7-4.天敵
「やあ」
「……」
振り返った先には予想通りその人がいた。
高く昇った太陽の光と同じ金の髪。その間から覗く、金と緑と混ざった不思議な色の瞳。弧を描くそれらの下の、形のいい唇には蟲惑的な微笑みが浮かんでいる。
相変わらず人離れして美しい人だった。だが、その見た目よりもっと異質なのは彼が身纏う空気――寛容に見えて威圧的、神聖で冒しがたい支配者のもの……。
(――変わっていない)
自分に向けられる目に宿った光と気配にフィルはありがたくない確信をしつつ、ようやく重い口を開いた。
「……ご無沙汰しております」
その人はフィルの声に顔全体を緩めて笑った。思わず息を押し殺す。
「本当に久しぶりだね」
朗らかな声の調子と裏腹に目が全く笑っていない。そしてそれゆえこちらが警戒するのを知っていて、の笑みであるというのも変わっていない。
「馬鹿だとは知っていたけど、これほどとは思わなかった。いっそ気の毒になるよ」
露骨に嫌そうな顔をしているだろうフィルに、心底楽しげにそんな台詞を吐くことこそ、間違いなく彼だった。
祖父に連れられて時々訪れた、湖西地方の離宮に住まう彼の友人――既に退位した建国王アドリオットの下には、現カザック国王の唯一の王子であるフェルドリック王太子が滞在していることがあった。
出会いは確かフィルが五つの時だ。彼は隣にいたフィルを綺麗に無視して祖父に走り寄り、抱きかかえられて頭を撫でられ、嬉しそうに笑っていた。
誰なのかまったく知らなかったけれど、その子も祖父も嬉しそうでフィルもちょっと嬉しくなった。
自分より少し年上の子だったが、祖父とあれだけ仲良しなら自分も仲良くしてもらえるのではないか、と今思えば「何をそんなにのん気な……」と呻きたくなるくらいウキウキしていたようにも思う。
そう、問題はその後すぐ起きた。
彼は抱っこされたまま、祖父の肩越しにフィルを恐ろしげな視線で睨んだ。ザルアの町の子どもたちが自分に向けるのと同質の、でもなぜか、もっとずっと危ないと思ってしまうようなもの。それにまずいと感じて、咄嗟に一歩後退った記憶がある。
その直感は当たった。続いて現れたアド爺さまに走り寄った後、改めてフィルに向き直った彼は、明らかにフィルを嫌っているとわかるのにもかかわらず、ふわりと可愛らしく笑って見せた。『君がフィル?』と。
恐ろしいなんて言葉で表現しきれるものじゃなかった。全身総毛立って、五歩分ほど飛び後退った。物心が付くか付かないかの頃だというのに、今なお鮮明に覚えている時点で一体どれだけの衝撃だったのかと思う。
『おおい、フィル?』
『なんだ、どうした?』
そんなフィルに祖父やアド爺さまが怪訝な顔を向けてきて、咄嗟に「心配かけちゃだめだ」と思ってしまった。ついでに、知らない人に会ったらちゃんと名を呼んで挨拶しなさいと祖母に言われていたことを思い出してしまって、フィルは何とか声を振り絞ったのだ――それが更なる恐怖の幕開けとも知らずに。
『え、ええと、初めまし、て……フェルド、リック?』
その瞬間、周囲がザルアの森の新月の晩以上に真っ黒になった気がした。
今ならあれは「気安く名を呼ぶな」という脅しに他ならなかったと断言できる。
かといって『殿下』と呼んでも不機嫌になるし、何をしてもしなくても馬鹿にされ、何を言っても言わなくても白い目で見られる。
街中の知らない人にも下働きの人たちの小さな子供にもにっこり笑って親切にするのに、彼はその時もその後もフィルにだけ、物の見事にフィルにだけ信じられないくらい意地も根性も口も目つきも空気も悪かった。
