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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第6章 花祭り
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6-4.ナシア

 動揺が高じて殺気と化した空気で周囲を押しのけ、人の迷惑も顧みずまっすぐ歩いていったフィルが辿り着いたのは、無意識のなせる業か、尖塔を頂く古びた建物の前だった。

「……図書館」

 幼い頃の数えるほどのカザレナ訪問で、祖父母と共に必ず立ち寄った場所で、国立墓地に運ばれていく祖父をフィルが見送った場所でもある。

 五十二年前の旧王朝と現王朝のカザレナ攻防の戦いの際にも焼け落ちず、大陸最大の蔵書を誇り続けているこのデラウェール図書館は、王権が替わってからは一般にも開放されるようになり、それを目当てにここに移住してくる人も少なくないと聞く。

「……」

 首を上へとめぐらせて、フィルはその威容を仰ぎ見た。それで少しだけ心が落ち着いた。



『本を心ゆくまで読んでみたかったんだ』

 そう祖父は言っていた。

 彼の父は、元は商家の生まれだったという。故あって故郷を追われると同時に農奴へと身を落とされ、そこで村の娘と恋をして生まれたのが祖父たちらしい。

 片田舎の村でただ一人読み書きの出来た彼は、自分の息子たちだけでなく、近隣の子供とその親たちにも文字を教え、様々な話を語り、知識の素晴らしさを説いていたそうだ。その影響で高級すぎて、また身分不相応だと中々手に入らなかった本を、祖父も祖父の兄のマット大伯父も幼馴染たちもずっと焦がれていたらしい。

 そして、それこそが後にカザック王朝の建国王となったアドリオットと共に、旧王権に弓を引いた理由なのだと祖父は話してくれた。誰もが本を読める国にしたいという彼に賭けてみたいと思った、と。

 内戦が終わってからの数年、祖父は毎日ここに通いつめ、夢中で蔵書を読み漁ったという。その話をする時彼はいつもそこで読んだ本の数々がいかにすばらしかったかを、子供のように目を輝かせてフィルに力説した。


 そんな風だったからだろう、ザルアの別邸にある書庫の本棚を前に、祖父は事ある毎に「デラウェール程ではないが、」と口にした。そして、「ここにもいい本がたくさんある」と背後からフィルの両肩に手を置き、それから右手を伸ばして棚の中からその日のオススメを一冊取り出し、フィルに手渡すのだ。

 フィルと祖父母が愛した、別邸の小さな書庫は、周りの人々に今も変わらず解放されているのだろうか。


「……」

 引き寄せられるままに古い図書館の入り口、フィルの背丈の二倍ほどある重厚な扉を押し開けた。普段は女性やお年寄り、子供のために門番が立っていて、その都度開けてやらなくてはならないような扉だ。


 祭りの賑わいのせいか、中はいつも以上に閑散としていた。フィルは静けさの中に漂う、古い本の放つ匂いに目元を緩める。懐かしい、優しい思い出を含んだその香りにまた少しだけ心が落ち着いた。

 さらに奥へと足を進めると、本棚の間の狭い通路にやせた若い男性が立っているのが見えた。

 そういえば療養のために短い夏の間だけ一緒に暮らした兄も、よくこういう古い本の間に埋もれていたな、と微笑む。体力もないし、自分よりも六つも上なのに、夢中になって我を忘れてしまうらしい。慌てて椅子を運んできて座るように言うと照れたように笑っていた、あの優しくて美しい兄は元気にしているのだろうか。

 そうして祖父を偲び、兄を思い出すことで、フィルは脳裏に浮かび上がろうとするアレックスとセルナディア王女の姿を無理やりに押さえ込んだ。


(……変わってない)

「あの」

 天井に備え付けられた窓から漏れ入る静かな光を見上げていたフィルは、唐突に響いた幼さを感じさせる声に振り向いた。

「はい、なんでしょうか」

 十歳より少し上くらいだろうか。アイボリー色の質の良いドレスを纏った少女が、意を決したような顔で、でも少し怯えながらフィルを見上げている。

「も、申し訳ないのですが、上から二段目にある緑色の古い本をとっていただけないでしょうか? 今日はお祭りで司書の方がいらっしゃらないのです」

 少女が指差した方に顔を向けてその背表紙を見るなり、フィルは懐かしさに微笑んだ。

 足元にあった台を持ち上げて棚まで行き、少女の希望を叶える。積もった埃を下で待つ少女にかからないように丁寧に払うと、その表紙を見てもう1度微笑み、そっと彼女に手渡した。

