5.異母兄
剣技大会の後、それまでは視界に入れば、程度だった異母姉セルナディアからの嫌がらせが格段にエスカレートした。
彼女はナシュアナの予定をなぜか把握していて、行く先々に現れるようになる。これ見よがしに嫌味や悪口を言ったり、集団で取り囲んだ上で蔑んだりといった行為はまだましな方で、すれ違いざまにドレスを汚したり、足を引っかけたりといった物理的な絡みも頻繁になった。部屋が荒らされることも珍しくなくなる。
でも向き合うことに決めた。どうしたらいいかわからなかったから、フィルがしていたように、ただ顔を上げることから始めた。あとは嫌な人に会っても逃げ出さない。
そうしたら余計気に入らなかったらしく、嫌がらせはますますひどくなっていった。
「ナシュアナさまっ!」
ある日、姉とその取り巻きの貴族の子女と階段ですれ違った時、突き落とされた。
「……」
身が宙に浮いたと思った瞬間、アーサーが咄嗟に腕を捕らえ、引き戻してくれた。階段の踊り場へと体勢を崩した彼と共に倒れ込む。
「っ、アーサーっ、大丈夫!?」
「も、ちろんです、ナシュアナさまこそお怪我は……」
自分を庇ってくれた騎士の具合を慌てて確認した後、ナシュアナは姉を振り返り、恐怖で全身から血の気を失った。
(わ、らって、いらっしゃる……)
自分に向けられた憎悪も恐ろしい。だが、それ以上に、大怪我をするようなことを人にしておきながら、笑っていられるその神経こそが恐ろしかった。
「……」
「……その顔、何かしら? 無礼よ、ジオール。ただの事故でしょう」
立ち上がったアーサーが、ナシュアナとセルナディアの間に割り入った。騎士の見本のような彼が主筋である彼女を気色ばんで睨み、その取り巻きの近衛騎士も含めて険悪な雰囲気になった時。
「事故、ねえ」
そう仰りながら、笑顔なのに目はまったく笑っていないという表情で、お兄さまが場にお見えになった。
「……怪我は?」
「あ、ありません」
金と緑の混ざった不思議で綺麗な色の目を向けられて、ナシュアナはなぜか冷や汗を流す。姉とはまったく違う意味で恐ろしく感じた。周囲も同じだったらしい。誰もが佇まいを正し、彼へと注意を向ける。
「お兄さま、すれ違いざまにあれにちょっとだけ腕があたってしまって……本当に悪気はなかったんですの。なのにアーサーが……痛い思いをしたのも嫌な思いをしたのも私の方なのに」
先ほどまでとはまったくの別人であるかのように、可愛らしく拗ねたように訴える姉に、お兄さまはただ美しい微笑みだけをお返しになった。周辺にいた子女はもちろん、姉も顔を赤らめ、また沈黙が降りる。
「ジオール、見事だった。サヴォン、事故だったと言うのなら、なぜもっとも側にいたお前がナシュアナ殿下をお支えしなかった? そんな程度のことにすら対応できないようでは問題がある」
お兄さまと一緒にいた、近衛騎士団の副団長であるロンデールが穏やかな口調で、だが厳しく姉の近衛騎士を叱責する。
「まあ、アンドリュー、そのように厳しく仰らないで」
上目遣いにロンデールを見上げる姉の顔も声も、本当に可愛らしい。けれど彼は彼でまったく表情を動かさなかった。
(お姉さまはアレクサンダーだけでなくて、彼のことも気に入っていらっしゃるはずなのだけれど……)
そういえば、彼の父であるロンデール公爵はあからさまに私を見下げるのに、彼がそういうことをしたことは一度もない、とふと思い至った。見た目も派手ではないけれど整っていて、彼が貴族以外の人からも人気があるのが少しわかった気がする。
「ナシュアナ、ちょうどいい。話があるからついておいで」
「は、はい」
神話に出てくる神様のように秀麗で、国民にも絶大な人気がおありになるお兄さまは、老博士が頭脳明晰と手放しでお褒めになる方だ。実際、まだお若いのに大事なお仕事をいくつもこなしていらっしゃるという。
生母の正后さまはフォルデリーク公爵の双子の妹で、後ろ盾も申し分ないし、さらには建国王であらせられるお爺さまにも『目の中に入れても痛くないという表現がぴったり』と噂されるほどに可愛がられていらっしゃると伺っている。
そんな完璧な、自分には絶対に手が届かない別世界の方に、なりゆきとはいえ救っていただいて、初めて名を呼ばれて、しかも、お部屋にまで呼ばれてしまって、それだけでも雲の上を歩いているような心地だったのに――。
「フィル、が、護衛……」
(嘘、本当に……?)
