6-12.痺れ
自室の前で軽くためらった後、フィルは恐る恐る扉を叩いた。しばらく待っても応えがないことに、戸惑いと怯えを覚えてさらに逡巡する。
(もう寝ちゃってる、とか? ……というか、私の部屋でもあるのに、改めてノックすること自体奇妙だよね)
やっぱりなんだか色々おかしい。そうため息をつくと、フィルは意を決してそっと扉を開いた。
部屋の中は真っ暗だった。
「アレックス……?」
奥に進むにつれ、闇に目が慣れていく。彼は予想通り既にベッドに横になっていた。
やはり寝てしまっていたという安堵を半分、起きて待っていてほしかったのに、という理不尽極まりない寂しさを半分抱えて、フィルはアレックスのベッドにおずおずと近寄る。
窓から差し込む半月の光が、彼の冷たいまでに整った寝顔を照らしている。知らず息を殺し、その顔を見つめた。
(……髪まっすぐでさらさらだな、睫毛、長い)
その下の瞳は、今は閉じられていて見えない。綺麗な、綺麗な青色の瞳だ。フィルがずっと追いかけてきた人と同じ色の。
(あの目は、やっぱり王女にも向けられるんだろうか……)
――自分に対していつもそうであるように、優しく弧を描いて?
「……」
そう思いついた瞬間、眉根が寄った。頭を撫でてくれる手も、頬に触れてくれる指も、自分だけのものではなかったのだろう。
穏やかに結ばれた唇で視線が止まる。あの間から出てきた言葉で、フィルは何度も救い上げてもらった。ああいう温かい思いやりと気遣いはきっと彼女にこそ……。
「……っ」
それだけじゃない、あの唇で何度も彼女に触れたのかもしれない。その光景を想像してしまったら、ぎゅっと心臓が縮んだ。
(いや、だな……)
吸い寄せられるように手が伸びた。
(なんで震えてるんだろう……)
自らの指先をぼんやりと視界に入れ、ふと不思議に思う。そうして指に彼の吐息の熱を感じた刹那、視界が反転した。
アレックスの身にかかっていたタオルケットが空を舞い、ゆっくり床に落ちる。
両手がベッドに押さえつけられ、下腹部に自分よりはるかに大きな体躯が跨っている。
そして、目の前には今まで見たこともないほどに厳しい、アレックスの険しい表情。
「……あ」
そのすべてに身を強張らせた。
「…………フィル?」
目を数回瞬かせたアレックスに、呆然としたように名を呼ばれた。
「……一体、何、を……」
「……」
びっくりしたのは同じだ。なんとか口を開いたものの、声を出すことも出来ない。
心臓が壊れそうなまでに速く鼓動しているのは驚いたせいなのだろうか、それとも――。
「……」
どこか物言いたげなアレックスは、けれど無言のままこちらを見つめている。
暗闇の中でなお輝く青い瞳はやはりとても美しかった。状況も何もかも忘れて、フィルはまるで魅入られでもしたかのようにそれを見つめ返す。
自分の異常に速い心臓の音だけが聞こえて、その激しさがアレックスの耳に届いているのではないかとひどく気にかかる。
「フィル」
もう一度名を呼ばれ、痛いほどに心臓が縮んだ。じっと見つめられ、全身が痺れていく。
ゆっくりとアレックスが近づいてきた。闇に溶け込むような彼の黒髪が自分の額に触れた。熱い息が唇をくすぐる。
「……」
そして、温かい感触が柔らかく降った。
(……い、ま……)
息をすることも忘れ、フィルは離れていくアレックスの顔を見つめる。
「アレ、ク、ス……」
空気を求めて開いたはずの唇から、意識もしないのに彼の名が漏れた。それで我に返ると、突然思い当たって目頭を熱くした。
「こ、こんな風にした、の……」
情けないと思うのに、音も涙混じりになっている。
(こんな風に『彼女』に優しく触れた……? こんな風に『彼女』を切なそうに見つめて……? こんな風に『彼女』の近くで……?)
視界が滲んできた。眉も口の両端も下がってしまう。
(どうしよう、そんなの嫌だ……だって苦しい――)
「……?」
怪訝そうな顔をしたアレックスは、けれど、次の瞬間ひどく幸せそうに微笑んだ。そしてもう一度、啄ばむような口づけが唇に落ちる。
「していない」
「だって……」
続く言葉を紡ごうとする間にも、口に、目蓋に、頬に、額に、顎先に、髪に、雨のようにキスが降る。優しく、大切な壊れものを扱うように丁寧に、宥めるように何度も、何度も、繰り返し。
それから鼻先が触れ合うような距離で、彼はフィルをじっと見つめて口を開いた。
「フィルだけだ」
「…………うん」
その一言で自分でもおかしく思えるほどの安堵が生まれて、息を吐き出す。その拍子に涙が零れた。
それをアレックスがどこか辛そうな表情をしながら唇で拭ってくれる。それからもう一度ゆっくりと口づけを受けた。
重なった唇から伝わってくる熱の感触が、ひどく甘い。上にいる彼から伝わってくる呼吸の音と鼻腔に届く香りに、意識を飲み込まれそうになる。
「アレックス……」
特に意識もせず彼の名を口にすれば、その音が自分の耳に入る。確かに自分の声のはずなのに、そこには何かを求めるような、馴染みのない色が含まれていて、そのせいか心も体もますます痺れていった。
就寝中にそっと近寄ってくる気配――過去にもこんな経験は何度かあって、半覚醒の状態であっても体は勝手に反応するようになっていた。
今の気分はただでさえ最悪。二度と馬鹿な考えを起こせないだけのことをしてやろうと不穏なことを思い、相手を手荒に組み敷いたところで息をのんだ。
暗がりに慣れた目に入ったのは……見慣れた緑の瞳。
自分の下で驚いたようにこちらを見つめるその視線は、焦がれてやまないのにいつも腕をすり抜けていく、アレックスにとって何より理不尽な人のものだった。
ついに幻覚を見るまでになったかと呆然とした瞬間に、艶のある唇から微かな音が漏れる。
「…………フィル?」
(本当にフィル、か?)
