7-7.逡巡
まだ深夜だ。ただ、月明かりが煌々と差し込んでいて、時間帯のわりに室内は明るい。
(……とりあえず落ち着こう)
その部屋の自分のベッドの上で、傍らに微妙な違和感を覚えて目が覚めたアレックスは、深呼吸を数度繰り返した。
もう一度視線を自らの右脇に落とす。寝ぼけている可能性を疑って何度か瞬きしてみたが、間違いない。
(――……フィル)
人の腕を枕に、金色の髪を晒してあどけない顔で眠っている。
「……」
眠気をすっかり忘れ、アレックスはその寝顔をまじまじと見つめた。
(……可愛い)
わかっている、現実逃避だということは。
「うー」
月明かりがまぶしいのか、フィルは眉間に皺を寄せ、アレックスへと擦り寄ってきた。胸部に顔を埋めると満足そうに微笑んで、再び規則正しい寝息を立て始める。
(……横に入ってきたのに気付かなかったのか、俺は。剣士としてそれはどうなんだ)
わかっている、これも現実逃避だ。
「……」
恐る恐るフィルの体に視線を落として、着衣に乱れがないことを確認し、ほっとしたような残念なような気分になった。
ちなみに、最近彼女が寝る時に例の下着を身に着けなくなったこと、今もそうであること、それをどう解釈するべきか……?
となると、自分が引き入れたはずはない――最近忍耐の限界が近づいている気がするから、自分が引き入れたなら間違いなく何かしてしまっていると思う……――から、フィルが自ら入ってきたということになる、そう結論付けて、アレックスはついにうめき声をあげた。
「喜ぶべきなのか……?」
好かれているのは確かだろう。信頼されているのもそう。問題は彼女が危険を感じていないということ、そしてその理由だ。
(……何かされてもいいと思っている?)
わかっている、それが自分の希望的観測だということは。
(となると、何かをされると思っていない?)
「……」
思わず眉根が寄った。それはかなりの屈辱かもしれない。
「フィル……」
(いまだに俺を男だと意識していない……? 毎日毎日どれだけの思いで、キスだけで留まっていると思っている? 今だって君の息づかいに、匂いに、柔らかい感触に、こんなに身体が反応しているのに?)
闇の気配と夜の香りが誘惑を囁く。いっそ抱いてしまおうか……?
(そうすれば、嫌でも俺を男だと認識せざるを得なくなる――)
「……」
アレックスは片腕をフィルに差し出したまま、彼女に向き直った。
(フィルが悪いんだ、こんなに欲しがっている男の前でこんなに無防備で……)
甘美すぎるその言い訳に身を委ねることにして、自由な方の手を彼女へと伸ばす。振動で彼女の顔が自分の胸から離れ、仰向けになった。
乱れた横髪の間から覗く、艶やかに色づいた唇に目を奪われる。
わずかに開いたその場所をいつかのように自分の唇で覆って、彼女を乱れさせる。そしてそのまま俺のものに――。
吸い寄せられるように、自らの欲望を果たそうと顔を近づけて、
「アレ、ク……」
「…………」
小さく聞こえてきた音に、アレックスはぴたりと停止する。そして、数秒後に脱力した。
(やられた……)
アレクと呼んだのか、アレックスと呼んだのか――どの道自分の名を呼んで、そんなほっとしたように微笑まれたら、絶対に無理だ。
「もう勝手にしてくれ……」
(どうせ何をされたって俺がフィルから離れることなんて出来やしない)
腕をフィルの枕として差し出したまま、アレックスはため息をつきながら再び仰向けに転がった。
左手の甲を額に押し当て、ぼんやりと天井を見つめる。
フィルが結構甘えたがりなのは知っていたし、最近では確信している。だが、それを駄目なことだと思っていて、意志の強さで決してそうはしないことも。昔からそうだった。
だからフィルがこうして甘えを見せる時は、不安や悲しみがどうしようもないレベルにまで達した時、もしくはそれが解消された反動だ。
昔、喧嘩して仲直りした後はしばらく手を離そうとしなかったし、アレックスがフィルを男の子だと勘違いしていて、これ以上好きになったらまずいと彼女を避けていた時には、わだかまりが解けた後、抱きついてきた。
再会してからはサーシャとコーダの一件。あの夜、横に座ったアレックスの肩にもたれかかり、手を握ったままフィルは眠ってしまった。騎士団に居場所がないのではないかと思い込んでいた時もそうだ。
となると今回は……、
「フェルドリック、だよな」
(あいつ、一体フィルに何をしたんだ……)
昨日、フェルドリックに会った後のフィルは明らかに様子がおかしかった。すぐに普通に戻ったように見えたが、ふとした瞬間にこちらを不安そうに見ていることにアレックスが気付かない訳がない。
だが、その理由を問いただそうとすれば、こちらが口を開く前に自慢の勘で察するのか、彼女は露骨に怯える。それで毎回訊けなくなって……。