「ジオールが休みの日だけだが」
「お言葉ですが、私はそれならば休みなど……」
「この先ずっとそうする訳にもいくまい。事情はわかるはずだ」
お兄さまは机の上に広げた書類に目を通しながらそう仰った。そして、「ジオール、今後部屋を含め、ナシュアナの身辺に異常があった場合はロンデールに直接報告せよ」と言いながら、傍らに控えている近衛騎士団の副団長に顔を向けた。
「承知いたしました。これまでの経緯も調べ、しかるべき処分をいたします」
(部屋を荒らされていることもご存じなんだわ……)
いくら訴えても誰も取り合ってくれないとジェシーが怒っていた。アーサーもはっきりとは言わなかったけれど、近衛騎士団でも黙殺されているらしいというのはなんとなく感じていた。なのに、お兄さまはそれを知っていて、何とかしようとしてくださっている。
呆気にとられるナシュアナに、彼が金と緑の目を向けてきて、思わず息を止めた。
「戦うつもりになったなら、理不尽をそのまま受け入れてはいけない。状況が変わらないどころか、悪化する」
ナシュアナを「いつか死ぬことになる」とじろりと睨んだ後、すぐに手元の書類に目を落としてしまわれたけれど、なぜだろう、怖くはなかった。ロンデール副団長も真顔で頷いている。
「……あ、あのっ、あ、ありがとうございますっ」
フィルに会わせてくださること、アーサーの休みを気遣ってくださったこと、私が嫌がらせされていることを気にしてくださったこと、もう逃げないと決めたことを察してくださったこと――。
(さっきのもたまたまなんかじゃない、わざわざ助けてくださったんだ)
そう気づいたら、嬉しくて、嬉しくて、気付いたら遠慮するのも忘れて、お礼を口にしていた。
心臓が口から飛び出るかというぐらい緊張していたし、声だって上擦ってしまったけれど、お兄さまは再び顔を上げてくださった。そして、軽く眉を上げつつも、まっすぐ目を合わせてくださる。
「……いや」
すぐにお仕事に戻ってしまわれたけれど、ナシュアナの中でただただ「畏れ多い方」だった異母兄が優しい人に変わった瞬間で、それは幸せリストの中でも、特に特別な項目の一つになった。
* * *
そうして、今後の打ち合わせのために、フィルがアレクサンダーと一緒に宮殿にやってくる日が来た。
昨晩から楽しみで楽しみで仕方がなくて、朝も暗いうちから早起きしたナシュアナは、彼らがやってくるのを裏門で待ち伏せている。
「案内は他の者にお任せになって、ナシュアナさまはお部屋でお待ちになっては……」
「だってここで待っていれば、フィルが私の部屋に行くまでの間も一緒に過ごせるのだもの」
「……承知いたしました」
(そうだった、アーサーとフィル、仲、良くないんだった……)
浮かれていてうっかりしていた。アーサーの空気がいつもと違っていることに今更気づき、ナシュアナは唇を引き結ぶ。
(原因はやっぱりフィル、かしら? どうしよう……でもこんな空気は嫌だし、逃げないと決めたんだし)
拳を握り締め、ごくりと唾を飲み込む。
「アーサー、フィルのこと、嫌いなの?」
それでこんなに不機嫌なのだとしたら悲しい。
「いえ、そういうわけでは……」
アーサーの答えは彼にはあり得ないほど歯切れが悪くて、先ほどまでの気分が沈んでいく。
いいことなんて一つもない時から、側にいると決めてくれた、正義感の強い、騎士の鑑のような人だ。たくさんおしゃべりするわけではないけれど、いつも心配してくれて、気付いたら側で見守ってくれている兄のような、父のような人。
(フィルにはすっごく会いたいけれど、そんなアーサーが不快に思うなら……)
「アーサーが嫌なら別の人に……」
「いえ、ナシュアナさま、嫌な訳はありません。ディラン殿はナシュアナさまの大切な初の騎士でしょう」
「……二人目の、よ。私の最初の騎士はアーサーでしょう?」
苦笑していたアーサーは一瞬の間の後、子供のように破顔した。
そうしていつもの空気が戻って安堵したところに、フィルはやってきた。
「フィル!」
アレクサンダーと一緒に裏門をくぐって入ってきた彼女に、嬉しさのあまり思わず駆け寄る。
「ナシア!」
するとフィルも満面の笑顔で走ってきてくれて、ぎゅうっと抱きしめてやっぱり抱えあげてくれた。その感触が嬉しくて、大好きで、思わず声を立てて笑ってしまう。
(あ……)
フィルの向こうで、呆れたような顔をしているアレクサンダーと目が合った。圧倒的な存在感、威圧的な雰囲気と冷たい顔立ちに、軽蔑されるかもと身を硬くしたのも一瞬、彼は彼で「おはようございます、殿下」と小さく微笑んでくれた。
「お、はよう、アレクサンダー」
(ああ、前と同じだわ、この人、やっぱり全然怖くない)
そう思えたら、ますます嬉しく、幸せな気分になれた。
「……殿下にご無礼が過ぎる」
「私の祖父母が言うには、礼というのは人と人が楽しく過ごすためのものなんですって。私もナシアもこれで楽しいので、ジオールさま、見逃してください」
ラーナックが言っていた通り、やはりフィルはいい神経をしていた。眉を顰めたアーサーに、にこっと笑いかける。
「…………了解した。あと、アーサーでいい」
一瞬絶句した彼が渋い顔をしつつも、諦め?を口にしてくれたことで、もっと笑うことができた。