何が性質が悪いかといって、他の人、特にアド爺さまと祖父が一緒にいる時は本当に普通……どころか丁寧に優しくふるまうのだ。
女神さまもかくやという輝かしい笑みから、地獄の空気はかくあらんという瘴気が溢れ出してくる光景に、フィルは毎回恐怖した。
そうして生まれたフィルの鉄則――彼には絶対に関わらない、間合いの内に入らない、入らせない。
離宮で彼と不運にも鉢合わせした時は、細心の注意を払いつつ挨拶だけして、速やかに行方を眩ませる。これが一番の安全策だった。一人野宿する森で魔物に遭遇しようが知った話じゃない。彼に比べれば魔物の方がずっとずっとかわいかった。
幸いなことに向こうもこっちが避けている限り積極的には寄ってこないし、それで大丈夫と思っていたのだ――十二になるまで。
その夏、祖父たちが話しこむ間、剣術の基本である型を行っていたフィルの前に、その美しい王子は一人で現れた。元々綺麗だった彼は言い伝えられる太陽の精霊のようになっていて、その姿にフィルはそれと対となるべき月の女神のようなアレクを思い出す。
『君、本当に愚かだね』
だからこそその口から飛び出た、今と同じひどい言葉に咄嗟に反応することが出来なかった。しかもその時は執拗な空気が漂っていて、逃げられるような感じもしなかった。
彼はくすっと意地悪く笑い、剣を片手に立ち竦むフィルの全身を蔑むような目で眺め回す。
「アル・ド・ザルアナックの孫になんかに生まれたばっかりに」
目を見開いて固まったままのフィルに彼は優雅な足取りで近づいてきて、斜め下から顔を覗き込んできた。
「何にも知らずに、言われるまま剣の訓練なんてして……」
その目には嘲笑。
「傷だらけだ。女性、なのに、ねえ。着飾りもせず、恋も許されず、同年代の女の子とのおしゃべりもなく、」
その奥に光る苛立ち。
「唯々諾々と言われたことを、生まれをそのまま受け入れる――人生を無駄にしているとは思わない?」
彼は「本当に人形のようだよね」と明るく、爽やかに笑った。
その顔の裏にこれまでとは比較にならない悪意を感じて咄嗟に睨み返してみたものの、彼には意味をもたらさなかったようだ。
彼は朗らかな声音のまま、「一番不幸なのは、」と刺すような視線でやはり侮蔑を隠さずに吐き捨てた。
「不幸なのにそれを不幸と感じられていないことだよねえ――本当、君みたいなのの存在がこの世で一番むかつく」
何かが違うと思うのに上手く頭
は働いてくれなくて、結局一言も言い返せなかった。
「いつの間にかアレックスの側にいたとはね」
再会した彼は、中庭にいるアレックスに視線を向けて、声だけ楽しそうに呟いた。
「でもわかるだろう? 彼はこっちの……そう、ああいう世界の住人だよ。君には本当に不釣合い」
彼が露骨な嘲笑と共に口にした言葉が、つい先ほど自分が考えていたことそのもので、フィルは血の気を失った。
ああ、そうだ、この人はこういうふうだ。人が突かれたくないと思っていることを、心の中を読んでいるのではないかという正確さで、手加減なく突いてくる――。
『お前に価値などない』
『出て行け』
『名乗るな』
父のあの声と視線が目の前の彼のものに重なり、フィルはさらに蒼褪める。
「ねえ、自分の置かれた状況がわかるくらいには成長した? 後悔していると言うんなら、頭を下げれば、ザルアナック伯爵に取り成してあげなくもないよ。僕なら君を本来の場所に戻してあげることができる。着飾ってああいう中に入りたくない? ――アレックスに釣り合うように」
「……」
知らず目を見開いた。
釣り合わない――じゃあ、釣り合うようになれば……?
