2.追加事項
「護衛……?」
「はい、殿下のご指示です」
そうして過ごしていたある日、フェルドリックお兄さま付きの執務補佐官であるフォースンが、突然ナシュアナの部屋にやってきてそう告げた。
「お兄さまが……?」
セルナディアお姉さまたちと違って彼にひどいことをされたことはないし、よほど目に余ったのかもしれない、嫌がらせからさりげなく「助けてくださった……?」と思ったことも何度かある。
でも、明らかに私の存在にご興味をお持ちになっていなさそうなのに、と少し意外に思って……それから慌てた。護衛なんてつけられたらデラウェール図書館に行くのが難しくなってしまう。
「ジオール」
フォースンはナシュアナの動揺に気づかない。呼ばれて入ってきたのは、困っていた時に幾度となく助けてくれていた生真面目そうな近衛騎士だった。
(確かアーサー・ベル・ジオール……?)
子爵家の嫡男だと聞いた。宮廷では高いとは言えない身分でありながら、ナシュアナへの嫌がらせについて、身分上の貴族の子女に対しても真っ向から抗議してくれた。
「あの、お断りしたいのですが」
「ナシュアナさま?」
お茶を出してくれていたジェシーに、慌てたように名を呼ばれた。フォースンも眉を跳ね上げる。
「何か私に落ち度が……?」
「あ、そんなわけではまったくない、です。その、」
まっすぐ真面目に訊ねてきたアーサーに言い淀んだ。
「私、についても、良いことはありません。それどころか……嫌な目に遭います。それに、あなたは大層腕がいいのだとお聞きしました」
あの人に会えなくなるのも嫌だったけれど、それ以上に勿体ないと思った。良い人なのだろうと思っていたから尚更。
なのに、真面目なアーサーはやはり真面目にそれをとらえて、真面目に感動してくれて、結局ナシュアナの初めての護衛騎士となることが決まった。
華やかさこそないものの、真面目で親切で誠実、騎士の見本のような人だと、アーサーは結構な人気者だったらしい。
彼とフォースンが帰っていった後、ジェシーは『男っぽくて格好良いですよね、結婚したら奥さん大事にしそう。私はロンデール副団長より絶対にジオール派です』と大喜びしていた。
(ジェシーが喜ぶのは嬉しいけれど……)
「今日の午後、ジェシーは何かの講習があるって言っていたわよね? 私、自由にしていても良いかしら?」
(だって今日会っておかないと次はいつ会えるか、わからなくなってしまったんだもの……)
* * *
王宮の正門、城から出ていく貴族たちのすぐ後に彼らの娘であるかのような顔をして続き、しれっと街に出た。
いつものことながら、見咎められることのない自分に複雑な気分になる。
「……」
街に出て空を見上げ、息を吐き出した。
周囲の人々はそれぞれの商売に遊び、家事なんかでみんな忙しく、そこにいるナシュアナをまるで石や切り株のようにさらりと避けて通りすぎていく。王宮と同様、街でも自分はいてもいなくても変わらない存在だと実感する。
(でも……)
「っと、あぶねえな。お嬢ちゃん、んなとこでぼうっと突っ立ってんじゃねえよ」
「ご、ごめんなさ」
「お嬢ちゃん、あんた結構いいとこの子だろ? あんまぼやっとしてると、変なのに目ぇつけられるぜ」
「そうそう、いくら騎士がいるって言ったって、すぐ駆けつけてくれるわけじゃないからな」
「あ、うん、あ、ありがとう」
慌てて歩き出しながら、思わず頬を緩めた。いることを許してもらえるだけ、街の方が温かい気がする。
王立図書館に辿り着いた。正面入り口上のファサードに飾られた、来館者に手をかざしているかのような闇と知恵の神エーデルの彫刻を見上げる。凛々しくも優しいその顔がナシュアナはすごく好きだ。
だが、その下の大扉は、横に立つ門番に開けてもらわねばならない。自分のために労をとってほしいと頼むことにいつものように気後れして、ナシュアナは裏側の通用口へ向かった。
(あ、いた)
会えないかと期待していた彼は、今日も図書館の隅のほう、古語で書かれた書物の並ぶ書庫にいた。出会えたことに加え、予想があたったことも嬉しい。
「こんにちは」
「こんにちは」
つっかえずに挨拶が出来たことも幸せで思わず笑うと、それがわかったのだろう、その人はいつもより笑みを深めてくれた。
それから広げていた本を優しく閉じて、ナシュアナに向き合ってくれる。彼のこういう所に毎回ほっとする。
その彼といつものように本の話をした後、ナシュアナはようやく本題に入った。
「あの、家、の事情であまりここに来られなくなるかもしれないの。だから何って思われるかもしれないけど、その、これまで私と色々話してくれて嬉しかった、と伝えたくて」
話すうちに泣きそうになった。数少ない大事な人に会えなくなることと、それをどうにも出来そうにない自分、それが悲しくて情けなくて仕方がなかった。
「あ、でも、ずっと会えないわけじゃなくて、多分だけど、その、また、会えたら、その時もこうやって話してもらえたら、嬉しい、です」
紫の瞳にじぃっと見つめられながら、しどろもどろながらなんとか話し終えれば、ずっと無言だったその人がゆっくり口を開いた。
そこからどんな言葉が飛び出てくるのだろうとちょっと怯えた瞬間だった、耳慣れた声が響いたのは。
「ナシュアナ殿下?」
古い本棚の向こうから顔を覗かせていらっしゃったのは、いつも王宮図書館で勉強を教えてくださっている老博士だった。
「あ……」
思わぬところで思わぬ人に出会った一時の驚きはすぐに消え去った。
博士が口にした『殿下』という単語がもたらすだろう結果を想像して、顔から血の気が引いていく。王宮では『平民出』の妃の子と、街では『王族』と敬遠される。だから、隠していたのに――。
「驚いた、なぜこんなところに……ザルアナック殿、お知り合いか?」
(ザルアナック……? って、ザルアナック伯爵家?)
