いつも元気なあの子がアルの国葬の場には姿すら見せなかったから、きっとひどいショックを受けているのだろうと思った。
アルとの別れはアドリオット自身、身を切られるように辛かったが、この年になればお互い覚悟もあった。幼いあの子とは違う。そう知っていたから、すぐにでも慰めに行ってやろうとしたが、最後にアルに出会った時に彼がフィルとその父、つまりアルの息子でもあるステファンの関係を憂えていたことを思い出して、アドリオットは思い留まった――フィルがカザレナのザルアナック家の屋敷にいる今は、和解のいい機会なのかもしれない、と。
だから、数週間後にステファンの口から彼女がザルアに帰ったと聞いた時は落胆したのだった。そして、もう少しして落ち着いた頃にもう一度カザレナに呼び戻そう、そうすれば新たな機会となるだろう、と気を取り直した。
だが半年後、気付けば彼女はザルアからも消えていた。アルの執事をしていたオットーに拠れば、『勘当されたから出て行く。行き先は言えないけれど大丈夫。だって私だし』そう言っていたと。
その妻のターニャに涙交じりに(使者を通して)なじられ、アドリオットも蒼褪めて方々に使いを出して行方を探し始めた、さらに三ヵ月後――その彼女は思いもかけぬ場所、しかも自分のごく身近で見つかった。
「今はフィル・ディランと名乗っておいでのようです」
「ディラン? ……シンディの母親の実家の名か」
(では、勘当されたというオットーの話は事実なのか……)
アドリオットは眉間に強く皺を寄せた。ステファンはステファンで悪い性格ではない。なのに、とやりきれない思いが胸中に広がっていく。
(アル、あの二人はもうどうにもならないのかもしれないぞ……)
そんなため息が零れた。
「さすがにそんなところには置いておけないな……。となると、誰かと結婚させる、か」
その相手にフェルドリックを咄嗟に思い浮べてから、またもや呻く。
「仲、悪いんだよなあ……」
あの二人が空間を共有している時、お互いをまったく見ていないというのに、大抵のことに動じなくなったアドリオットの胃が痛むほどの緊張が漂う。
フェルドリックはアドリオットの宝だ。アドリオットを慕って、出会って顔を綻ばせて駆け寄ってくる姿や目が合っただけで小さくはにかむ顔、真剣な顔で勉強している様子など、彼の可愛さについてなら、アドリオットは一日と言わず一年だって語り続けられる。
長じて少しだけひねくれはしたものの、根は変わらず優しく、自分より立場の弱い者、特に善良な者には寛容だ。人の好き嫌いはかなりあるようだが、たとえ嫌いな人間であってもそれを取り繕う芸当が難なくできる小器用さもあるというのに、フィルにだけは信じられないくらい露骨に意地が悪い。
それでもフィルが懐きさえすれば、フェルドリックのことだから絶対に彼女に甘くなるはずなのだが、フィルはフィルで人懐っこい彼女には珍しく、そんなフェルドリックを野良猫の子のように全身で警戒する。彼が近寄ったら『シャー』とでも言いながら引っ掻くに違いないという様相だ。そうならないようにか、いつもフェルドリックから距離を置いているが、その距離がきっちり剣の間合いだというのが尚更恐ろしい。
それをお互いがお互いを特別に思っている証だと思おうともしてきたのだが、あの鈍いアルまでもが、『あれはどう見ても違わないか……』と言っていたこと、それをどう解釈しよう……?