(そうなれば、近くに側にいられる……何より……父にいらないと言われたことをアレックスにばれないですむ……)
アレックスがこちらに気付いた。訝しげな表情をして、足早に歩いてくる。
彼を振り返ったフェルドリックは、「ほんと、すごい執着」と言いながらくくっと声を潜めて笑い、それから再びフィルを見た。目の端と口の端だけを弧の形に歪めて囁きかけてくる。
「もうアルもいないってのに、剣にしがみついたって仕方ないだろう? そのまま行けば確実に不幸になるよ。アルだってそんなこと望んでないんじゃない?」
(不幸……私……?)
フェルドリックの言葉を、『ああ、本当に変わっていないな……』とどこか遠い場所の出来事のように思いながら耳に入れた。
『私の幸せをあなたが量って嘆いてくださらなくていいのです』
そう兄を前に言い切ったのはついこの間の話だったと思い出して、フィルは苦く笑った。
持ち続けようと決めた剣とフィル・ディランという名。それらと共に、騎士団で居場所を見つけようと思った。それで自分は幸せになれると思ったのに、アレックスが別の世界の人だと知っただけでこんなに、彼の存在一つでこんなに揺れるものなのか、と。
彼に嫌われたくない、彼に相応しい人間でありたい――それがいつの間にか居場所が欲しいというのと同じくらい切実な望みになっている。
フィルはアレックスの向こうにいる女性たちへとのろのろと視線を移した。彼女たちはやはり綺麗でかわいくて、背後の美しい花々とあわせて妖精のように見えた。
彼の側にいたい――それなら、ああいうふうになれば? 別に騎士団じゃなくったって、アレックスの側が居場所になればそれでいいのでは?
(それなら騎士としてやっていけるかという不安だってなくなる……そうしたら父さまだって……)
それはとても甘美な考えに思えた。そして誘惑されるまま、フェルドリックにふらふらと頷こうとして……、
「っ」
左手に触れた剣の感触に我に返った。
『フィルは剣を持って、それで何を望む? どんな人間になりたいと思う?』
脳裏を蘇ったのは、祖父が事ある毎に問いかけてきた言葉だった。
『何を欲しいと願い、何になりたいと願うのかはとても難しくて、けれどだからこそ大事なことだ。不幸なことに、人は目先の欲に囚われてよくそれを見失ってしまう』
剣を望んだフィルに、その後もフィルが何かを欲しがるたび、したがるたびに祖父は戒めた。
『フィル、ちゃんと考えなさい。望んだその先に何が待っているのかを。欲しいと願ってそれを手に入れて、人生はそこで終わらないんだ。その先の自分が望ましい自分であるのかをちゃんと考えなさい』
(…………私の望み、ってなんだろう?)
居場所が欲しい。今はないと思うから、この先ちゃんと作っていきたい。それから……アレックスに嫌われたくない。側に居たい。そのために相応しくなりたい。
じゃあ、どうしたらいい? 兄やフェルドリックが言ったみたいに家に帰る? 帰って頑張ってあの女性たちみたいになれるように努力する? …………剣を捨てて?
『強い剣士になって皆を守るんだ。特にアレク』
そう爺さまに言ったのに? アレクに誓ったのに?
「……」
フィルは馴染んだ剣の柄をぎゅっと握り締める。
「聞いているのか? 相変わらずまともに言い返してもこれないわけ?」
フェルドリックが何かを言っているが、そんなことこの際問題じゃない。ちゃんと考えるんだ。きっとすごく大事なことだ。
アレックスを望んで、そのために剣を捨てて実家に戻って着飾って、アレックスに相応しい、父が望むような娘になって、彼の側にいて――それで?
望ましい自分、つまり私は私を好く、のかな? 一生懸命生きてるって、幸せだって胸を張って言えるのかな?
