6-15.自覚
「好き、な人……」
――とは?
その人が何を考えているか、しているか気になり、笑ってくれると幸せな気分になり、一緒に居ると嬉しいような苦しいような気持ちになり、ずっと一緒にいたいと思ったり、自分だけを見て欲しいと思ったり、側にいて触れていたい、側にいて触れて欲しいと思ったり……という感じの相手のことらしい。
ただし、そういう相手を見つけて運良く相手もそう思ってくれたとしても、世の中はそれだけではすまないという。
世の中はやはりフィルが考えるよりずっと難しく出来ていた。
花祭りの最終日に久しぶりに会った兄は、まるでフィルの悩みを見透かしたかのように、何か困ったことが無いか、あれば相談に乗ると言ってくれた。
だからアレックスのことを話してみたのだ。彼が側にいると落ち着かなくなって、触れられると体がざわざわぞくぞくする、と。でも嫌いな訳ではなくて、それどころか自分は彼と一緒にいたいようだ、と。
聞いていた兄はフィルが困るくらい赤くなって、口に手をあて何事かを呟いた。「それは官能的と言うかなんと言うか……」とかなんとか。
「カンノウテキってなに?」
聞き返したフィルを睨むと、兄は「知らなくていい」とにべもなく言い、「今フィルが幸せだとしても、やはり僕たちが色々間違えたことには変わりはないんだね……」と嘆息した。
(……これ、いつものだ)
これまでの経験から、こんなふうに独白モードに入った兄はこちらの質問を受け付けてくれないことをフィルは知っている。だからその後しばらく一人で黙々とお茶を飲んでいた。
「何をどう教えればいいのか」とか、「普通なんとなく友達とか侍女とかから知る物じゃないのか」とか、「お爺さまもお婆さまも一体何を……」とか、とにかく彼の独り言はいっぱい。
あまりに苦悩する兄の様子に、まずいことを言ったのかと後悔が頭を過ぎったけれど、今更どうすることも出来ない。フィルは仕方なく、ひどく美人な兄の顔をこの機会にきっちり鑑賞することにした。ちなみにその感想はこうだ――自分と彼は絶対に性別を取り違えて生まれてきたに違いない。
その後さらにしばらくして、ようやく現実に戻ってきた兄は、「いくら何でもこの役はむごい」と、いつも優雅に笑っている彼にしては珍しく頭を抱えつつ、それでも諭すようにフィルに説明してくれた。
その要約はこうだ――兄が考える定義に当てはまるアレックスは、フィルの「好きな人」なのではないか。そして、好きな人と触れ合いたくなるのは自然なことで、だから今フィルに起こっていることはおかしなことではない。
「好き、私が、アレックスを……」
思わず呆然とした。
祖母がよくその手の話をして祖父とのことをのろ気ていたし、祖父はいつもいつも隙と暇さえあれば祖母を抱きしめていて仲良しだったが、まさかそんなことが我が身に降りかかる時が来ようとは……。
「……」
そりゃあもうめちゃくちゃ驚いたが、おかしくないと言われてほっとしたのも事実なら、納得したのもまた事実だった。
「そう、なんだ……好きなんだ……」
なんだかちょっと照れて、今日部屋に帰ったらどうしていいかわからなくてやっぱり困るんだろうな、と赤くなったところで、兄はさらにこんなことを告げた。
「あのね、フィル、多分フィルはそういうこと、つまり男女の間柄に関することついて、その歳で知っているべき常識を知らないと思うんだ」
「常識……」
「だって、僕に指摘されるまで好きだという自覚もなかったんだろう……?」
「う」
優しい兄に困ったように言いにくそうに言われて、顔を引きつらせる。
「だから何をするにつけ、慎重になりなさい」
「慎重に、って言われても」
戸惑いいっぱいに、何をどうすれば、何が良くて何が悪いのか、と訊いたら、兄は再度苦悶を顔に浮かべ、今度はアレックスについて訊ねてきた。「彼はフィルが実は女性だと知っているのかい?」と。
「……あ」
(わ、忘れてた……。にゅ、入団後しばらくは気にしていたけど、ここ最近きれいさっぱりすっかり)
「フィル……」
頬をひくつかせたフィルに兄はすべてを察したらしい。目にも名を呼ぶ声にも『信じられない……』という含みがあって、ざくざくっと突き刺さった。
「あ、で、でも大丈夫です。アレックスは私が女性だと知っても、騎士団から出て行けとは言わないと」
「そ、れも問題かもしれないけれど、そうじゃなくて……」
慌てて自己弁護に走ったフィルに、今度は兄が顔を引きつらせた。
「あのね、フィル、その、世間では同性しか好きじゃない人もいて……だから、そうじゃなかったら嫌われる場合もある、らしい……のだけれど」
「同性しか好きじゃない……?」
(それはつまり、本当は女だって知られたら嫌われるかもってこと……?)
