3.輪
あれから一年。忙しくなったのか、デラウェール図書館に行ってもラーナックに会えることは中々なくなった。それが寂しくて彼の妹を少し羨んだ。
彼女は亡くなった英雄アル・ド・ザルアナックと暮らしていたという。ならば、もうこちらに戻ってきたのだろう。
(だとしたら、彼女に構っていてラーナックは私のことを忘れてしまったのかもしれない)
訪れた図書館で、彼の行きそうな書庫を片っ端からのぞいた後、ナシュアナはため息をついた。
「……お城にお戻りになりますか」
「二階の閲覧室でしばらく読書をしていてもいい? アーサーもゆっくりしていて」
途中見かけた本を手にアーサーに笑いかけると、ナシュアナは閲覧室の窓際に座った。
窓の外では冷たい風が吹き、傍らに立つ木の散り損ねた黄色と茶の葉を揺らしている。
(フィリシア・フェーナ・ザルアナック、だったかしら)
『秘めたる華』と呼ばれるラ-ナックの妹のことは、城の侍女でさえ一度は聞いたことがあるらしく、ジェシーが侍女友達から聞いたと得意そうに教えてくれた。
それによると、社交の場に出てきたことはないらしいけれど、体と気の弱い、たおやかな絶世の美人という噂で、内々に王太子でいらっしゃるお兄さまとご婚約を結んでいるのではないかという話もある。
噂は噂だと知っているけれど、美の女神の再来と呼ばれたラーナックのお母さん、そしてあのラーナックの妹――絶対に美人だということはわかる。
ジェシーが教えてくれた通り、「病弱で消えそうに儚いという噂よ」と話したら、あのラーナックが涙を流すまで笑っていたから、それは嘘なのだろうけれど。
* * *
そうして花祭りの季節を迎えた。
麗らかな春の陽気と祭りへの期待に沸き立つ街。それにつられて城内もどこか浮き立っていて、皆がそわそわしていた。
「ドレスは結局三着用意しましたの。勝者の瞳や髪の色に合わせたいでしょう?」
「セルナディアさまのお美しさなら、どんなドレスも霞むのでしょうが、そのお心遣いがすばらしいですわ。勝者にとってこの上ない誉れです」
「そうとお聞きしたからには、絶対に勝たなくてはなりませんね」
剣技大会の表彰式の話でもしているのだろう。宮殿の一角、廊下を集団でやってくる異母姉をかわそうと慌てて物陰に身を滑り込ました。
「それにしても今年、フォルデリーク公爵家のアレクサンダーさまがご出場にならないのは寂しいですわ」
「ふふ、キャサリンさま、嫌ですわ、一番そう思っていらっしゃるのは姫さま、あらいやだ、きっとアレクサンダーさまが一番そう思っておいでですわね」
「本当に去年までのお二人は溜息が出そうになるくらいお似合いで」
「ふふふ」
剣技大会には王族の女性が優勝者に花冠を授けるという習わしがある。女性が王女、つまり未婚の場合には口づけも、と聞いた覚えがあるが、ナシュアナにはまったく縁のない話だった。かといって他に予定があるわけでももちろんない。
(ジェシーには休暇をあげたし、どうしようかしら……)
と思っていた時に、珍しく側にいないアーサーの背を遠目に見かけた。咄嗟に声をかけようと口を開いて、
「アー……、っ」
真っ赤になりながら慌てて木陰に逃げ込んだ。アーサーが一人ではなく、どこかの令嬢と抱き合っていたから。
「……」
息を殺して、その場から静かに、静かに忍び足で遠ざかる。建物の影に回り込んで、ほっと息を吐いたら、なんだか妙に落ち込んでしまった。
花祭りは生命の息吹を祝う祭りだそうだ。そのせいか、若年者が楽しめる趣向が多いと言われている。
ジェシ-だって遠慮していたけれど、王宮の厨房に勤めるコックの彼とデートの予定があるとちょっとのろけていたし、アーサーもあの彼女と約束していたのだろう。老博士も初孫の神殿での洗礼があると嬉しそうにしていたし、ラーナックは……知らないけれど。
華やかなのは苦手だった。でも周りは賑やかなのに、私だけ入っていけない、それはそれで寂しい。みんな誰かと浮かれているのに、私は一人――それを確認してしまった気がして余計悲しくなる。
「……ちょっとだけ。お祭りだし、いいわよね?」
久しぶりに一人こっそり城を抜け出して向かったのはナシュアナが最も落ち着ける、しかもそんな自分を唯一わかってくれそうなラーナックと会える唯一の場所だった。
