4.予感
(女の人、なのよね……? ラーナックが妹だとはっきり言ってたし)
それなのに騎士団にいるという。今回の剣技大会にも出ると言っていた。
ナシュアナはそのフィルをどうしても見たくて、出席するつもりなんてまったくなかった大会に、アーサーに渋い顔をされながらも急遽出ることにした。
第二王妃や姉の汚いものを見るような視線を受けても、どうしても会場に居たかった。
「……すごい」
眼下の闘技場のフィルを見つめ、ナシュアナは思わずそう呟いていた。
剣技をまったく知らないナシュアナにもわかるぐらい、フィルは桁違いに強かった。しかも戦っているというより、踊っているという方がしっくりくるくらい動きが美しい。アーサーはフィルをあまり好きではないようなのに、その彼が呆然と見惚れてしまうくらいに。騎士団にいるフィルを平民だと思い込んで侮蔑していた姉を始めとする貴族たちが、唖然としてしまうくらいに。
この場にありえないはずの沈黙の後には、賭けに負けた人たちの罵声と、敗れた近衛騎士の身内の呪詛と、彼らのファンの悲鳴が続いた。そのすべてをことごとく無視して、フィルは毅然と顔を上げていて、それがまた格好いい。
ナシュアナだけではなく、会場のほとんどの人たちもそう思ったらしい。勝ち上がるごとにフィルへの歓声が増していって、フィルが姉の取り巻きの近衛騎士をあっさりと負かして優勝を決めた時には、会場中が彼女に見惚れていた。
それが自分のことのようにすごく誇らしかった。
なのに……、
「耐えられないわ。あんな身の上の卑しい者に近寄るなど」
「ま、まあ、花冠を授けるくらいならば。でもキスは出来ないわ。どう考えても彼には不相応です」
騎士団にいるから、ディランと名乗っているから、フィルは『生まれが悪い』とみなされて、理不尽に貶されていた。
(綺麗な人なのに……)
外もだけど、中こそがそうだった。優しく笑いかけてくれる、こちらの痛みをわかろうとしてくれる、一緒にいると楽しくてほっとする――全然違うのにラーナックと同じようにナシュアナに幸せをくれる、ラーナックの大切な妹。
その人をよく知りもしない人たちに貶められるのが悔しくて、悲しくて、腹が立って、気付いたら姉の前に立っていた。
「では、お姉さま、その役目、私がいたします」
フィルを皆の前で辱められるのは嫌だった。フィルはもしかしたら気にしないかもしれないけれど、ナシュアナ自身がどうしても――。
「あの騎士、は、わ、私の知り合い、です。出自ゆえに悪く言われるのも、不当な扱いを受けるのも我慢出来ません」
声が震えていた。姉はとても美しいけれど、第二王妃同様、人を人と思わないような振るまいを時々なさるという意味で、怖い人でもあったから。
でも、どんな仕返しを受けたっていい、私にすら優しいあの人たちが嫌な想いをするくらいなら、そんなの全然かまわない、と思った。
「お、前のような者が出ていったって、誰も喜ばないわ! 身の程を知りなさい……っ」
「っ」
だが、怒りで顔を赤くした姉に、この上なくはっきり言われて泣きそうになった。もし、もしもフィルも嫌がったら、と思ってしまった。
「よい。来なさい、ナシュアナ」
(……え?)
唖然として振り返った先にいたのは……父であるカザック国王陛下。その方と一瞬だけ目が合った。
(……き、なさい? つまり、私でいいってこと……?)
「あ」
踵を返し歩き出された陛下を慌てて追いかける。初めて名前を呼ばれたことに途中で気づいて、ドキドキした。
姉に対して初めて口答えしたこと、初めて陛下と目が合ったこと、初めて名を呼ばれたこと――そんな気分の高ぶりは、けれどすぐに後悔に変わった。
『お、前のような者が出ていったって、誰も喜ばないわ!』
表彰に沸くはずだった闘技場に満ちるざわめきのすべてが、姉の言葉と同様に自分への悪口のように感じられた。向けられる視線も、『お前のようなものがなぜ』という憤りと嘲りに思える。
「ナシア?」
フィルの心配そうな声が耳に届いたけれど、顔をあげられなかった。
(どうしよう、私のせいでフィルまで……。フィルを馬鹿にされたくなくて、それでラーナックが悲しむのも嫌で……でも、やっぱり余計なことだった……)
「ナシュアナさま……」
国王陛下のお話が終わって、アーサーが小声をかけてくれて何とか立ち上がった。すると場内のざわめきは一層強くなる。
ナシュアナは泣きそうになりながら、両手に抱えた花冠を握りしめてフィルに近づいた。
「フィル、ごめんなさい」
(どうしよう、嫌われてしまうかしら……?)
