6-10.誓い
礼装として用いられる正装の制服に着替えたフィルは、観衆の歓声と視線を一身に浴びながら、闘技場中央に立った。
(……去年のアレックスもこんな感じだったのかな)
あちこちから名を呼ばれ、ねぎらいの声に応えるべく、手を振る。
そうして国王陛下と『王女殿下』の到着を待ちながら、フィルは沈んだ面持ちで長々と息を吐き出した。
あの後、『優勝した、ちゃんとやれた、騎士団の役にも立てた』という興奮のまま、フィルは通路で待っていてくれたアレックスに抱きついた。一瞬硬くなった彼は、ゆっくり息を吐いてから軽くフィルを抱き返し、宥めるように背を叩いてくれた。そして、「よくやったな」と笑いかけてくれて、そこにカイトとヘンリックがやって来た。
二人はなぜか驚いていたようだが、ヘンリックは一瞬にして立ち直り、「あー、うん。そうじゃないかと思ってたし」と不思議なことを言い、カイトの方はそれを受けて形容し難い顔をした。
気になってアレックスに目で尋ねたが、彼は「気にするな」と言う。 まあ、アレックスがそう言うなら多分大丈夫なのだろうが、相変わらず世の中は複雑だ、と思った。
そうして戻った控え室には、今日休みの同期たちがいて、口々に「良くやった!」「圧勝だったな」「お前、相手とほとんど剣合わせてなかったじゃん!」とか言う彼らにもみくちゃにされた。呆れたポトマック副団長が止めてくれなかったら、酒を浴びせかけられるところだった。
その後も興奮気味に試合を語る仲間たちに囲まれて、フィルも機嫌よく相槌をうっていたのだが、「いいなあ、セルナディア殿下のキス」という誰かの呟きで、素に戻った。
彼らによると、剣技大会優勝者には王女さまの花冠が、祝福の口付けと共にもれなく授与されるらしい。そして、その王女さまはあのセルナディア(……敬称をつけたくない)だという。
「げ」以外の言葉がなくて固まったフィルに、「本当に何も知らないんだな」と口にしたエドワードがさらに色々教えてくれた。
なんでも、去年もその前もその前の前もさらにその前の前の前も、優勝者はアレックスで、祝福を授けた相手はセルナディア王女だったそうだ。で、「内緒にしておかなきゃいけないからなんだろうけど、実は恋人なんだってさ」と……。
わかっている、それがエドの親切心だということは。現に彼はアレックスにも他の人にも聞かれないように、「そんな話が出ると、アレックス、また敬遠されちゃうから、あんま声高に言うのはなしな。でもお前は知っといた方がいいだろ、相方なんだし」とわざわざ小声で教えてくれた。
(アレックス、セルナディア王女、口付け、恋人……)
そんな単語が頭をぐるぐる回り出して、急に気分が悪くなった。
「えーと、そろそろ着替えてくる」
誰にも気づかれたくなくて、フィルは騒ぎ続ける同期たちを残して、そそくさと別室に入った。ポトマックと共に部屋の隅にいるアレックスの方を敢えて見ないようにしながら。
そして、のろのろと着替えてぼんやりしていたら、係りの人に闘技場へ入るよう言われて、今に到っている。
「……」
フィルはぼうっとしながら、そびえるように周囲を取り囲む観客席の向こう、丸く切り取られた空を見上げる。
(何も考えないほうがいい。考えたらきっと動けなくなってしまう……)
なんとなくそんな気がした。
一際大きな歓声が上がって、すぐにそれはざわめきに変わった。
足音が聞こえて、小さく眉をひそめつつ顔を向けると、威風堂々としたカザック国王らしき人の背後に、若草色のドレスに身を包んだ少女の姿があった。
「あ」
(ナシアだ)
それが先日知り合った彼女だと気付いて、フィルは一転、顔を綻ばせる。
ナシアが自分を祝ってくれることももちろん嬉しいけれど、今はあのセルナディア王女の顔を見なくてすんだことが何より嬉しかった。
(……ん?)
