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そして君は前を向く  作者: ユキノト
過去編【恋】
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【恋】

「なあ、エレン」

「なに、アル?」

 ようやくやってきた高原の春。テラスに出て、茶を飲む二人の間を午後の暖かな風がゆっくり吹き抜けていく。

 遠くの山々は未だに雪を頂くが、ここでは花々が咲き乱れ、同じ風にそれぞれの色を揺らしている。その中で子供が二人、剣をつき合わせていて、たった今小柄で華奢な方が大きい方の子の握る剣をその手から弾き落した。

「ティムが弟子入りしたいと言ってきた時に話していた子のことなんだが」

 先ほどまで子供たちの相手をしていたアルが、手にしたタオルで額の汗を拭って眉を顰めた。

「好きな子のために強くなりたい、ライバルに負けたくないと言っていた件かしら」

 エレンは洗練された仕草で静かにカップを口に運ぶ。

 見つめる先で、そのティムが地に落ちた剣を拾ってフィルに何事か言い、それを聞いたフィルが声を立てて笑った。悔しそうな顔をしていた彼はフィルのそんな様子に大きく息を吐き、それからつられるように笑い始めた。

「あれは、フィルのことなんじゃないかと……」

「……」

 春も盛りだというのに、エレンから冬の山風よりなお冷たい視線を向けられ、アルは顔を引き攣らせた。

「……エレン、言いたいことがあるならはっきり言ってほしいと何度も」

「フィルったら似なくていいところまで似たのだなあ、と思って」

 エレンが盛大に溜め息をつき、アルはますます顔を歪めた。

「似なくていいところとは……」

「鈍いところよ、もちろん」

「……」

「今頃何を言っているのかしら?」

「……」

「私だけじゃないわよ、オットーもターニャも皆、彼が来たその日に気付いていたわよ」

「……」

「もう半年以上。アル、本っ当に今気付いたの?」

「……」

「何十年経っても、それだけは欠片の進歩もないのね、あなた」

「……エレン、言いたいことがあるならはっきり言ってほしいとは言ったが、そこまで言わなくても」

 がっくり肩を落としたアルに、エレンが小さく吹き出した。


 目線を子供たちに戻せば、ティムがフィルへと手を伸ばし、彼女の髪に触れたところだった。くっついていた花びらをとった後、引き寄せられるように微かに頬に触れ、はっとしたように手を引き戻す。

「あの仕草も視線もどう見ても愛しい子に対するものでしょう?」

 なのに、それを向けられている孫娘は欠片も気にする様子がない。淡々と剣を構えて、彼にも再び向き合うよう促した。

 もう九つだっていうのに色恋とか頭にないのよねえ、とエレンが呆れたように溜め息をつけば、アルはアルで情けない響きの息を吐き出した。


「なあ、公平じゃないと思うか?」

「ヒルディスとセフィアのアレクのこと?」

 アルが眉を顰めたまま頷く。

「フィルには自分で探せと言ったが、フィルはアレクがどこの誰かも知らなければ、女の子だと思っている訳だし……」

「あの子がこの夏にでもここに来れば、そのうちフィルだって気付くでしょう?」

 首を傾げたエレンに、アルは沈黙して考え込む。わずかに傾いた日差しが、テラスに射し込んできて彼の白くなった髪を照らした。

「あの子は多分『強くなった』と自分が思えるまで、フィルには会いに来ないよ」

「……真面目で不器用な子なのね」

 父親のヒルディスより祖父のヴァルに似たのかしら、とエレンは微苦笑を零す。

「それなのにもう一方のティムはこうしてずっとフィルと一緒に過ごしていて……弟子も可愛いがアレクもなあ」

「どれだけ頼まれたって紹介状なんて書いたことのなかったあなたが、自慢の一番弟子のルークをわざわざ紹介するぐらいだもの、随分気に入ったのよねえ。確かに綺麗な、賢そうな子だったけれど」

 私は彼が帰る前に訪ねてきた時に少し会っただけよ、二人だけいっぱい話をしてずるいわ、とエレンがアルを睨みつける。アルは慌てて彼女から視線をそらすと、誤魔化すように咳払いした。

