7-3.冷や水
「では、私はこれで」
ナシュアナの部屋の前で待ち構えていた少女たちが設けた茶席を、アレックスは早々に立った。
彼女たちの存在と行動に違和感を覚えて、意図を探ろうと誘いに乗ってみたが、彼女たち自体には特段の企みはない。ここにこれ以上いても無駄だ。
「そんな寂しいことを仰らないで、もう少しだけお時間をください。夜会などは皆欠席、王宮にも滅多にいらっしゃらず、何ヶ月ぶりかでようやく……」
「残念ですが、そろそろ戻ってナシュアナ殿下をお待ち申し上げなくては」
そのうちの一人に目を潤ませて見上げられて、アレックスは薄く微笑む。
「リリアナさま、アレクサンダーさまはお仕事熱心でいらっしゃるのです。困らせては……そうだわ、中庭はいかがですか? そろそろバラが咲く頃ですし、ナシュアナ殿下が図書館からお戻りになる際にはそちらをお通りになるでしょうから」
(……あまり無碍にすれば、悪意がナシュアナ王女に向きかねない。それはフィルが嫌がる……)
彼女たちのいじらしい物言いも、自分をより美しく愛らしく見せるための笑顔も、すべては計算づく――そう知っているアレックスは同様に作った笑顔で頷きだけを返し、歩き出した。
小鳥のさえずりのように愛らしい笑い声と、香水と化粧のにおいに囲まれ、ナシュアナ王女の居室の方向に向かう。
「アルマナックのオール・ド・レメンがカザレナに出店したとか。職人が常駐していて、オーダーに応じると大人気になっているそうです」
「そういえば、王后陛下もご興味を持っておいでと母が」
意味を感じない会話にまったく意味のない応えを返し、さりげなく絡みついてこようとする腕を身体に染み付いた粗相のない所作でさりげなくかわした。
「フォルデリーク公爵夫人もご存じなのですね。では、アレクサンダーさまも行かれたことがおありですか?」
「もちろんです。店の前まで任務で、ですが」
「まあ」
実のない言葉の裏で繰り返される駆け引きは、より親密な付き合いを求めての場合も少なくはない。そうと悟りつつ、アレックスは冗談めかして返し、気付かないふりをする。
(適当にあしらっても罪悪感を覚えなくていいのが、気楽と言えば気楽だな)
騎士団に入って数年経った頃からだったろうか。王宮を訪れるたびに、アレックスはこんなふうに女性に囲まれるようになった。それまでは「女性のよう」「ひ弱すぎる」「爵位もない」と噂され見向きもされなかったのに、と思うとなおのことうんざりした。
家柄がよく、連れて歩くのに見た目が悪くない、よって結婚前の火遊びの相手としてちょっかいをかけるには手頃というところなのだろう。縁談が本決まりになって別れる時もごねられる可能性が少なく、別れた後も『家のために泣く泣く終わった悲恋』を思って感傷に浸ることが出来る。
彼女らを倦む一方で、彼女らに応対する術を持った自分をひどく穢れているとも思う。
アレックスは中庭の芝に足を踏み入れ、わずらわしさから逃げるように、空に目をやった。
(今頃フィルは宮廷の作法についてあれこれ言われて、顔を顰めているんだろうな)
今の侍女頭は旧王朝の時分から代々王宮勤めをしてきた一族の出で、それを誇りにしている人物のはずだ。アレックスの従兄であり、王太子でもあるフェルドリックが「意味や必要性を自分の頭で考えることなく、ただただ旧習を鵜呑みにして、その出来不出来で他者を量って時に貶める、本質的な意味での礼儀作法にもっとも反する人間」と評していた。フィルと合うとは思えない。
(昔も思ったが、本当に彼女にここは似合わないな……)
アレックスは自分から離れようとしない貴族の少女達に適当に応じながら、そんなことを思う。
昔からフィルは真っ直ぐだった。
言葉の裏に隠された駆け引きを何とか見破ろうとするアレックスに全く気付かず、大丈夫なんだろうかと思ってしまうほどいつも正直。
『できるよ、アレクがそうしたいなら。最初はきついだろうけれど、少しずつやっていけばきっと大丈夫。すぐには無理かもしれないけれど、自分のすべきことをちゃんとすれば、確実に上達する』