「千年も前の人が書いたものを読むことが出来て、しかも、その感性に今も共感できるなんて不思議なことですよね?」

 嬉しそうに皮製の表紙を見つめていた少女は驚いたように、もう一度フィルを見上げた。澄んだ茶の瞳がひどく美しい。

「お、お読みになったことがおありですか?」

「はい。同時代のミルア戦記も面白いけれど、史実としての価値はそのゾルドアック叙事詩の方が高いように思います」

「わ、私、私もそう思います。で、でも、最近同じ作者のエデン記を読んでいて気付きました。ひょっとしてこの二つは対になっているのではないか、それで……」

 癖のない濃い茶色の髪が、微かな彼女の動きにあわせてさらさら揺れる。最初は怯えているようだったのに、本の話をするうちにくるくる表情が変わり始めて、とても可愛らしい。

 立ち話も疲れるし、それに今は誰かと一緒にいたい。フィルは書架の並ぶ図書館一階の片隅に設置された、小さなかね折れ階段へと彼女を誘った。

 戸惑う彼女ににっと笑って「せっかく人がいないんだから、いつもなら怒られてしまうこと、してしまいません?」と声をかけて、行儀悪く二人でそこに腰を下ろす。


 少女はナシアと名乗った。

 話をするうちに、彼女の文学や歴史に関する造詣はフィルよりよほど上、しかも、尊敬する兄と匹敵するほどであることに気付く。驚いて年齢を尋ねると、レディーへの失礼な質問にも関わらず、彼女はにっこりと笑って十二歳だと胸を張った。

 家族以外とこんなに本のことで話をしたことがなかったせいもあって、彼女との会話は本当に面白かった。

 優しい本の香りと穏やかで静かな空気に包まれて、ほんのひと時とは知っていたけれどフィルは先ほどの嫌な記憶に蓋をする。そして、時間を忘れようと彼女と話し込んだ。



 高い天井に据えられた小さな窓から差し込んだ午後の光が、二人の足元の段を柔らかく照らし出している。

「フィル」

(え……?)

 ナシアとアエインの叙事詩の話をしていたところに唐突に名を呼ばれて、フィルは顔を上げた。

「探した」

 ホールから一階の書庫に繋がるアーチの下。息を切らせながらそこに立ち、こっちを見つめているのは、先ほど自分が衝動のままに置きざりにしてしまった彼だった。

「アレックス……」

 フィルは呆然と彼を見つめた。驚きで目を瞬かせる。だが、その目に映るのも確かに彼だ。

 今日また会えるなんてまったく思っていなかった。だって外の賑わいを考えれば、見つかるなんて普通は思わない。

 第一、フィルは一人でいいと言った。アレックスと彼女のことを深く考えたくなくて、わざと何も考えないようにしていた。それなのに彼は『探した』と、そう言った。


 視線の先でアレックスは肩で息をして、額に汗を浮かべている。

 先ほどまでむくれていたくせに、と自分でも思いつつ、それでもそんなアレックスを見て泣きそうになってしまう。

「……」

 それから素直に微笑んだ。なぜだろう、『大丈夫』と思えて、なぜか安心してしまった。

 つられたようにアレックスも笑ってくれて、ゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる。フィルを真っ直ぐ見つめたまま、途中で再び真剣さを交えた顔となって。

 魅入られでもしたのだろうか――アレックスの表情や仕草の一つ一つからフィルは目が離せなかった。


 だが、その彼はあと数歩というところで立ち止まる。

「?」

 彼には珍しい、怪訝な顔に思わず彼の視線を追えば、フィルの背後で俯き、まるでアレックスから隠れるかのように身をすくめている少女の姿が目に映った。

「……ナシア?」

 先ほどといい人見知りするのかな、などと考えて首を捻る。

(じゃなかった。ちゃんと紹介しなくては)

「ええと、アレックス、こちらは先ほど知り合った、」

「…………ナシュアナ王女」

「……へ?」

「ナシュアナ第二王女であらせられる」

 アレックスが天を仰ぎ、深くて長い溜め息を吐き出した。



 * * *



(いた、フィル……)

 いつにも増して閑散とした、デラウェール図書館の古びた赤い絨毯の上。午後の光に金の髪を反射させて、彼女は図書館のあちこちに設けられた小さな階段の一つの中途に腰掛けていた。