「……」
ぐっと拳を握り締めて、大きく息を吸い込んだ。
それから近づいてくるアレックスをもう一度見つめた後、フィルはフェルドリックに向き直った。声が震えてしまわないように全身の神経を使う。
「決めるのは私です」
揶揄と侮蔑に溢れていたフェルドリックから一瞬表情が消えた。
「愚かか、不幸か、それともそうではないのかを決めるのは私です」
怯みそうになるのを堪え、出来るだけ冷静にそんな彼の目を見返した。
「誰も生まれる場所を選べません。育つ環境も多くの場合は選べない」
近づいてきたアレックスの顔に心配するような表情が浮かんでいるのに気付いてしまって、不意に泣きたくなった。でも……絶対に泣かない。この人の前では死んでも嫌だ。
「それでも必死に生きていくんです」
自分が生まれて母は死んだ。だから、私は『お母さん』がどれだけ温かい人なのかわからない。
父と一緒に暮らしたことがない。だから、『お父さん』が本当はどんな人なのかまったく知らない。
貴族の娘に生まれたのに剣を手放せなくて、綺麗にもなれない私を、その父は必要ないと言った。
祖父母は亡くなってしまって、私にはもう帰れる場所も家族と胸を張って言える人もいない。
――じゃあ、私は不幸なんだろうか……?
フェルドリックのようにそうだと言う人もいるだろう、でもそうじゃないと言い返したい。
誰かに、フェルドリックにお前は不幸だと言われたって、剣を握ったままこうなりたいと自分を思い描いて頑張ってきた自分のことを、私自身はそんなに悪くないと思う。
貴族の娘としてじゃなく、騎士としてこうしてアレックスと会えたことだって、私にはすごいことだ。
それを聞く前に、他人が自分の価値観で私の幸不幸を勝手に量って、私を哀れむのも蔑すむのも失礼だ。
私は不幸じゃない。愚かじゃない。だって、この先の自分を諦めていない。今自分が幸せじゃないと感じるなら、いつか幸せになる、自分が幸せだと感じられるように努力する。
それが正しいことなのか、今はまだわからないけど、いつかそう思ったことを間違ってたって思うのかもしれないけど……でも、今はそうやって生きてみたい――。
「私は私にできる選択をかき集めてその中からどう生きていくのか、どんな自分になりたいかを決めたんです。だから、」
私は、アレックスを囲んでいた人たちのように成るべく育てられはしなかった。でも、もしも父の言うままに剣を捨てて貴族の娘たろうとしていれば、もしかしたら同じ貴族のアレックスに明らかに相応しい娘だったのかもしれない。そうしたら、父だって私を必要だと思ってくれていたかもしれない。兄にするように笑ってくれていたのかもしれない。今フェルドリックの言葉に従って頭を下げれば、もしかしたらもう一度やり直せるのかもしれない。
それでも……私は今この場所で、この制服に身を包んでアレックスを見ていられることを幸せだと思う。
このまま彼といたい。でもそれはフィリシアとして、じゃない。フィルとして一緒にいたい、いて欲しい。
「だから……この先は私の意志です。私がそうしたいと、そうありたいと願った在り方です。それをあなたが愚かだと、不幸だと決め付けて蔑むことは出来ない」
剣を持ったままでいたい。そうして居場所を作って、誰かの為にその力を使える自分でいたい。貴族の子らしくなくても、綺麗じゃなくてもいい。傷だらけでいい。
私はそんな自分がいい。だって、そうあることが、今考えられる限りで私が一番に望む生き方なんだから。
「私は私のなりたい自分になれるように努力します。それで……それでいいんだと思います」
(でも、アレックス。私、……アレックスも欲しいよ)
フィルはすぐそこまで来たアレックスの青い瞳を見つめて、笑おうとぎこちなく頬の筋肉を動かす。
頑張るから、貴族じゃなくても綺麗じゃなくてもちゃんとそれ以外のところで好いてもらえるように頑張るから、それでいいとアレックスにいつか言って欲しい。
フェルドリックどころか、実の父にすら呆れられるような生き方なのかもしれないけど、いつか、いつかちゃんと全部話すから、その上で側にいていいと言って欲しい。
――そう望んでしまうのは我がままなのだろうか……?




