7-6.疑念
遥か向こうの薄暗い廊下に、王太子フェルドリックとフィルが向かい合っている姿が見えた。
(――やられた)
思わず顔を歪めた。同時に様々な感情が湧き上がる。疑念、警戒、そして不安と嫉妬。
兄スペリオスが言っていたように、カザック社交界で彼ら二人は内々に婚約していると認知されている。噂でしかなかったはずのその話が脳裏を掠めて、知らず息を殺した。
フィルをナシュアナ第二王女の護衛に指名したのはフェルドリックだとアレックスは見ている。
剣技大会でのセルナディア第一王女のふるまいによって生じた王室への反感を、大衆が好みそうな王女と騎士の話を流すことで払拭する気なのだろう。
騎士団所属騎士を王族の彼女の護衛とする件も、別に難しいことじゃない。セルナディアのことだ、どうせナシュアナに嫌がらせ、しかも彼女の性格からしてかなり悪質なものをしているはずだ。考えも足りず、諫める人間も周囲にいないとなると、少し煽ってやれば、洒落にならないレベルのことをする。平民の母を持つ彼女に、近衛騎士たちは好意的ではないのだ。その状況になれば、陛下や近衛騎士団長、アーサーの説得はさらにたやすいものとなる――フェルドリックの考えそうなことだ。
元々アレックスはそのつもりで王宮にやってきた。だが、予想外のことが起きる。
まず、セルナディアやその取り巻きである近衛騎士たちからの接触がない。フィルもナシュアナもセルナディアに気に入られていないだろうから、当然何かあると思っていたのだが。
アーサーに訊ねれば、「第一王女殿下は観劇にお出かけだ」と胸を撫で下ろすかのように答えた。そして、「今日、貴殿らが登城することはほとんどの者には知らされていない」と。
(何を考えているんだ、あいつは……?)
フィルとナシュアナを使って王室への支持を回復するだけなら、そんな必要はない。セルナディアがナシュアナに何かすればするほど都合がいいはずだ。ナシュアナへの同情が集まって、ますます彼女の人気は高まるだろう。
次の疑問は、アーサーとの打ち合わせの後現れた女性たちだ。彼女らは完全にアレックスとフィルの予定を把握していて、さらにはセルナディアとその母である第二夫人から遠い関係にある家の者たちばかり。
不自然に思って茶の合間にそれとなく訊ねれば、情報の源はフェルドリックの執務補佐官らしく、しかもその彼はどうすれば俺を茶の席に引き出せるか、親切にアドバイスまでしてくれたらしい。
(つまり、俺とフィルを引き離したかった……? 引き離して、それで……?)
手を伸ばせば届く距離にまでフィルに近寄るフェルドリックに、アレックスは眦を吊り上げる。同時に、標的はフィルの方だったと知り、自分の迂闊さを悔やんだ。
周囲の女性たちに取り繕うこともできなくなって、「王太子殿下と話があるので失礼する」と跡を追われることをあからさまに牽制し、足早にフィルの元へと向かった。
だが、向かうその先のフェルドリックとフィルから、嫉妬などというものが浮かぶ余地のない緊張が漂ってきて、アレックスは眉根を寄せた。能天気でほとんどの悪意を聞き流すあのフィルと、完璧な猫かぶりを趣味とするあのフェルドリックが、だ。お互いがお互いを睨み付けている彼らの様子に呆気にとられる。
「……?」
フィルがこちらに気付いて、一瞬泣きそうな顔をした。
直後に真剣な鋭い顔で何事かをフェルドリックに呟き、その後再び何かを訴えかけるような視線でアレックスを見つめてきた。
(――何かあった)
彼女には珍しい、胸が締め付けられるような表情にそう確信して、アレックスは急いで彼らに歩み寄り、両者の間に立った。本音を言えば、フィルを自分の背後にやってフェルドリックから引き離したかったが、奴の性格を考えればそれは余計危険な気がする。
「知り合いか?」