剣を習っているフィルを羨ましいと言った時のことだ。体が弱いし、どうせうまくできない、と零したアレックスに、幼い彼女は慰めの言葉の一つもなく、すぐ体が良くなるとも頑張ればすぐに剣が上達する、とも言わなかった。何かをしたいならそう望み、やってみろ、その上で時間をかけて努力しろ――そういうことだと思った。そこにあったのは彼女が信じるままの真実だった。
こちらを見つめる目には、当時も今も彼女の感情がそのまま映る。何かの計算や要求を含んで、ということはいっそ寂しくなるくらいなく、ただ内心のまま嬉しい、楽しい、悲しい、辛い……。それらがまっすぐ自分に向けられるのを見るたびにほっとする。ますますフィルが愛しくなる。
フィルを思いさえすれば、窮屈でおぞましいこの場所も苦にならなくなる。疎ましいとしか表現しようのないこの状況でなお幸せを感じられる。
(側にいたいのも側にいて欲しいのもただ一人、彼女だけだ――)
そう再確認して、アレックスは小さく微笑みを零した。
* * *
面倒くさい以外に表現のしようのない、事細かな規則や作法を聞き終えたフィルは、げんなりした気分でトボトボとナシアの部屋へと向かう。
(何の意味があるのかってことばっかりだった……)
一度そう口に出して激しく睨まれてからは、身に付いた習性でひたすら黙って聞いていたが、何もかもが激しく謎だ。
さらに苦痛だったのは、講師である侍女頭その人だ。最初『所詮は騎士団員』(これ自体がものすごく腹立たしい)とフィルを蔑んでいた彼女は、二、三の宮廷所作をフィルに行わせた後、唐突に訊ねてきた。貴族と関わりがあったのではないのか、屋敷にでも勤めていたのか、と。
その問いに、いつもするように母方の祖母が貴族の出だと答えて……それからだ。彼女は実に親身というか、打ち解けた感じになった。それにフィルは少し――嘘をついた、かなりむっとした。
十三の夏に祖母が亡くなるまで、フィルはザルアの森の別邸で祖父母とともに暮らし、その後は祖父に連れられて国中、時には外国までフラフラと旅をして歩いた。
フィルは剣士としての作法を祖父から、貴族としての作法を主に祖母から教わり、人として必要な作法は祖父と祖母の両方から教わった。
ザルア地方の北西端の貧しい農村に生まれた祖父は、元々五人兄弟だったらしい。だが、祖父が十二の時に両親と下の三人は飢えの中に襲った流行病で亡くなり、そこから共に生きてきたたった一人の兄、つまりマット大伯父は、旧王権との争いの終盤に建国王の側についたと見せかけた貴族の裏切りにあって亡くなったそうだ。
そんな祖父だったから、旧公爵家の出身だった祖母を射止めた――そんな出自の祖父が祖母をどのように口説いたかは飽きるほど聞かされている――後も、建国の功績で伯爵位を授かった後も、やはり貴族寄りの感覚にはなれなかったらしい。
孫のフィルの目から見ても本当に優雅な人で、必要な時には祖母がフィルに教えたような貴族の作法を奇麗にこなしていたけれど、そうでない時は全然だった。
約束の時間に遅れそうだとパンを口に咥えたまま家から走り出ていったり、行儀悪く床に転がってフィルと内緒話をしたり、山賊退治を依頼された貧しい村で、フィルや村の子供たちと一緒に泥だらけになって大口を開けて笑ったり……。
王太子に会った時だって、挨拶も礼も全部すっ飛ばして満面の笑みで彼を抱き上げていた。彼の取り巻きが無礼だなんだとうるさく言っていたけれど、祖父がそんなことを気に留めるはずもなく、彼の頭をぐりぐり撫でては、あの気難しい彼を嬉しそうに笑わせていた。
『ふふ、だから私はあの人が好きなのよ』
陽だまりの中で孫相手に惚気ていた、老いてなお内側から滲み出るように奇麗だった祖母の顔がちらつく。
『大事なことは形式に則った振る舞いができるかどうかではなくて、人としての品があるかどうかなの。貧しくたって、形式ばった作法を知らなくたって、問題じゃないわ。一生懸命生きていて、思いやりや思慮を持って周囲に接することができるかどうか、その人の内面こそが問われるの』
礼儀というものが一体何なのかをフィルに聞かせる時、祖母はいつもそう言っていた。
(私の中身は変わらないのに……)
貴族の出の祖母がいることと、それゆえに偶々知っていた作法――それだけのことで手のひらを返した侍女頭の態度がひどく引っかかる。
沈み込むフィルの耳に、軽やかな笑い声が届いた。