祭の喧騒と人ごみに気後れしながら辿りついた、古い図書館。日常から隔絶された周囲の中で、その建物の落ち着きだけはいつもと同じだった。建物を相手におかしいとは思ったけれど、それに親近感を覚えてやっと笑うことが出来た。
大きな正面の扉を開けてくれる門番も今日はいない。闇と知恵の神の像に心の中で挨拶して通り過ぎ、裏の通用口から館内に入り込む。
外の華やかさが嘘のように静かなその空間を埋めるのは、いつもと変わらない古い本の匂い。もちろん人影はいつもよりずっと少なかったし、ラーナックもいなかったけれど、それでも心が落ち着いた。
「ええと……」
せっかくここまで来たのだから、この間思いついた新しい解釈を確かめてみようと、ゾルドアック叙事詩を探して、色褪せた緑色の本を目に留める。そしてその位置の高さに眉を顰めた。
見回してみても司書の姿はない。門番もいなかったから、皆休みなのかもしれないと思いついて肩を落とした。
「せっかく来たのに……」
また自分は楽しい輪の片隅にも入っていけない。
(あ、ラーナックだ)
人の気配にふり向き、視界に入った背の高い、金髪の男性の後ろ姿に口元を綻ばせた。同時にさっきまでの落ち込みが嘘のように明るい気分になる。
(話せるし、本も取ってもらえるし、ううん、やっぱりそんなのいらないわ。話、しよう。いっぱい、いっぱい話そう)
そう思って駆け寄っていって……違う、と気付いた。彼が身につけているのは黒い騎士団の制服だ。
「……」
でも、本当に似ていた。髪は短いけれど、色と艶がそっくり同じ。身長はラーナックより少し低い気もするけど、背格好がそのまま彼に重なる。何より透き通るような雰囲気に強烈な既視感を覚えた。
お祭りだったから。ラーナックに似ていたから――今思い返しても信じられないようなことをしていた。
それが幸せリストを作るのが追いつかなくなる出会いの瞬間になった。
「あの、」
ナシュアナの震える声に振り向いたその人の瞳は期待と違って紫ではなく、深い緑色だった。でも目の形が驚くぐらい同じ。一瞬目をみはってから、こちらに目線を合わせ、ふわりと安心させるように微笑んでくれる、そんな表情も本当にそっくり。
「も、申し訳ないのですが、上から二段目にある古い緑色の本をとっていただけないでしょうか? 今日はお祭りで司書の方がいらっしゃらないのです」
心臓がバクバク言い続けるのに必死で耐えながら、ゾルドアック叙事詩を指差すと、その人はその背表紙を見て、なにか懐かしいものを見るかのように微笑んだ。
「喜んで」
その人は足元にあった台を持ち上げ、その棚まで行くと台の上に載って希望を叶えてくれた。積もった埃を自然な仕草でこちらにかからないように丁寧に払うと、改めて表紙を見て微笑み、そっと手渡してくれる。そんな仕草も本当に同じ。
「千年も前の人が書いたものを読むことが出来て、しかも、その感性に今も共感できるなんて不思議なことですよね」
「……」
その台詞に驚いた。
『何百年、何千年前の人の思いが今なおこの中に詰まっていて、共感を僕らにもたらす。不思議なことだよね』
(決定、だわ。やっぱり妹――あのラーナックが、多分特別に大事にしているのがこの彼女……)
ナシュアナの動揺が治まらない間にも、会話はするすると進んでいく。
彼女は人懐っこく笑ってフィルだと自分を紹介し、いつも誰に対しても隠そうと必死になるのに、気付いたら自分もナシアと名乗っていた。
ラーナックに似ているのに似ていない、似ていないのに似ている、陽気な空気とくるくる変わる表情――思っていることがそのまま顔と言葉に出て、でもそれがとても優しくて安心できるもので、気付いたらさっきまで知らない人だったことをすっかり忘れて一緒に笑っていた。
いつの間にか自分にも楽しい輪が広がってきている。それが嬉しくてさらに笑いが止まらなくなった。
ラーナックと違うけれど、やっぱり不思議な人だった。
「フィル」
(あ……)
けれど、しばらくして別の騎士が彼女の名を呼びながらやって来て、楽しい時間は終わってしまった。
(アレクサンダー・エル・フォルデリーク、だ……)
その人に何度か会った覚えがあって、ナシュアナは蒼褪める。
彼に嫌なことをされたことはないし、お姉さまが夢中になるのもわかるほど格好いい人だ。あのお兄さまがすごく気に入っていらっしゃるご様子だから、多分頭のいい人でもあるのだと思う。けれど彼の空気は本当に冷たくて、ナシュアナはとても怖く感じていた。しかも、とびっきり力のある公爵家、貴族中の貴族だ。
