6-7.影
本来盛り上がるはずの会場は、静まり返っていた。
優勝候補の筆頭と目されていた近衛騎士、サヴォン子爵家の嫡男が、開始から数秒でフィルに剣を弾き落とされて破れた。瞠目する本人と審判に向けて優雅に一礼すると、フィルはまるで何事もなかったかのように、控え室に続く通路へと戻っていく。
静寂に小さなざわめきが続き、次いで一般席を中心に地が割れるような歓声と、賭けに敗れた者の罵声が巻き起こった。
対照的に貴賓席には沈黙と戸惑いが広がっている。
「……何かの間違いじゃないのか」
「き、きっと油断なさっただけですわ。メヌエールさまが平民ごときにそう簡単に負けるわけがありませんもの」
「開始の合図の前に不意打ちにあったとか」
「ああ、嫌だ。いかにもありそうなこと」
どこまでめでたいんだ、とアレックスは乾いた笑いを口の端に乗せた。
自分の都合のいい世界を自分で作り上げ、そこに合わない事実は無視。その世界を邪魔する存在は絶対的な加害者で、被害者の自分にはそれを糾弾する権利がある――そんな思考の人間の一体どこに“貴さ”があるのか。
フィルの父であるザルアナック伯爵が大会の観覧に来ると聞きつけたアレックスは、聞こえてくる貴族たちの会話を内心で痛罵しながら、最後部から伯爵の横顔を注意深く窺う。
フィル・ディランの名が会場に響くと同時に、伯爵は閉じていた目を開け、苦い物を噛んだかのように顔を歪めた。すぐに平静な顔に戻ると、黙ったまま睨みでもするかのように娘を凝視する。
対するフィルの方は父親を見ようともしなかった。まっすぐ背筋を伸ばし、隙も無駄も一切ない足取りで定位置につくと、歓声に応えて四方の観客に手を振るメヌエール・ゼーバ・サヴォンを微動だにせず待っていた。
そして、開始直後の彼女の勝利。
勝って当たり前という態度のフィルと同様、彼女の父親の表情にも一切の感情が見えなかった。今現在も周囲の貴族仲間が娘に向けている中傷に、眉一つ動かしもしない。
(……あまり似ていないな)
彼の髪も元は金色だったのだろうが、今は白が混じってくすみ、目の色も明るい茶色をしている。眉間にはしわが寄っていて、目つきもきつい。ただ近寄りがたい雰囲気だけは、剣を持った時のフィルと同じである気がした。
「珍しいな、お前がこんな場に顔を出すなんて」
声をかけられて特に驚くこともなく、目だけを横に向けた。
「ちょっとな」
アレックスと同じ黒髪青目で、誰もが一目で兄弟と指摘してくるその人が、「最近全然帰ってこなくなった上に、久しぶりに会ってそれか……」と苦笑いしている。
「さっきの騎士、すごかったなあ。知り合いか?」
「ああ」
愛想がない、とぼやく三つ年上の兄は、そのくせそれを気にする様子がない。そのまま話し続ける彼に曖昧に応じながら、アレックスは続く試合を見るともなしに見ていた。
「あの騎士じゃないか」
再びのフィルの登場に会場から大きな喚声が上がった。貴賓席からは忌々しいものを見るかのように呪詛が上がるが、伯爵の表情は動かない。
本当に無感情なのか、それとも貴族社会でやっていく者ならば誰しも持つ自制の賜物なのか。その顔からはそれすらも分からなかった。
彼を見つめるアレックスに気付いたのか、兄スペリオスが身を翻してその方向を見遣った。
「……これまた珍しい。ザルアナック伯爵じゃないか」
そう呟くとアレックスの肩を叩いて促した。
「挨拶に行こう。いい機会だからアレックスもおいで。確かまだちゃんと会ったことはないだろう?」
彼も相当に社交嫌いだからね、とスペリオスは苦笑した。
その顔に、我が兄ながら一部の人間以外には冷淡と言うしかない彼の伯爵への好意を見て取って、アレックスは微かな驚きを覚えた。
「スペリオス、伯爵と親しいのか?」
「ん? あー、今はそんなに。父さんの事業や政治の関係で会ったり話したりするくらいかな。でも、昔は良く遊んでもらったんだよ。本当にかわいがってもらった」
そうして彼が見せた表情もまたアレックスには馴染みのない、複雑な類のものだった。
「ザルアナック伯爵、お久しぶりです」
スペリオスが声をかけた瞬間、伯爵の体はピクリと反応した。同時に、フィルの二回戦開始の合図が響く。その動きからも意識の気配からも聞こえているのは明らかなのに、無表情なまま伯爵はフィルの試合から目を離さなかった。
金属の交わる音が二度だけ聞こえる。
そして、会場は再び怒涛のような歓声に包まれ、貴賓席には対照的な静寂が降りた。
それから伯爵はゆっくりこちらに向き直り、「こちらこそご無沙汰しております、スペリオス殿」と落ち着いた笑みを見せた。声音は低い。
「伯爵、これは私の弟でアレクサンダーです」
明るい茶の瞳が自分へと向けられるのに応じて、アレックスは頭を下げた。
「はじめまして、ザルアナック伯爵。アレクサンダーと申します。以前そちらの別荘でお世話になりました」