「せめてどちらかだけでも教えてやるかなあ。フォルデリーク家のことか男の子ということか……」

 肘をテーブルについてぶつぶつと呟きながら、剣を扱う弟子たちを眺めていたアルは、次の瞬間フィルの動きに満足そうに微笑んだ。

 その様子にエレンは眉を跳ね上げて、再び苦笑する。恋路の心配よりやはり剣の方が心配なのね、と。


「……必要ないのではないかしら?」

「……?」

 視線を同じく孫娘に戻したエレンが柔らかく微笑んで発した呟きが、やはり柔らかい春の風の音に混じってアルの耳に届いた。

「『ちゃんとアレクを守れるぐらい強くなって、それでその先ずっと一緒にいる』だったわよね?」

「ああ、フィルの口癖か」

 にっこり笑って、エレンはその明るい茶の瞳でアルを見つめた。

「そのためにフィルは頑張っているのでしょう? 最近ますます凛としてきて、惚れ惚れするわ」

「惚れ惚れ……って、孫娘だぞ」

 顔を引きつらせるアルを華麗に無視して、エレンは「アル」と呼びかける。

「それ、『恋』以外のなんだというのかしら?」

「……は?」

 アルはぱっくり口を開けてエレンを見つめた。

「だが、フィルは『アレク』を妖精のような美少女と……女の子だと思っているのだろう?」

「フィルのことだし、気にしていないのではない? 家のこともそうだろうけれど、性別とか」

「家、はともかく性別……。それはまた大雑把というかなんというか」

「本当、どういう育て方をしてしまったのかしら?」

 愕然とした後呻き声を発したアルに、エレンはからからと笑った。

「エレン、君はフィルが俺に似ていると言うが、俺だってそこまでぶっ飛んでいないぞ」

「方向が違うだけで似たようなものよ」

 長年連れ添った愛妻に笑顔で言い切られて、アルは眉尻を情けなく下げると天を仰いだ。

「となると……いいのかな?」

「いいのよ。自分でなんとかしようと足搔いてこそ恋だもの。大体、あなたの口癖でしょう?」

「『何とかするって信じてやれ』って? 自分で言っておいてなんだけど、難しいんだよなあ、いつも」

「大丈夫よ、フィルのことだもの、何とかするわ」

 アルは少し離れた場所で、再び弟弟子の剣を叩き飛ばした孫を見遣る。

「……幸せになるかな?」

「私たちの孫娘よ、ならない訳がないわ」

 そう言って笑う愛妻の顔を、アルはまぶしいものを見るように見つめた。剣を取って戦うことのできる人ではない。だが、強くて美しくて、それにずっと焦がれてきた――。

 彼女を運良く手にできた幸運を噛みしめながら「エレン」と名を呼び、アルは彼女を抱き寄せてキスを落とす。もう何十万回目かのそれは、少しも変わらず彼女への愛しさをアルの体中に染み渡らせる。



「あー、子どもの前だってのにラブラブすぎんだろ……」

「? いつもあんなだぞ」

 アルたちに目を向けて呆れ声を出したティムに、フィルは片眉をひそめた。

「大体もう70じゃないか」

「好きな相手とすることだっていうなら不思議じゃない。年は関係なかろう」

 変なことを言う、と思いつつそっけなく答え、フィルは剣の刃を陽にかざしてその具合を確かめる。

「……憧れたりしないのか?」

「?」

 探るような声にフィルは視線をティムに戻し、首を傾げた。

「その、好きな相手、とか?」

「好きな相手……」

 ――アレク。

 咄嗟にフィルの頭に思い浮かんだのは、半年以上前にここを訪れた、黒髪に青い瞳の美しい親友だった。

「……今、誰のこと考えた?」

「……別に」

「アレク、か……?」

 心の中を言い当てる、押し殺したようなティムの声に、フィルは頬をひくつかせた。

「っ、いっつもいっつもバカの一つ覚えみたいにアレクアレクとっ」

「別にいいだろうっ」

「よくないっ」


「ああ、また言い争いを……」

 アルがうんざりと二人を見、せっかくエレンといい感じだったのに台無しだ、とぼやいた。

「あれでは絶対にフィルは落とせないわね」

「? そういうものか?」

「そういうものよ、本当、その辺も進歩がないのね、あなた」

「……」

 情けない顔をしたアルにエレンは声を立てて笑い、アルもつられて苦笑した。

「だが、それ、教えてやった方がいいのかな?」

「アレクも可愛いが、弟子も可愛い?」

「だって、フィルはアレクが好きなんだろう? せめてフィルがティムの気持ちに気付かないと公平じゃないような気も……うーん、そうなるとやはりアレクが男の子で、今おまえのために頑張っているということぐらいは」

「――駄目よ」

「……」

 爽やかに、けれどきっぱり言い切った妻の顔をアルは思わず見つめる。

「二人にはせいぜい苦労してもらわなくては」

「エレン?」

「二人だけじゃないわ、フィルに近づく男は皆そう」

「え、ええと、エレーニナ、さん?」

「当たり前よ、私の可愛いナイトを盗ろうというのだから」

「私の、ナイト……は俺では?」

「それはそれ、これはこれ。ああ、本当、理想に育ってきたわ……」

 フィルを見てうっとりするエレンに、アルは「だから女の子だぞ」と諫めを漏らす。そんな彼にエレーニナは再びにっこり微笑んだ、「だからこそよ」と。

 大体その為に、と愛しの妻はテーブルをドンと叩いて胸を張った。

「フィルが鈍いのもずれているのもわざわざ放置しているのよ」

「……いくらなんでもひどくはないか、それ……」

「体術を仕込んだのだって、フィルが自分の身を守れるようにというだけじゃないの。必要に応じて相手を痛い目にあわせられるように、よ。目の前に愛しい、可愛い子がいて手を出せない、誘惑に負けて同意もないまま手を出せば瞬殺。不届きな男にはこの上なく素敵で魅惑的な罰よね、いい気味だわ」

「いや、それも大概……」

 思わず上げた非難に極上の笑みを返されて、アルはがっくり肩を落とした。黙ってなさいってことだ、これは、と。



「うるさい、この鈍感!」

「頭の軽い奴に何を言われたって痛くもなんともないっ」

 相変わらず言い合いを続ける二人に、アルが大人気なく、半ば八つ当たり気味に雷を落とす――それもエレンには見慣れた光景だ。

 アルに怒られてむくれる孫娘を見、エレンは目元を緩めた。

 大事な、大事な愛しい子。あの子のもきっと楽しい恋の話になる。その時私たちがあの子を見ていられるかどうかはわからないけれど、と遠い未来に思いを馳せる。

 少し寂しいけれど、それはそれで素敵なことのような気もした。いつか再び出会うことができたら、私のかわいい、かわいいナイトとその時は女の子同士の内緒話をすることにしましょう。そう決めたら、楽しみにすらなってくる。

(散々私も惚気たのだもの、フィルの惚気話だって聞いてあげるわ、公平に、ね)

 東からひと際強い風が吹いて来て、周囲から花びらが舞い上がった。

(だから――あなたも頑張って)

 その方向、遥か彼方のカザレナにいるフィルの想い人を思って、エレンはにっこり微笑んだ。


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