だが、彼女の小さな顔が泣きそうに歪んでいるのを見つけて、フィルは目を見開いた。彼女の護衛騎士である横のアーサーの顔も曇っている。
怪訝に思って小声で「ナシア?」と呼びかけると、傍らの国王陛下の片眉が跳ねあがり、彼女の手を引くアーサーが顔を引き攣らせた。当の本人のナシアは、フィルに半泣きの笑いを返してくる。
「? ……なんだ?」
そこでフィルは初めて場内の異様さに気付いた。ざわざわとしているけれど、先ほどまでと違って、何かに浮かれて騒いでいる感じではない。
フィルが陛下から言葉を賜る間もそれは細々と続き、それに比例してナシアがますます俯いていく。だが、垂れた頭を大っぴらにあげることもできなければ、ナシアに話しかけられる場面でもない。
やっと陛下の話が終わった。赤いじゅうたんの上に設置された椅子からナシアが立ち上がると、そのざわめきは一層強くなった。そのせいなのだろう、花冠を両手に抱え、フィルへと近づいてくる彼女は蒼褪め、今にも泣き出しそうだった。
「フィル、ごめんなさい」
ごく側まで来た彼女は、やっと聞き取れる程度の涙声で口を開いた。
「わ、私、私、フィルが戦って自分の場所を作っているのを見て、お祝いしてあげたかったの。でも、逆に恥をかかせることになってしまったかも……」
「ナシア?」
目に涙を溜めながら呟くナシアを、フィルは頭を垂れることも忘れて見つめてしまう。
「私、あなたみたいに強くて奇麗な女性になりたかった。でも……」
(女性……ばれていたのか)
見開いたフィルの目に、目の前の小さな少女がはらはらと滴を零す光景が映る。
(ああ、でも、そんなことはきっと大した問題じゃない――)
先日、花祭りで知り合ったこの少女は、とても聡く優しい人だ。
だが、彼女は王宮に居場所がないのだとアレックスが教えてくれた。彼女の母親の身分が高くなく、しかも亡くなって久しいのだという。血が繋がっているはずの父王や兄姉からの庇護も受けられず、それゆえ皆から忘れ去られている、と。
それでフィルは少女が何かにつけて怯えたように周囲を見ていた理由を理解した。
自分が何者か、どこにいるべきかわからないのは、とてもつらい。それはつい一年前のフィルにも覚えがある感情で、しかも今なお消えていない。だからこそフィルはそれをどうにかしようと毎日必死なのだ。
だが、今ナシアは、フィルのようになりたい、と言ってくれた。その言葉にフィルが一瞬泣き出しそうなったことを、その言葉がこの一年をいかに誇りあるものにするかを、いかにこの先のフィルを勇気付けるかを彼女は知っているだろうか――。
「……」
フィルは胸いっぱいに息を吸い込んだ。
ならば、と思う――彼女がくれたその勇気を彼女にも。
フィルは相変わらずざわついている周囲を無視して、彼女へとにっと笑いかけた。
片膝をついた状態から後方へとゆっくりと立ち上がると、右手で腰の剣を引き抜き、左手で剣身を支えて、地面と水平になるように捧げ持つ。
緊張して走ってこようとするアーサーを国王が静止するのを視界に入れながら、フィルは再び膝を落とした。
(ええと、確か謡い出しは……)
「その輝ける瞳は凍れる闇を払い、
その微笑みは妙なる命をはぐくむ。」
馴染みのある自分の声が、透き通った音楽となって、静まり返った闘技場に朗々と響いていく。
「その歌声は静なる死を悼み、
その息吹は新しき生を寿ぐ。」
祖母が節をつけた創世紀の一節だ。フィルに謡い教えながら、彼女はいつも『何かを誰かに伝えたいと願って謡うのよ』と言っていた。
「春のナシュアナシスよ、御身に我が全てを捧げよう。
願わくは生あるすべての強なる礎とならんことを。
願わくは生あるすべてに妙なる祝福のあらんことを。
願わくは汝らのその生に永久なる幸福のあらんことを。」
届くといい――一緒に前に進もう、ナシア。諦めなければ、きっとその先に自分の居場所は見つかる、そう信じよう。
沈黙の帳に包まれた会場の隅々に、残響が溶け込むように消えていった。
驚いているのだろう、年相応のあどけない顔を取り戻した少女と目を合わせた。