そうして伯爵の表情をうかがうと、彼は微かに瞠目したように見えた。
「……ああ、今は騎士団、でご活躍だとか」
はい、と答えつつ、彼の反応を微かな変化も見逃さぬよう探る。フィルと伯爵との間に何があるのか、なぜあのフィルが家族の話題をああも嫌がるのか、それを知りたい。
「今しがた試合に勝ちました騎士と組んでおります」
驚く兄の視線を無視し、アレックスは伯爵の茶の瞳を見据えた。だが期待に反し、伯爵は一瞬の沈黙の後、ただ「そうですか」とだけ平坦に答えた。
スペリオスがザルアナック家と共に携わっている南方との交易について話し始めた。
兄弟の父であるフォルデリーク公爵とザルアナック伯爵は元々近しい。最近は私的な交流は少なくなったらしいが、それでもザルアナック家は先代アル・ド・ザルアナックの影響もあって、明らかに王家やアレックスの実家の側のはずだ。現に彼と話をするスペリオスに警戒している様子は見当たらない。
中々納まらない会場の興奮のせいだろう。ウェズ小隊長に何か囁かれたフィルが首をひねりつつ、中央の闘技盤に再度姿を現した。そして観衆に向かって、戸惑ったような表情とは裏腹な洗練された仕草で礼をする。
一般の観客席から甲高い声がそれに応じ、花が投げ込まれ始める中、先ほどまで胡乱なものを見るようにしていた貴賓席の少女たちが落ち着かなさげに身じろぎし、頬を上気させた。
それを見て、アレックスは思わず苦笑する。
「では、私はこれで。アレックスは……そうか、じゃあまたな。たまには家に帰れよ」
兄が伯爵とアレックスに声をかけて席を立った。
「昨夏南の海では嵐が頻発したとか」
「影響を受けて交易品目が少しばかり様変わりしました。海賊は減ったようですが」
残された二人で当たり障りなく話しながらも、お互いを探るような空気が流れているのは、おそらく気のせいではない。
ふと会話が途切れた。好機と見て核心へ踏み込もうとしたアレックスだったが、伯爵のぼそりとした声に機先を制された。
「あの騎士、は随分と華奢なようだが」
「……」
「それなりに通用するものだな」
「……ええ」
社交用では明らかにない声音とその内容に虚を突かれて、アレックスは素で答えを返してしまった。
『あの騎士』が自分の娘だとアレックスが知っていると気付いていての発言だろう。だが、どんな意図があるのかわからない。
いつもそうするように質問で相手を操って彼の内を探ろうとしたのに、伯爵の茶の瞳に一瞬浮かんだ、種類のわからない激情に言葉を見失ってしまう。
(なんだ、これは……)
「……うまくやっています」
再度素で返してしまったアレックスに、伯爵は小さく息を吐き出した後、皮肉な笑みを零した。
「欲しければ何も欲しないことだ。もしくは、」
拾い集めた花束を係員に渡されて闘技盤を降りたフィルを感情の消えた目で見つめ、伯爵は誰に聞かせるともなく小さく呟いた。
「どこまでも欲するか」
そして、アレックスへ暗さと鋭さを湛えた瞳を向けてきた。
「――君がどちらかを選べるとは思えないが」
「……それは一体どういう意味でしょう」
知らず押し殺したように低まった声に、嘲りととれなくない笑みが伯爵の口元に浮かんだ。こちらの問いに答えることなく、再び視線を会場に目をやる。
「あれにその価値があると思うか」
そして、そう切り捨てるように呟いた。
「あれとは……」
(まさかフィルのこと、か……)
アレックスが目を眇めて口を開くと同時に、ゾンド男爵夫人から伯爵に声がかかった。非の打ち所のない笑顔と所作で夫人に応じ、傍らのアレックスを見事にいないものとして振る舞い始めたフィルの父親を見て、アレックスは息を吐き出す。
「あの、アレクサンダーさまではありませんか?」
「まあ、お会いできて嬉しいです。覚えておいでですか、半年前の夜会でお会いした……」
自分の方にも人が寄って来る気配を感じて、アレックスは席を立つと苦い顔をしつつ踵を返した。
伯爵の態度はこれ以上話すことはないという意思表示だ。あのまま側で食い下がったところで得られるものは何もないだろう。喰えないところはさすが父の友人ということか、と思い至ってアレックスは眉を顰めた。
(……フィル)
人を縫うようにして貴賓席を抜ける途中、アレックスは闘技盤と控え室を繋ぐ通路から視線を感じて顔を向けた。お互い前腕ほどの大きさにしか見えないのに、はっきりと視線が交わる。
直後、「頑張ってるんです、褒めてください!」と書いてある顔で、フィルは嬉しそうに胸を張った。
「…………まったく」
思わず脱力して、結局笑ってしまった。そのアレックスにフィルはさらに微笑み、軽い足取りで控え室へと戻っていく。――そんな彼女がどうしようもなく愛しい。
「……」
アレックスは後方をもう一度振り返ると、仮面を付けて社交をこなす伯爵を見つめる。
そのフィルを手にしようというのなら、あの厄介そうな父親はやはり避けては通れないのだろう。