アレックスは細心の注意を払って二人の表情を見比べつつ、どちらへともなく問うた。声音が自然と普段より低くなる。
「……ほんと、面白いね」
そのアレックスの目の前で、それまで不自然に沈黙していたフェルドリックが突如明るい声を出した。恐らく意図的にそうしたのだろう、横髪に隠れて彼の表情がよく見えないが、とてつもなく朗らかな声を出した時のフェルドリックには厄介な思い出しかない。
フィルもそう気付いたらしく、顔が再び引き攣った。
「嫌だなあ、そんな怖い顔しなくてもいいだろう。剣技大会の話をしてたんだよ」
軽く言いながら肩をすくめ、フェルドリックは「ねえ?」とフィルに同意を求めた。そのくせ返事を待つことなく彼女へと一歩近寄り、耳元に唇を寄せる。
「っ」
その行為にかっとなって衝動的にフィルを引き寄せようとした瞬間、見透かしたかのようにフェルドリックが離れた。そして、その珍しい瞳をアレックスへ向け、含みのある笑いを見せる。
即座に視線をフィルに戻せば、彼女は真っ青になり、強張った顔でフェルドリックへと曖昧に頷いている。
「じゃあね、アレックス。また遊びにおいで――フィル、もね」
用は済んだとばかりに、フェルドリックはいつもの猫を被り、美しい微笑を顔に張り付ける。アレックスの肩を叩き、さっさと去って行った。
日差しは既に傾いている。磨かれた石畳に落ちたフェルドリックの影が徐々に遠ざかっていき、最後に遥か右方の柱の影へと消えた。
(あいつの掴み所がないのは、今に始まったことではないが……)
彼が消えるのをため息と共に見送って、アレックスはフィルに向き直った。
「……」
だが、そのアレックスにフィルは青い顔をしたまま怯えたように首を振る。
「……フィル?」
(俺が知らないこと、しかもそんな顔をしなければならないようなことを他の男が知っていて、それをフィルが隠している……)
その姿に衝撃を受け、苛立ちと恐れを同時に抱いた。
「何があった」
(いつだってフィルに一番近いのは俺でいたいのに――)
これ以上怯えさせないようにと思うのに、声音に抑え切れない感情が含まれてしまう。
「……」
無言のまま、硬い表情で俯いてしまった彼女の姿に、体の奥底から形容し難い激情が生まれた。
(抱きしめて、キスをして、腕の中に閉じ込めよう。そして――……ダレノメニモフレサセナイ)
ひどく暗い誘惑に駆られてフィルに手を伸ばし、その顎を持ち上げた。かすかに見開かれた緑の瞳を見据え、薄く開いた桜色の唇を親指でそっとなぞる。
そうして固まってしまったフィルへと顔を寄せ……、
「フォ、フォルデリーク殿っ!!」
舌打ちを隠さずに振り返ると、そこでは顔を真っ赤にしたアーサーが、ナシュアナ王女を背後に隠しつつ叫んでいた。
「用事はお済みですか?」
「王太子殿下にもご一緒していただきたかったのに残念です」
彼の大声のせいだろう、先ほどの女性たちがそばにやってきた。
「……フィル」
「え……、ああ、大丈夫ですよ、ナシア。と言っても、私も初めましてなのですが――美しいお嬢様方、お会いできて光栄です。フィル・ディランと申します」
「あ、あなた、確か剣技大会で優勝なさった……」
「お強くて、しかもお美しくて、わたくし、ずっと目を奪われておりましたの」
「あの後の忠誠の儀も素晴らしかったわ。皆がナシュアナ殿下をうらやんでおりますもの」
「そのご縁でナシュアナ殿下の護衛に王宮に上がることになりました。殿下共々親しくしていただけると幸せです」
「まあ、嬉しい。わたくしたち、殿下のお話もお伺いしたいとずっと思っていて……お許しいただけますか」
「え? あ、え、ええ、もちろん」
「ディランさまとはあの時が初対面でいらしたのですか」
「カミーネさま、気が急くのはわかりますが、お茶席を設け直しましょう。殿下、どうかしばしお待ちくださいませ」
