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そして君は前を向く  作者: ユキノト
番外編【幸せのリスト】
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【幸せのリスト】1.幸せ探し

 最初にその人に出会ったのは、私が十歳になろうかという時だった。

 古い本に満ちたデラウェール王立図書館は私にとってどこより神聖な空間だったから、その人を一目見た瞬間、女神さまがご降誕なさっているのだと思った。

 動きのない空気の中、上から下へと舞い落ちてくる白い埃が天窓から差し込む光を乱反射して、その人の真っ直ぐでさらさらな金の髪をきらめかせる。光が凝縮して形をとっている、そんな光景を目の当たりにして、間抜けに口を開けて見惚れてしまった。

 目が合って、美しいとしか言いようのない顔全体が優しく、ゆっくりと微笑む。その瞳に宿る色がこれまで見たことのない紫色をしていて、『本当に人じゃないんだ……』と思った瞬間。

「こんにちは」

 透き通った低い声が響いて、『人だわ、しかも男の人』そう認識した。そして……その場を逃げ出した。

 女神だろうと魔物だろうと幽霊だろうと、人よりずっといい――人こそが怖かった。



 * * *



 ナシュアナの居室は王城の敷地の端の端。王都カザレナがまだ農地に囲まれていた時分に建てられた、古い建物の中にある。

「……」

 その部屋に馴染みのない侍女がやってきて、黙々と食事をテーブルに並べていくのを、ナシュアナは息を殺して見守った。

 行儀見習いを兼ねてここに来ているどこかの領主の娘で、商家の生まれである自分を見下すのだとジェシーが憤慨して話していた人だ。

(そうだわ、ジェシー、お休みなんだった……)

 姉の結婚式にもナシュアナを心配して実家に帰らないと言った彼女に、昨日から二週間ほど無理やり休暇を取らせた。そうしなければいけないと思ったのに、朝の挨拶すらないこの空気に早くも後悔が頭をもたげる。

(それでも朝ごはんはちゃんと食べる……)

 結局一言もないまま下がっていった侍女を見送って息を吐き出すと、ナシュアナは体を壊して宿下がりした乳母の教えを思い出して一人席に着き、無言のまま朝食を口にした。いつもと同じはずなのに、まったく味がしなくて、飲み込むのがつらい。仕方なく水で流し込んだら、ジェシーや乳母が「ちゃんと噛んで」と怒っている顔が思い浮かんで、少しだけ笑うことができた。


(誰もいないわよね……?)

 それから自力で着替えを済ませ、そろりと部屋から顔を出し、廊下に誰もいないことを確認する。まだ勉強の時間ではないけれど、部屋にいたって何もすることがないし、ジェシーもいない。なら王宮図書館に行こうと静か過ぎて居たたまれない部屋を抜け出した。


 本は好き。静かにその本の世界に浸るあの感覚――望めばどんな時代の、どんな世界にも行けて、望む人物になれる。何百年も前のそれを書いた人の心境や境遇に思いを馳せれば、時すら簡単に越えられてしまう。

 それに王宮図書館に行けば老博士がいらっしゃる。勉強の時は厳しいけれど、色々ご存知の老博士とお話をするのは楽しいし、しかもたまに笑ってくださる。

 でも……そこに行くまでがいつも怖い。


「……っ」

 ナシュアナの居住棟と本宮殿を繋ぐ渡り廊下の片隅で、先ほどの侍女がナシュアナを指差し、別の侍女二人に向かって意地悪そうな顔で笑った。

(早く、早く図書館へ……)

 顔を俯け、廊下を走り出す。だが、気は急くのに、足は上手く動いてくれない。

「ナシュアナ」

(あ……)

 角向こうから響いてきた強い咎め声に、ビクリと体を震わせて立ち止まった。

(第二王妃さま、だ……)

 思わず顔を伏せる。

「いくら下賤の血のなせる業とはいえ、ここは王宮です。仮にも半分とはいえ陛下の血を与えていただいているのですから、礼儀ぐらいいい加減覚えなさい」

 床に落とした視界に入るのは、彼女の豪華なドレスの裾とその取り巻きの人々の足。それから彼女たちに従っている侍女のものより少し上質なだけの自分の簡素なドレス。耳に入るのはクスクスという笑い声。

「……」

 そのすべてに体が強張り、動かなくなってしまった。

(どう、しよう、どうしよう、怖い……)

 最もお会いしたくない方に出会ってしまった恐怖に泣きたくなった瞬間、

「パトリシアさま」

 ナシュアナを救ってくれたのは、穏やかな美しい声だった。


 なんとか顔をあげれば、右手の庭園で正后さまが微笑んでいらっしゃった。

『四十を越えておいでなのですって! 信じられない!!』

 そうジェシーが叫んでいた通り、化粧もさほどなさっておらず、飾り立ててもいらっしゃらないのに、お美しい以外の言葉がない方だ。第二夫人と同じくらいの数の人々に囲まれている。

「あ……」

 その正后さまに向き直った第二王妃さまの顔が歪んだ。そこに見えるのは、自分に向けられるものよりも遥かに暗く、強い憎悪で、知らず息を殺す。

(怖い……)