何気なく視線を向ければ、完璧に整えられた庭園の中、女の子たちの中心にアレックスの姿が見えた。
お茶が終わってもまだ一緒にいるんだ、と思わず眉をひそめ……
(――違う)
不意に頭から冷水を浴びせかけられたような気分になった。
「……」
視線の先の彼女たちの体は華奢で四肢には傷一つなく、動きも洗練されている。長く美しい髪と豪奢なドレスがその動きと風に合わせて揺れるさまは、蝶が舞っているように見えた。
アレックスはその彼女たちに違和感なく溶け込んでいる、慣れていないフィルにもはっきりわかるくらい奇麗に。
(遠い――)
自分と彼の違いを痛感して、花祭りの最後の晩以降のどこかふわふわした気分が潮が引くように消えていった。
逃げるように視線を伏せれば、騎士の制服に身を包んだ上下に長いばかりの自分の体と腰に下げた愛用の剣、手についた薄い傷跡が目に入った。
(ああ、そうだ、見た目だけじゃない、多分もっとずっと根本的な問題、だ……)
釣り合わないのではないかと心配してくれた兄の憂い顔が蘇って、フィルはさらに顔を歪めた。
貴族の家に生まれたこと。でもそれに相応しく、今見ている彼女達のようになれなくて、貴族としての名を取り上げられて勘当されたこと。それから、剣を持つお前に価値はないと実の父の言われたこと――話さなくては、と思っているのに、性別を明かす以上に怖くて、いまだにアレックスに言えていない。
毎日、朝起きてアレックスとキスをするようになった。仕事を終えて部屋に戻る度に抱きしめられるようになった。目が合う度に笑ってくれるのは前と同じで、でも今はその後に手を伸ばして頬に触れ、抱き寄せてくれる。いなくなったはずの、お休みのキスを交わす相手が再びできた。それが嬉しくて幸せで忘れていた。
(ううん、忘れたふりをしていた……)
不釣り合い――思い浮かんだ言葉にフィルは唇を引き結んだ。
父がそんな自分を勘当したように、彼女たちのようになれず、そのことを話すことすらできないフィルは、ちゃんとした貴族のアレックスとはきっと――。
(……笑った……)
そつのない仕草で彼女たちに応じているアレックスの顔が一瞬柔らかく綻んだ。フィルは体の芯に生じた鋭い痛みに胸へと手をやる。
アレックスはフィルを貴族の遠縁だと思っているはずだ。彼の望みもやはりそういうことなのだろうか? だから抱きしめてキスしてくれる? あの侍女頭が貴族の関係者だと知って私への期待を変えたように、ちゃんとした貴族のアレックスも私が女性だと気付いた時に、ああいう風になれるかもしれないと思った? ああいう風かもしれないと思った……?
「……」
胸の前で握り締める拳にさらに力が篭り、小さく震えた。
(じゃあ、私があんな風になれないと悟って、家を出てきたと知ったら? 実の父がそう烙印を押したと知ったら? 実の父に要らないと言われたような娘だと知ったら?)
――アレックスは一体フィルをどんな目で見るだろう。失望し、やはり父のように「要らない」と思うのだろうか。
「っ」
そうだとしたら、毎日幸せそうに自分を見て笑ってくれるあの瞬間も、ああやって抱きしめてくれることも、あの優しいキスもなくなる。そして彼も離れていく……。
「……」
次から次へと思い浮かんでくる想像に徐々に息が苦しくなっていく。
そんな人じゃないとも思う。でも、もし知られて、もしあの青い目が自分を軽蔑や落胆を湛えて見たら? もし彼にもフィルなんていらないと言われたら?
「っ」
それは嫌だ、と瞬時に思って泣きそうになった。
(私、アレックスと一緒にいたいんだ……。どうしよう、どうしたらずっと一緒にいられるんだろう……)
急に遠ざかった気のするアレックスを見つめて、フィルは唇を噛みしめる。
「……」
答えは出ていないというのに、このままここにこうしていれば、アレックスがさらに遠ざかっていってしまうような気がした。
フィルはふらりと彼の方へ足を踏み出す。そして――
「っ!」
生じた後ろからの気配に、緊張に体をこわばらせた。
(よりによってこんな時に……)
顔からさらに血の気を失いつつも、それでも経験上そうしなくてはならないことを知っているフィルは、ゆっくりと背後を振り返る。
違った、こんな時だからこそ現れる人だった、と全身で警戒しながら。