「ナシア、一緒に、だったらもっと頑張れると思いませんか?」
「……っ」
一際大きくなった彼女の目から大粒の涙がぽろりと零れ、クシャリとその可愛らしい顔が歪んだ。
それから涙を途切れさせないまま……彼女は笑った。春の女神に似せてナシュアナの名をつけた人は、彼女がこんな風に成長することを祈ったのではないか。そう感じさせる、少女らしい、けれど気高い表情で。
ナシアがフィルへと歩んできて、頭に花冠を乗せてくれる。そして、剣を支えるフィルの両手に華奢な手を添えた。細かい震えが指先から伝わってくる中、彼女は深呼吸してから、口を開く。高く透き通った声がその唇の間から流れ出した。
「我がいとし子、ウルニオスよ、
汝に永久なる誉れ、そしてひとたびの安らぎを。
願わくは悠久なる時の果て、再び会い見えんことを。
我が涙と約定をこの花に換えて。」
最後に口付けがフィルの額に落ちると、悲鳴と怒涛のような歓声が場内に轟いた。続いて祭りを象徴する色とりどりの花びらが、雪のようにその色を舞い散らせた。
* * *
(忠誠の儀、か。本当に師に生き写しだな……)
ポトマックは表彰式の行われている闘技場中央を会場端から眺め、懐かしさに目を細めた。
その儀式自体は新しいものではない。古くは文字通り主君に忠誠を捧げるものであったらしいが、近年ではもっぱら私的に、特に騎士の求愛に用いられていて、年頃の少女たちの憧れとなっているという。
忠誠か求愛か、はたまた他の何かかは、儀式で用いられる応答の内容によるが、フィルとナシュアナ王女の場合――創世神話の一節――はその通り忠誠と解釈されるだろう。
冬の神に囚われた春の女神ナシュアナシスを創世の英雄ウルニオスが助け出した後の場面、今にも事切れんとするナシュアナシスの命を、ウルニオスが自らの生を捧げて救う行だ。復活後すべての生命を蘇らせたナシュアナシスはウルニオスの死を悼み、悲しみの涙が春の終わり、ちょうど花祭りの時期に散るスフリの花となったと言われている。
花祭りはナシュアナシスの再降誕、すなわち命の再生を祝うと共に、ウルニオスの犠牲に感謝する祭りでもあるのだ。
時節柄もよし、対象の王女殿下の名がナシュアナというのもはまっている。加えて伝えられるウルニオスの容姿はちょうど金髪緑眼、フィルそのものだ。
剣を鞘に収めたフィルがにっと笑って王女を抱えあげると、王女は心底楽しそうに笑い声を漏らして、フィルの首筋に抱きついた。そしてそれに応じて観衆はますます熱狂していく。色とりどりの花びらがまるで雪のように会場を埋め尽くしていく。
笑い続ける茶目っ気のある表情が、やはりウルニオスの再来と言われていた師のものに重なって、ポトマックは強烈な既視感を覚えた。
(そういえば、師は相当なロマンティストだったな……)
稽古の合間に詩を口ずさみ、酔えばいかに妻となった旧公爵家の娘を口説いたか――アエインの恋愛詩で求愛の儀を行って射止めたらしい――を語っていた。
奥方も彼に応じるかのように文学と音楽をこよなく愛した方で、よく『新作だ』と言って二人で新たな剣舞を作っては遊んでいた。フィルは間違いなくその影響を受けているのだろう。
フィルに向けられる声に高い音が多いことを感じ取って、ポトマックは安堵の息を吐き出す。
(これでフィルを女性ではないかと疑う者は、一時なりと減るはずだ)
確かに中性的な容姿ではあるが、長く一緒にいれば他と性別が異なると気付く者がどうしても出てくる。
カザックでは未だに女性の地位は高くない。金銭的にゆとりのある者であれば一夫多妻は珍しくないし、女性は家庭で慎ましく過ごすことが好ましいとされていて、公職に就く女性も商売などで責任ある立場に立つ女性もほとんどいない。
団規も法律も騎士団への女性の入団を禁じてはいないが、それゆえ今の状態でフィルが女性だとばれ、かつあのアル・ド・ザルアナックの孫だと公に知られれば、降りかかる災厄は一段と増すはずだ。
(そうなる前に、)
「……」
ポトマックは、すぐ横で闘技場から引き上げてくるフィルを苦笑して眺めている自らの弟子へと目を向けた。
(……何とかするといいが)