フィルは唖然として兄を見つめた。直後に泣きそうになる。好きだと自覚した直後にそれはいくら何でも残酷すぎる。
「う。い、いや、まだそうと決まったわけでも……と、とにかく、その彼はどんな人なんだい?」
彼らしくなく慌てた声の慰めに、余計落ち込んだ。
だが、衝撃はそれだけに収まらなかった。
その後もぽつぽつと兄に訊かれるまま答えていて、ふと思い出して「そういえばアレックスはフォルデリークという大きな貴族の家の出で、正式にはアレクサンダーと言うらしいです」と言った瞬間。
兄は目を見開いて静止した後、「気にしていなかったの、フィル……」と呻き、深刻な顔で何かを考え込むように黙ってしまった。
「なに、兄さま……?」
長い沈黙に、さらに何かがまずいらしいことを知って新たな不安に襲われた。
背後から祭りの最終日に沸く町の喧騒がおぼろげに流れてきて、それが遠い別世界の出来事のように思えてくる。
「フィル、父さまに家に戻れるように頼んでみようか……?」
硬い調子で発せられた兄の声と何かを探るように向けられた視線。
「え……」
(家に戻る……? アレックスとそれに何の関係が、)
「っ」
そうしてフィルはさらなる自分の間抜けさと能天気さを悟った。
父親にすら呆れられて勘当されたフィルと、大きな貴族の家の子であるアレックス――
(そう、か、私じゃアレックスの側にいられないかもって兄さまは心配してるんだ……)
そして、それはこの兄がこんな顔で危惧をする程度には深刻なことなのだと初めて思い至った。
(どうしよう……)
先ほどの少し気恥ずかしい、ふわふわした感情が、途端に重い物思いに変わった。
これまで隠してきた性別と素性、それらがこんな風に自分に対峙してくるなんて思ってもみなかった。
春の陽だまりの中にいるというのに、四肢が冷えていく。
(女だとアレックスに正直に言う……? 嫌われるかもしれないのに? あと、ザルアナックって家の出身だって……)
――言えない。
フィルは膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。
いくら不釣り合いだと言われたって言えない。名乗るなと言われているし、何より実の父に呆れられて勘当されたなんて、絶対に言えない。アレックスにだけは親にそんな風に思われてるって知られたくない。
(実の父親に目の前でいらないって断言されたと知られて、アレックスにまで軽蔑されたら――)
「……」
伏せた視線の先で、白くなった拳が小さく震え出した。
「フィル、その、アレ、ックスだったっけ? 彼は……」
同じように何かを考え込んでいた兄に声をかけられて顔を上げると、目の合った彼は困ったように苦笑した。その表情に、フィルは今自分がひどく情けない顔をしているのだと悟る。
「……何、兄さま?」
今度は何を言われるのだろうと不安になりながら返した声は、微妙に掠れていた。それで余計情けなくなる。
「……いや、やっぱりいい。大したことじゃない」
「でも」
これ以上は怖い、聞きたくないと思う一方で、不安に駆られて兄の真意を追求してしまう。矛盾にフィルは胃の腑を押さえた。
「……」
そんなフィルをじっと見ていた兄は数拍後に口を開いた。そこから音が聞こえてくるまでの時間をひどく長く感じて……。
「僕の望みは、たった一人の妹にそんな顔をして欲しくないってことなんだ」
「…………へ?」
突然変わった話題と口調、そして「幸せでいてほしいんだよ」とにっこり笑う彼に目を丸くした。
(え、ええと、時々不思議な人ではあるけど……一体なに?)
多分顔も引きつったのだろう。それを見て兄はくすくすと笑い声を漏らし、ますます楽しそうに微笑む。
「…………」
唖然として口を開けるフィルへと、テーブルの向こう側から白く、たおやかな手が伸ばされた。
「わ」
兄はその見た目に本当に似つかわしくない乱暴な仕草で、フィルの頭をわしゃわしゃっと撫で、髪をぼさぼさにした。
祖父が良くやってくれた仕草とまったく同じことに気付いて、期せずしてフィルの口からも笑い声が漏れる。
「そうやって笑ったところで、フィル」
微笑んだまま兄は続けた。
「さっきの話だけど、フィルが出来ると思う範囲で、彼、アレックスに話をしてみるといいよ」
「……」
返す言葉に詰まったフィルに、兄は「僕の妹は前向きが信条だったはずなんだけど」と茶化すように言い、そして、「――多分大丈夫だから」となぜか寂しそうに笑った。