「フィル」

 先ほどのような拒絶に合うのではないかと一抹の不安もあったが、彼女が見つかった安堵がそれを上回った。勝手に彼女の名が口から零れ出る。

 驚きと共にフィルがこちらへと顔を向けた。それに続くだろう彼女の表情が怖くて、アレックスはすぐに次の言葉を紡ぐ。

「探した」

 フィルは目をみはった後、泣きそうな顔になって……その後ふわりと笑ってくれた。

 先ほど別れる寸前に見せた笑みとはまったく違う類の表情――その事実に泣きたくなるくらいの感動と、形容し難い衝動とに支配された。


(もう逃がさない――それにそれ以上のことももういい。どうせ早いか遅いかの違いだけだ)

 抱きしめよう、そう思って近づいていく。だが……、

「……ナシア?  ええと、アレックス、こちらは先ほど知り合った、」

  残念ながらフィルのほうが神に愛されているらしい。それともあの偉大なアル・ド・ザルアナックの加護だろうか。

 フィルの横には小さな少女が居て、

「…………ナシュアナ王女」

 しかもそれが幼い王女とくれば、その前でフィルをどうすることも出来ず…………今に至る。



「ああ、なるほど」

「……」

 先ほど第一王女を紹介した時も特に目立った反応はなかったが、今回はそれ以上だった。

(相変わらずだな、この読めない反応は……)

 思わず苦笑を漏らしてしまう。言われたナシュアナ王女も驚いたらしく、彼女はフィルを見上げて思わずというように呟いた。「驚かないの?」と。

「え、だって創世記の背表紙にあるスフリの花の透かし彫りのことを言っていたから。絵でないのはごく初期のものだけでしょう? お目にかかれるとしたら王室の書庫か、ここの制限書庫くらいかなと」

 「うらやましいな、王室の書庫」などと笑うフィルを見て、王女はホッとしたように笑いを零した。

(珍しい……)

 アレックスは思わず片方の眉を上げた。噂に聞く限りでも、数えるほどの対面の中でも、このように笑うことのある方だとは思っていなかった。

「……」

 その幸せの邪魔をしたくはないのだが、と思いつつ、自分にとってもフィルと二人で過ごす時間は貴重、加えて騎士としての職責もある、と判断すると、アレックスは膝を落としてナシュアナの顔を覗き込んだ。

「殿下、お一人ですか?」

 王女はビクっと肩を震わせて顔を強張らせ、さっとフィルの後ろへと逃げ込む。戸惑ったようにフィルがその彼女を振り向き、身を屈めて同じくその顔を覗き込んだ。


「無礼者、殿下から離れよっ」

 突然、尖った声が静かな館内に響いた。

「殿下だって、ナシア……って、あれ、誰?」

 その声の緊迫感とは対照的にのん気に首を傾げたフィルの背後で、呼ばれた王女はさらに泣きそうな顔になった。その様子にアレックスは目を軽くみはる。

(……なるほどな)

 咄嗟に彼女を抱えてフィルに押し付け、「後で裏口で」とだけ告げれば、一瞬目を丸くしたフィルは腕の中のナシュアナを見て頷き、そのまま階上へと消えていった。


「アーサー・ベル・ジオール殿」

 殺気立ちながらこちらへと駆けて来た男の名を呼ぶと、彼は抜刀の寸前で押しとどまって目を見開き、呆然と呟いた。

「フォルデリーク殿……なぜ貴殿が」

「貴殿が危惧なさるようなことは何もない。ここで偶然彼女にお会いして、お一人のようだったので話をしていただけのこと」

 迷惑と好奇心半々の顔でこちらを見る人々を気にして、アレックスはナシュアナの名と尊称を敢えて口にしなかった。気のせいでなければ、彼女はそれを恐れているようだったから。そして彼女の境遇を考えれば、それは自然なことだろうとも思う。

「だが、先ほど王――」

「ジオール殿。このような場でそんな言葉を連呼すれば、どうなるかおわかりになるだろう」

 とたんに彼はうろたえたような顔になる。その様子を観察しながら、従兄が以前彼に下していた評価は本当らしいと判断した。実直が過ぎる感もあるが根が悪くなく、頭の回転もそう鈍くない。

「焦らずとも裏口でお待ちだ」

 その言葉に思考を即座に切り替えたらしい彼は、歩き出したアレックスに半歩後れで続いた。相変わらず硬い顔をしてはいたが。


「騒がせて申し訳ない」

 本から目を離してこちらに見ている周囲の彼らの頭から騒ぎの元となった少女のことを追い出そうと、アレックスは作った笑顔で謝罪する。その上で斜め後ろの彼に目で合図すると、正確に意図を汲み取ったらしいジオールもとっさに笑顔を繕い、優雅に詫びて見せた。



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