「………」
傍らの彼女に目を落とし、闇の中に白く浮かび上がる寝顔を見つめてから、額にキスを落とす。
(家族のことだろうか……)
フィルがああいう顔をするのは家族の話のことが多いし、それならフェルドリックがアレックスより詳しい理由もわかる。フィルの祖父は、彼の祖父である建国王の戦友だ。
(それに……フィルは明らかに家族のことを俺、『アレックス』に隠したがっている)
額に当てていた腕を外し、部屋に射し込む月光を辿って夜空を見上げ、アレックスは再度息を吐き出した。
いや、隠したがっているのは多分父親のことだ。
祖父母の話は普通にする。たまにポロリと兄の話を漏らすこともある。だが、父親の話は一度もしない。アレックスの両親ははっきりと言わないが、彼女が老伯爵夫妻と暮らしていたのは、おそらく彼女の父が彼女と暮らすことを望まなかったからだ。その辺が関係しているのかもしれない。
だが、剣技大会での様子を見る限り、伯爵は――好悪はともかく――フィルを全く気にかけていない訳ではなさそうだった。
フィルの方もわかりにくい。彼女の様子から察するに、彼女は伯爵と共にいることを望んでいるようではないが、嫌っているというふうでもなさそうだ。
だが、父親という単語はひどく嫌がる。話題がアレックスやヘンリックの親であっても、だ。そういう時に彼女の顔に浮かんでいるのは嫌悪ではなく、敢えて言うなら、怯えているという感じが一番しっくりくる。
「一体何があった……?」
ザルアで出会った時に、『アレク』が親の話をした時にはそんな感じはなかった。九年前に別れてから何が彼女に起きたのだろう?
「……」
知りたいと思う。フィルのことを誰より知っていたい。
自分の腕の中で変わらず安らかに眠っているフィルに視線を戻した。
(もし自分があのアレクだと言えば、フィルの家のことを知っていると言えば、フェルドリックが何を知っていて、何を彼女に言ったのか、話してくれるだろうか……?)
額にかかった髪を左手で流してやれば、昔フィルが自分を魔物から庇った時についた古く深い傷跡が目に入った。自分のせいで彼女が死にかけた、罪の証だ。
「……」
知らず呼吸が苦しくなる。
(だが、もし、自分がアレクだとフィルに告げたら……)
フィルはどう反応するだろう? フィルが『アレク』を女の子だと、親友だと思い続けているのは知っている。じゃあ、その後『アレックス』は? 親友に戻る? 男でも恋人でもなくて?
そうかもしれない。九年前に彼女を危険に晒しただけじゃない、必死に努力を続けているものの、いまだに彼女を守れるだけの力があるかわからない。
そんな状態で、フィルに知られれば――。
「自分はフィルのことを知りたい、でも自分のことは知られたくない、は卑怯だよな……」
知らぬ間に押し殺していた呼気と共に、自己嫌悪が口からこぼれ出た。
「……?」
そのせいかもしれない、フィルがうっすら目蓋を持ち上げ、こちらを見た。
(しまった、起こした……)
しくじりに内心で舌打ちしたアレックスを、フィルは寝惚け眼のまま見つめ、それから不安そうな顔をする。
「……いていい?」
その表情と声に胸が軋んだ。
「当たり前だ」
理由なんて知らない。それでも彼女の不安を消すことが出来るなら、どんな願いだって叶えたい。何だってしてやりたい。
――と、真剣に思っているのも確かなのだが。
「……うん」
ほっとしたように微笑んだフィルは再び瞳を閉じ、両手でアレックスのシャツを掴むと、再びこちらの胸へと顔を押し付ける。
「っ」
その上、今度は柔らかい身体全体をアレックスにすり寄せてきて……。
「……」
全身をこわばらせた後、アレックスは「いい加減ひどすぎないか……」とぼやき、ガクリと脱力した。
嬉しいけれど、嬉しくない。嬉しくないけれど、嬉しい。可愛いけれど、ひどく残酷。それでも結局可愛いと思ってしまうあたりが本当に弱い……。
(拷問のような夜になるらしい)
息を吐き出しながら苦笑してフィルに向かい合い、左手でその髪を梳けば、彼女はさらに幸せそうに笑った。
「……」
こんな顔を見られること、それが幸せ以外の何だというのだろう?
その間一度も顔すら見ることなく、長い長い片思いは八年にも亘った。その彼女が今ここにいて、その上自分の腕の中で眠っている。
アレックスはフィルの額にもう一度キスを落とす。
「大丈夫、だよな、フィル……」
互いの存在を確かめるように、縋るようにつぶやいた。
(ごめん、君が話せないように、俺もまだ話せない)
それでもいつか、ちゃんと自分に自信が出来たら話をするから、それまでお願いだから、不安がらないでほしい。
「ここにいてくれ」
ここから、この腕から逃げていかないでくれ。この先、ずっと、ずっと一緒にいたいんだ――。