ついでに言えば、彼の妻のエレンには『鈍いってアルのこと言える人間じゃないでしょ、あなた。願望で現実が見えなくなるあたりアル以下』とざっくり切り捨てられている。
「……うーむ」
あの子を利用しようとする輩は多い、とアドリオットは最近耳に挟む、彼女の婚姻を巡る噂を思い出して目を眇めた。
(筆頭がロンデールだな……)
長年に渡って腹を探り合い、仮面の下で胸と夢見が悪くなるような応酬を繰り広げてきた相手を思い浮かべて、アドリオットは顔を歪める。
(あれが侮蔑していたザルアナック家出身の娘にまで目を留めなくてはならないほど切羽詰っているのはいい気味だが……)
「上手く追い詰めすぎたか」
思わず嘆息する。
あの一族にフィルが馴染めるとは思えないが、あそこの息子はそう悪くない。もちろん、その他どこより安心なのは、ヒルディス・ロッド・フォルデリークのところだが、あそこの息子たちは息子たちで色々あるようだし……。
眉根を寄せたまま、後で対策を考えようと決めて、アドリオットは目下の懸念を目の前の男に問い質した。
「フィル、フィリシア嬢は元気だったか?」
騎士団は男ばかりの、しかも結構荒い場所だ。心身ともに傷ついていないかという心配故の問いに、彼は奇妙な顔をした。
「っ」
何事か彼女に起きたのかと心臓が縮み上がった。あの子はいまだ幼いが酷く整っているし、まさか、と。
(しかも愛嬌があると言えなくもないが、はっきり言えば、フィルはどこかから何かがすっぱり抜けている――)
「お元気です。しかも結構な活躍もなさっています。剣技大会で圧勝なさいましたし、先に市中を騒がせていた盗賊の掃討にも尽力なさったと」
「……そう、なのか」
顔色を失ったアドリオットは彼の答えに脱力し、息を吐き出した。
同時に、ならばなぜそんな顔をしているのだという疑問が浮かんだ。
「その、分を越えているとは思うのですが……」
それを感じ取ったのかもしれない。いつもは何一つ私事を挟まない彼が、戸惑いながら珍しくそんな台詞を口に出した。少し意外に思いつつ、頷いて先を促す。
「あの方は一体どのようにお育ちになったのでしょう。普通であれば目視もできないはずの距離で様子をうかがっていたのですが、お気付きになって逆に跡を追ってこられました」
彼は続いて「何をどう認識していらっしゃるのか、もう少しで捕まるところでした」と居心地悪げに身じろいだ。
「……」
自分の陰の懐刀が、と目を丸くした後、アドリオットは苦笑を零した。
「あー、変わった育てられ方をしたのは確かだ」
そう、一人で生きていけるように、自分で幸せを掴めるように、と。
「活躍、ねえ……」
『自分でできることは自分でさせる』
『責任はだから自分でとらせる』
そう言い続けていた親友夫妻を思い出してアドリオットはため息をついた。
(過保護はあいつらが嫌がるな。となると……)
「もう少し様子を見るか……。そうだな、ポトマックがいいだろう。コーギン、彼に連絡を」
「ポトマック殿は既にご存知です。ご伝言もお預かりしております。『アレクサンダーをつけているので当面問題はありません。何かあればお知らせいたします』と」
「……そうか」
(冷たく見えるほど冷静だが、実は情に篤い子だ。あの子なら確かになんとかしてくれるだろう)
自分を庇って死んでしまった別の戦友ヴァルアスの孫の姿を思い浮かべて、アドリオットは苦笑を顔に浮かべた。ますます様子見を決め込むしかなくなったらしい。
(アル、どうやら私の時代は終わっているらしい)
嘆息とも感慨ともつかない息を吐き出す。
次の世代の者は者でそれぞれに生きていくつもりのようだ。彼らがそんな力をつけたことを喜ぶべきなのだろうが、これはこれで少し寂しい。
「……さて、何を見せてくれるのかな?」
(アル、エレン、ヴァル、マット、羨ましいか? お前らが見損ねたものを私はすべて見られるんだ。たった一人残されたんだ、それぐらいの特権は当然だよな)
「……」
――そう、たった一人だ。
あの時代を共に生きた者たちは皆去ってしまった。
微かに胸に突き刺さる寂しさを紛らわせようと、アドリオット少しだけ口角を上げてみる。
(いつかまた会ったらせいぜいもったいぶって話してやる。だから、楽しみにしておけよ、特上の酒でも用意してな)
見上げた先には冬には珍しく、物悲しいまでに雲ひとつない空が広がっている。