(こんなところに居る私に、彼は一体どんな目を向けるのかしら……)
そう思ったら体が震え出した。
「探した」
でも、肩で息をしたままフィルに向かってくる彼の空気は、以前見た時のものと全然違っていた。フィルに向けられている目線も、優しいのにどこか苦しそうな不思議なもので……少なくとも絶対に怖いというものではない。
(……? あんな人、だったかしら……)
不思議に思ってフィルを見れば、さっきまでとはまったく違う、奇麗な表情で微笑んでいる。それにつられるようにアレクサンダーの方も笑って……二人の視界から消えている自分に気付いた。
(……また輪から外れて一人になるのだわ)
そう思ってまた沈んでしまった。視界に入った手元のゾルドアック叙事詩、その古い表紙の褪せた緑が自分のようでなんだか惨めになる。
(ううん、考えようによってはいいのかも……だって、このまま気付かれなければ、私のことをフィルに知られなくて済むし、アレクサンダーみたいな人の視線に晒されたりしなくていいし……)
自分を第二王女だと知った誰かが、それまでこちらに向けていた目を変化させるあの瞬間を見るのはもう嫌だった。特にフィルは嫌だった。だって、ラーナックに似た彼女にそんな事をされたら、きっと耐えられない。それだけじゃない。彼女に嫌われたら、彼女を大事にしているラーナックも、もう話をしてくれなくなるかもしれない。そんなことが起きたらきっともう立ち直れない――。
(このままいなくなろう、それがきっと一番いい)
寂しくなりそうなのを一生懸命いいように考えて、フィルの陰にそっと隠れて後ろに一歩下がる。
「ナシュアナ王女」
だが、それにすら失敗した。自分の要領の悪さに今度は唇を引き結んで……消えてしまいたくなった。
だけど、それは一瞬だった。
「ああ、なるほど」
いつかラーナックが『いつも想像にないことをするんだ』と言っていたとおり、フィルはナシュアナの素性を知ってもまったく態度を変えなかった。
「だって創世紀の背表紙にあるスフリの花の透かし彫りのことを言っていたから。絵でないのはごく初期のものだけでしょう? お目にかかれるとしたら王室の書庫か、ここの制限書庫くらいかなと。うらやましいな、王室の書庫」
そう言って笑う顔に、本当にラーナックの妹なんだと実感して、心底ほっとしてしまう。
それだけじゃない。
(……この人、こんなふうに笑うのね)
アレクサンダーの近寄り難い空気も、そんなフィルに苦笑した瞬間に一変した。邪険にされる気配もまったくなくて、ひどく驚く。
「殿下、お一人ですか?」
彼がわざわざ膝を落としてこちらの顔を覗き込んできた時は、「怒られる」と思って心臓が止まるかと思ってしまったけれど、どうも彼は心配してくれたらしい。
探しに来てくれたアーサーに、他の人もいる中で『殿下』と呼びかけられて泣きそうになってしまったら、それを察したのか、彼はフィルと一緒になってかばってくれた。
「ナシア、本通りに花車が出るんですって。図書館もいいけれど、せっかくですし一緒に見に行きませんか?」
連れ出された図書館裏で、肩車をしてくれて一緒に祭りを見よう、と誘ってくれたのはフィルだ。
嬉しかったのにアレクサンダーの反応が怖くて彼をチラッと見れば、彼はそんなナシュアナにも苦笑を零してくれた。そしてどこか機嫌の悪かったアーサーをうまく宥めてくれる。
(これって一緒に居ていいということ、かしら、私、も……?)
戸惑っている自分も、遠慮する方がこの先危なくないと警戒する自分も確かにいたのに、知らない間に勝手に顔が緩んで頷いてしまった。
「ナシア、あれっ」
「まあ、何かしら?」
「見に行こうっ」
「フィル、ちょっと待てっ、また逸れるっ」
「殿……ナシュアナさまっ」
その日――気後れすることも忘れて、楽しい人たちの輪の中に入っていられた記念すべき日。初めて誰かと一緒に、おなかが痛くなるくらい笑った最高の一日。
リストに書くべき項目が多すぎて思い出しきれないという体験を初めてしてしまったナシュアナは、その晩寝台のシーツの間で一人いつまでも笑っていた。
この話を聞いたらラーナックはきっと驚いて、それから笑ってくれる、そう思えることもひどく嬉しかった。
(こんな私が誰かを笑わせてあげられる……)
――そんなすごい幸せってあるかしら?