何度も目を瞬かせたが、確信できない。
「……一体、何、を……」
知らず零れ落ちた問いに、彼女が喘ぐように口を開く。が、そのまま閉じてしまった。
物言いたげな表情と、闇の中でなおわかる瞳の潤み。そして、押さえつけた腕の華奢な感触と、体の下から伝わってくる熱、何より誘われているとしか思えない香りの甘さ……。
「フィル……」
今度こそ抗える気が全くしなかった。
完全に停止した思考をそのままに、ただ惹き寄せられるまま、焦がれ続けたその場所へと唇を寄せる。
(どうか拒絶しないでくれ――)
切実な願いゆえに、その瞬間までの時間をひどく長く感じた。
(受け入、れられた……)
触れ合ったその場所はそうとわからないほど柔らかで、甘く、麻薬のようにアレックスの体と心を痺れさせた。
言い様のない感動を覚えて、フィルの表情を確認しようと顔を離す。だが、その顔が泣く寸前になっていることに気付いて息が止まった。
「こ、こんな風にした、の……」
間近で響いた涙声に露骨に動揺して、一拍後に言葉の不可解さに気付いた。
(……こんな風? ……ああ、そういうことか)
つい微笑んでしまった。妬いてくれているのだろう、儀式で額に落とされただけのセルナディアのキスに。
「していない」
「だって……」
その嫉妬が愛しくて、彼女がついに自分を受け入れてくれたことが嬉しくて、口に、目蓋に、頬に、額に、顎先に、髪に、雨のように唇を落とす。
それから、ごく間近で彼女の瞳を覗き込んで口を開いた。
「フィルだけだ」
「……うん」
それ以外なんてある訳がないのに、と微かな苦笑を交えて告げれば、フィルは目を見開いた後、ほっとしたように微笑んだ。その拍子に右目から雫が滴り落ちる。
「……」
その瞬間、体の奥底から強い欲が湧き上がった。自分でも驚くような衝動を、ようやく安堵したフィルに悟られたくない。
アレックスは彼女の視線から隠れるようにその雫を自らの内に取り込む。それから確かめるように、もう一度ゆっくりと唇を重ね合わせた。
「アレックス……」
澄んだ声で名を呼ばれ、その目線と音の甘さに溺れていく。
自分の下にある柔らかな体、潤んだままこちらを見つめる瞳、全てを預けてくるような微笑――何度も何度も角度を変えて、時折瞳を見つめては、啄ばむように唇に触れる。
この八ヶ月間、いや、九年間望み続けた唇に、フィルにやっと触れている――その事実を確実にしようと、数え切れないほどのキスを彼女の顔中に落とす。髪を梳き、頬を撫でて、彼女が手の内にいることを確かめる。
その度に体の奥底から湧き上がる衝動に確信してしまう。
きっともう引き返せない、一生彼女から離れられない。誰にもフィルを渡したくない。渡せない。渡さない――。
「フィル」
少しだけ身を起こすと月明かりの中で名を呼び、彼女の表情を見て怯えていないことを確認した。
(自分のものにしたい)
その衝動に誘惑されるままにもう一度軽く唇を合わせ、柔らかいそれを軽く舌で撫でる。
「っ」
びくり、とフィルの体が震えたのを感じた瞬間、陶酔感が広がった。生じた隙間に、舌を侵入させると歯列を割り、彼女のそれに絡ませる。
フィルの体が自分の下で再び跳ねるのを感じて、怯えさせないように可能な限り優しく押さえつけた。
感じるのはその体液の甘さ――それにますます体の芯が痺れていく。
口蓋を舌でなぞった瞬間、合わされた口の隙間から小さな声が漏れて、歯止めは効かなくなった。
組み敷いたままの体が徐々に熱くなり、小刻みに痙攣する。熱に浮かされたような彼女の吐息の音が時折漏れ、湿った水音が静かな室内に響く。
長いキスを終えて顔を離すと、透明な糸が二人の間に落ちた。
上気した頬、熱に潤んだ目、とろんとしたどこか空ろな表情、半開きのまま濡れて光る唇、そのすべてに煽られる。
(……スベテウバッテシマイタイ)
「フィル」
体内に駆け巡っている激情を悟られて怯えさせないよう、細心の注意を払ってその名を呼んだ。
再度軽くキスをすると、答えるようにフィルのそれがこちらの唇をついばみ返す。
「アレックス……」
無意識なのは表情を見ればわかる。ぼんやりとした、なのに艶を含んだ声からも。だが、いや、それゆえに理性が効かなくなった。
闇に浮かぶ、白い首筋に顔を寄せてキスを落とすと、彼女は小さな声を立てて背をのけぞらせた。