 そう感じてしまってまた体が震え出した。

「陛下がお呼びです。お急ぎのようですよ」

 けれど、正后さまは意にも介さない様子で、ふんわりとお笑いになった。それでますます第二王妃さまの顔が恐ろしげになる。そして、彼女は正后さまを睨み、呪詛のように響く小声を投げつけて去っていった。


「……」

 第二王妃さまがいなくなったことで、ようやく息を吐き出すことができた。いつの間にか握り締めていたドレスに、手の汗がくっきり滲んでいるのが情けなくて泣きそうになる。

「さあ、お行きなさい」

 けれど、そんなナシュアナに正后さまは優しい声をかけてくださった。「南宮のつつじの茂みの影から、図書館の目の前に出られる小道があるわ」と、目の端に少しだけ悪戯っぽさを乗せて。

 そしてすぐに微笑を顔に乗せると、何事もなかったように歩き出してしまわれた。その背後にはやはりたくさんの人が従っていて、すぐに彼女の後ろ姿は見えなくなった。


「……」

(本当に不思議な方……)

 こうやって助けてくださった事は一度や二度じゃないし、誕生日には彼女からだけ贈り物が届く。それに、まだ小さかった頃、庭の茂みの影で一人泣いていたナシュアナに気付き、正后さまは「内緒よ」と仰って頭を撫でてくださった。すれ違う時も彼女だけは目を合わせてかすかに笑ってくださる。

 茶色の髪、緑の目――自分の母もそうだったと乳母が言っていたからかもしれない、恐れ多くも親近感を覚えるのは。


 今度こそ誰かに見咎められないように、早足で王宮図書館に向かう。

(明日からは正后さまの秘密の抜け道を使おう。だから、こんなふうに侍女や近衛騎士たちの視線に晒されるのも最後だわ)

 そう思ったら少しだけ元気になれた。


『嫌なことがあった後にはいいことがあるんですよ』

 乳母はいつもそう言っていたけれど、本当だと思う。

 第二王妃さまに捕まって怒られて、でも綺麗な憧れの正后さまが助けてくださって、抜け道を教えてくださって、笑ってくださった。

「……うん、追加」

 こうしてまた一つ、幸せリストに加えることが増える。

 そう思いついたら、もっと元気になった。図書館へ向かう足取りがちょっと軽くなる。


『不幸を数えないで幸せを数えるのですよ、ナシュアナさま』

 ――乳母の別れ際の言葉で始めた、大事な、大事なリスト作り。


 ナシュアナの幸せ。

 ・ 綺麗な正后さまが自分を見て微笑んでくださる瞬間。

 ・ ジェシーとのおしゃべり。

 ・ 本で一杯の王宮図書館で過ごす時間。

 ・ 老博士とのお勉強。

 ・ 王宮付きの料理長がこっそりくれるジャム入りのクッキー。

 ・ 月に一度、乳母が遠くから送ってくれる、優しい言葉に満ちた手紙。

 ・ ジェシーの休みの日の午後に、こっそり城を抜け出していくデラウェール図書館の探検。

 そして――そこで出会う十も年上の奇麗な人。



 * * *



「こ、こんにちは」

「こんにちは」

 読んでいた本を優しくたたんで、目を見てにっこりと挨拶してくれる不思議な人。


 ナシュアナがその人に再び出会ったのは、やはり王立デラウェール図書館の誰も読む人がいないような古い本の並ぶ書庫だった。

 最初に挨拶を返すこともなく逃げ出したから、怒られるか見下されると思って恐怖で固まった。けれど、その人はまた優しく微笑み、初めて出会った時と同じように挨拶してくれた。それにしどろもどろになりながらも挨拶し返して、それでさらにその人が笑ってくれて、少しずつ話が出来るようになっていった。

 それからその人と名乗り合うこともしないまま、会う度に本の話ばかりしている。

 彼は老博士並みに色々なことを知っていて、本の趣味もナシュアナと一緒で、話をしていると時間を忘れた。綺麗な、生活感のない人で、いつもとても美しく笑っていて、優しくて、それなのにこちらの考えていることや感情を読んでくれる。

 その人のいる場所だけ本当に物語の空間のようで、半年経ってもナシュアナの中での彼の印象は、『女神さま』のままだった。


 本が好きということ以外にナシュアナが彼について知っていること――。

 小さい頃から良く病気をしていたせいで、あまり身体が丈夫ではないということと、そのせいでお父さんがものすごく過保護だということ。『もういい大人なのに』と苦笑するけれど、彼はそのお父さんがとても好きそうだということ。そして離れて暮らしている元気一杯な妹がいるということ。


「いくつなの?」

「六つ年下だよ。次の春に十六になるんだ」

 その妹の話をする時だけ、彼はいつもの秀麗な表情を崩す。彼にも大事な家族がいるのだと知って羨ましかった。でもそれにも彼は気付いてくれた。

「君も妹のようだ」

 そう言って頭を撫でてくれて、それでとても幸せな気分になった。

 また一つリストの項目が増えた瞬間だった。



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