その人の美しい横顔を見上げて、『貴族なんだ』と実感すると、今度は更なる恐怖に襲われた。
(じゃあ、私が第二王女だと知ったこの人も私を……)
異母姉を始めとする王宮の人々から向けられる目が思い浮かんで、ざっと音を立てて顔から血の気が引いた。
「はい。もう一年近くになります」
「え?」
「お忍びのようですから、内緒にして差し上げてください」
あまりの驚きについ声を上げると、その人は茶目っ気を見せてナシュアナに笑いかけてきた。
(……知ってた、の?)
呆然と彼を見つめた。
「だが、護衛もなしに……」
至極まっとうな、老博士の渋い声に、その人は「それはそうですね」と言ってもう一度ナシュアナを見た。
「……っ」
少し緩んでいるその目が、頑張れ、と言っているように見えて、ナシュアナは我を取り戻すと息を止めた。同時にぎゅっとドレスを握り締める。
(これは多分、チャンス、なんだわ……)
――せっかくのチャンスなんだから、せっかくのリストなんだから、減らしたくない。
ごくりとつばを飲み込むと、「ご、護衛ならつく予定です、ジオールが……」と叫んだ。
「で、ですので、博士、ジオールにここで、月に何回か、勉強、できるように、口添えしていただけませんか?」
必死に言い募るナシュアナに目を白黒させていた博士は、十数秒後、吹き出しながらも「もちろんです、勉強熱心で教師冥利に尽きますな」と笑ってくださった。
「……え? え? い、いいんですか……」
(そ、そんなにあっさり……?)
間抜けにも口を開けたまま横を見れば、その人もくすくすと笑っている。
王宮の人たちのような嘲笑じゃない。乳母やジェシーのように、半泣きでほっとしたように笑っているわけでもない。ただただ私の『幸せ』を、自分のことのように嬉しそうに――。
「……」
こんなふうに誰かに笑ってもらったことなんてなかったから、すごく恥ずかしくなって、でもそれ以上になんだか幸せな気分になった。
そう、減らなかっただけじゃない。今日もリストに加えることの出来るものを見つけられた。
ナシュアナの幸せリスト、追加分
・ アーサーが護衛を申し出てくれたこと。
・ お忙しそうなのに、フェルドリックお兄さまがそれを叶える手はずを整えてくださったこと。
・ 老博士が私の我がままを喜んで叶えてくれると仰ったこと。
・ 図書館で出会う奇麗な人が私を心配して応援してくれて、頑張ればもっといいことが起きると教えてくれたこと。
それから、その日初めて教えてもらったその人の名前――ラーナック・ド・ザルアナック。
* * *
出会ってから最初の一月。カザレナには珍しく、建物の内部で吐く息すら白い、そんな日だった。
「ザルアに行くことになったから、しばらくここに来られなくなるよ」
名前を聞いた日から週一回程度、デラウェール図書館で出会っていたラーナックがそんなことを言った。
探していた本を見つけてとっておいてくれて、彼はそれを差し出してくれる。丁寧な仕草は同じだったのだけれど、表情にいつもの優しい陽気さがなかった。
「こんな冬に? ザルアは雪が深いのでしょう?」
「祖父の容態が思わしくないようなんだ」
「アル・ド・ザルアナックさまの……?」
(大事な妹に会えるというのに、嬉しくなさそうなのはそんな理由だったのね……)
そう悟ったものの、こんな時になんと声をかけたらいいか逡巡している間に、珍しくアーサーが会話に加わった。
アーサーとラーナックは似たところがあまりなくて、アーサーはただでさえ口数が多くないのに、図書館では滅多に口を開かない。けれど、建国の英雄だというラーナックの祖父は『剣聖』でもあって、『武芸を嗜む者ならば誰もが憧れる』とアーサーが真剣に語る人だった。そのせいかその日、彼は「心よりご回復をお祈りする。よろしくお伝え願いたい」とラーナックに話しかけていた。
「……ありがとう」
それに寂しそうにラーナックがお礼を述べて――四か月後、その英雄が亡くなったという知らせが国内を走り抜けた。