彼女達に明らかな怯えを見せたナシュアナ王女に、フィルはいつもの自分を取り戻したらしい。上手く両者の間に入ると、例の人懐っこさで王女をも上手くその輪の中に引き込んでいった。
そのうちにフィルに仮初の元気が戻って……厄介なことに、彼女は王宮にいる間も自室に戻ってからもその演技を保ち続けた。
「フィル」
「……はい」
もちろん騎士団に戻る途中、夕食の最中、部屋に戻る傍ら、部屋に入ってから、隙ある毎に彼女を問いただそうと声をかけた。
「……いや、いい」
だが、その度に怯えたように陰る彼女の表情に言葉が出てこなくなる。思いが通じるようになっても自分の方が圧倒的に弱い、と再確認させられた一日だった。
* * *
(長い一日だった……)
ベッドに入って眠れないまま、もう何時間経過しただろう。日が替わっても賑やかな宿舎裏の通りが、寝静まってもう久しい。
フィルは身を起こすと静かに息を吐き出し、立ち上がった。眠っているアレックスを起こさないよう、忍び足でキッチンへと向かう。そこで冷たい水を口に含んでから、思いついて顔を洗った。どうせ寝られないなら、顔でも洗ってさっぱりするのもいい。
「……」
それから顔に付いた飛沫を手で無造作に払った。
ゆっくり息を吐き出しながら天井を仰ぐと、湿った前髪から滴が一滴、頬を伝って首へと流れ落ちる。その感触にもう初夏だというのに身震いし、眉間に皺を寄せた。
『お礼に一つ――アレックスに厄介に思われたくないなら、君が「元」ザルアナックと知られないほうがいいと思うよ』
去り際のフェルドリックの言葉が突き刺さって離れない。「なぜ?」とどうしても聞き返せなかった。
そっと寝室へ戻り、アレックスに近づいて寝顔を見つめる。寝ている時はあどけなくさえ見えるその顔がとても愛しくて……だからこそ怖い。嫌われたくないと思ってしまう。
(彼にとって厄介? 私の存在……? それはつまり、貴族らしくない、相応しくないということ以上にまだ何か問題があるということだろうか)
「一体なんなんだろう……」
わからない。自分は貴族や王族という人たちが何をどう考えるのか良く知らない。
わからないのに、『名を捨て出て行け』と言った父の姿が、『知らないの』と呟いて呆然とこちらを見た兄の顔が、華やかに微笑む美しい少女たちとその間にいるアレックスの姿が脳裏に浮かんで苦しくなる。不安になる。
「初めてやり返せたのに」
今のままでいい、このまま努力していくとフェルドリックに言い返したのに。その上で、フィリシアじゃなくてフィルがいいとアレックスに言ってもらおうと思ったのに、そのためにアレックスにちゃんと話をしようと決めたのに、余計怖くなった。
(やっぱりフェルドリックが言うように、全部アレックスに話して、こんなふうになりたいと伝えて、その上で好いて欲しいと望むのは無理な願い事なのかな……)
ベッド脇に膝を落とし、震える指先を薄手のタオルケットの上に投げ出されたアレックスの手に伸ばす。
起こさないように手のひらにそっと指先を忍ばせると、触れるか触れないかのうちにそれらが彼の手に優しく包まれた。
「っ」
思わず彼の顔を仰ぎ見た。その瞳が閉じられたままであることに安堵すると、涙が一粒零れ落ちた。
どれだけ怖くてもいつか話さなきゃいけない、それはわかる。誰かに言われてしまう前に、アレックス本人に気付かれる前に、自分から話したい。
(でも、その時、アレックスはなんと言うのだろう。どんな目で私を見るだろう。もし、もしも父のような、フェルドリックのような目で見られたら……)
目をぎゅっと閉じて、握られた手に額を寄せ、思わず祈る。
その時、私がなりたい私になる、それでいいと言って欲しい。それでずっと一緒にいて欲しい――。
窓の向こうでは、夜の闇の中に月光が白々と降り注ぎ、静かに佇む木々の姿を浮き立たせている。