そう思いながら絞り出した声は案の定、涙混じりだった。
「わ、私、私、フィルが戦って自分の場所を作っているのを見て、お祝いしてあげたかったの。でも、逆に恥をかかせることになってしまったかも……」
優しいフィル、優しいラーナック――幸せリストをいっぱいにしてくれる人たちなのに、私は何も彼らに返せない、と思ったら余計泣けてきた。
「ナシア?」
「私、あなたみたいに強くて奇麗な女性になりたかった。でも……」
「……」
フィルはじぃっとこちらを見つめていた。
全部見透かすみたいな強い緑の瞳は、大好きな紫の瞳と同じ、気遣うような色を湛えていて、それを確認した瞬間に目から滴がこぼれ落ちた。
そう、こんな風になりたかった。自分の居たい場所にいる強さと、なりたい自分になろうとする強さ、人の顔色をうかがわないでまっすぐ笑う強さ。格好よくて……憧れた。
目の前で大きく息を吸い込む音がして思わず顔を上げれば、再び視線の交わったフィルはにっと笑った。
片膝をついた状態から、後方にゆっくり立ち上がり、右手で腰の剣を抜く。そしてその剣身を左手で支えて、地面と水平になるように捧げ持った。何が起こっているのか考える隙も与えてくれないほど美しい、迷いのない動作だった。
フィルは凛とした表情をこちらに向けたまま、再び膝を落とし、おもむろに口を開く。
そこから澄んだ、良く通る声が響き出た。
「その輝ける瞳は凍れる闇を払い、
その微笑みは妙なる命をはぐくむ。
その歌声は静なる死を悼み、
その息吹は新しき生を寿ぐ。
美しき春のナシュアナシスよ、御身に我が全てを捧げよう。
願わくは生あるすべての強なる礎とならんことを。
願わくは生あるすべてに妙なる祝福のあらんことを。
願わくは汝らのその生に永久なる幸福のあらんことを。」
(創世紀、のナシュアナシス……?)
『ナシュアナさまがお生まれになった時、ちょうどスフリの花が満開で……お母上のミアンさまがこんなふうに、と……』
そう教えてくれたのは乳母だ。
『春の女神の名だね。ぴったりだ』
そう言ってくれたのは、名前を教えてくれた直後のラーナックで……。
(…………わ、たし?)
異様な沈黙に覆われた会場にフィルの声の余韻が響いて、ゆっくりと消えていった。
「ナシア、一緒に、だったらもっと頑張れると思いませんか?」
「……っ」
優しくて、いっぱい幸せな気持ちをくれる不思議な人――顔が歪んだ。そのままただただ泣いてしまいそうになるのを必死で堪えた。きっと変な顔をしていると思ったけれど、かまわないと思った。
そんな自分を見ながらフィルが笑ってくれて、目線で『ほら』と促してくれる。つられて笑ってしまうような、少しいたずら心を含んだそれは、頑張れと言ってくれているようで、あの日デラウェール図書館でラーナックが見せてくれたものと一緒だった。
「……」
私にもできるのかもしれない――緑色の目を見つめているうちにそう思えてくる。
何をしたって駄目だと思っていたけれど、あの日だって頑張ったらいいことがあった。それに……、
(『一緒』ならもっと頑張れる――)
フィルに近づき、その頭に花冠を乗せる。剣を支える彼女の両手に震える手を添えて、ごくりとつばを飲み込んだ。
(創世紀の、あの後の場面……)
声が震えて出ないかと思ったけれど、繋がった手からフィルの温もりが伝わってきて、何とか声を引き絞った。
「我がいとし子、ウルオニスよ、
汝に永久なる誉れ、そしてひとたびの安らぎを。
願わくは悠久なる時の果て、再び会い見えんことを。
我が涙と約定をこの花に換えて。」
そして最後にフィルの額に口付けを落とした。
「っ」
続いて会場に轟いた、悲鳴と怒涛のような歓声に身を竦ませた。
恐る恐るフィルから視線を離して観客席を見ると、どの人も笑っていた。手にしていた花びらを思い思いに振りまきながら、白い歯を見せて。
(……みんな、笑ってる)
「うそ……わ、たし……?」
(……私に? 本当に私に笑ってくれているの……?)
祭りを象徴する色とりどりの花びらが雪のように場内に舞い、ナシュアナの元にも風がそれを運んでくる。
「きゃ」
呆然と立ち尽くしていたが、唐突に身がふわりと宙に浮いた。一段と大きくなった歓声の中、数日前のようにナシュアナを抱え上げたフィルが、目が合わせてにこっと微笑む。
「さて、誓ってもらったからにはもう逃がしませんよ、一緒に頑張りましょうね」
それに思わず声を立てて笑った。
「大好き、フィル」
目をまん丸くしたフィルがやっぱり声を立てて笑ってくれて、それでもっと嬉しくなって彼女の首にぎゅっと抱きついた。
(ほんの数日で、こんなにたくさんの幸せができたんだもの。私のリスト、そのうちにきっと書くのが追いつかないぐらいになるわ)
――そんな素敵な予感と共に。




