6-3.焦り
少しくすんだ優しい青空とそこから注ぐ優しい春の日差し、咲き乱れる花々に、祭りに賑わう人々。陽気に浮き立つ街を無視して、フィルは通りをずんずん歩いていく。周囲が怪訝そうな顔をして、一人ペースも空気も違うフィルを見るが、気を払う気にはなれなかった。
(……むしゃくしゃする)
フィルは眉間に深い皺を寄せた。
まず騎士団が謂われなく見下されたことだ。
初めてフィルが人を殺めた日のことだった。山賊に殺されそうになっていた旅の夫婦を助けようとしてのことだったが、剣が肉――生ある人にグズリと入り込んでいく感触と音、自分の顔にかかった血の臭いと温かさ、剣を通じて直接手に伝わってくる骨が断たれる鈍い振動、その剣の刺さった相手の瞳から輝きが失われていく光景、そのすべてにフィルは恐れ戦いた。
自分が物心付いた時から持っていた剣は“人を殺す”道具――初めてそう実感して、取り落とした剣を拾うことも出来ずに、がたがたと情けないほどに震えていたことをおぼろげに覚えている。
『フィル、剣はな、何をどう取り繕ったところで人を殺める力そのものなのだよ』
宿にそんな自分を連れ帰った祖父は、フィルの体にかかった血をぬぐってくれた後、愛用の剣を悲しそうに撫でながら、そう語った。
『だから、その使い方をどこまでも真剣に考えなくてはいけない』
『おかしな話に聞こえるかもしれないが、どうせならその力を誰かを守り、生かすことに使いたいと私は思う』
そんな祖父たちが作った、国を、いや人を守るための騎士団。そのためにみんな必死で努力しているのに。
下衆という言葉に憤る。
貴族じゃない、それだけで人を見下すあの感覚がひどく疎ましい。
誰も生まれを選べない。それでもみんなそれぞれの人生を、それぞれ一生懸命生きている。それを無視して、自分と違う生まれの人を、ただそれだけで侮蔑する? ――傲慢にもほどがある。
「……」
無言で雑踏を歩きながら、フィルは目を鋭く眇めた。
自分の様子を女の子たちが遠巻きにうかがっているのが気配でわかるが、ごめんと思いつつ、ちょっと無視させてもらう。だって記憶の中からさらに癇に障る光景が呼び起こされた。
そう、アレックスに抱き付いたこと、あれも腹立たしい。大衆の面前、しかも人の目の前で。
何よりむかつくのはアレックスだ。易々と抱き付かれるままになっていたし、大体『あなたと私の仲』ってなんなんだ?
「アレックスと王女、の仲……?」
だが呟き返して、ふと恐ろしい可能性に行き当たったフィルは、先ほどまで憤りで上気させていた肌を一気に青ざめさせた。
「…………うそ」
(まさかあの人が本命の彼女……?)
「嘘……」
呆然ともう一度呟いた後、フルフルと頭を振った。
(だってあのアレックスだ。そりゃ王女は美人だったけれど、あんな性格の良くなさそうな人、アレックスが好きになるはず……)
「ない……とは言い切れないかも」
だって相手が王女なら、誰にも好きな人の話をしないのが納得いく。
「いや、でもその後冷たく払っていたし……」
けど、知られちゃいけないからわざと、という可能性もあるのでは? だって王女は気にした様子もなかった。
――大体避けられないはずはないのに、アレックスは抱きつくのを許していた。
「本当に……?」
(本当に彼女? あの人がアレックス、の……?)
祭りの賑わいが一層遠ざかっていった気がする。
* * *
フィルが消えた。
唖然とするほど艶やかに微笑んで踵を返し、迷いなく群衆の中を歩き去っていく。
「……」
すぐに跡を追うべきところ、その顔に見惚れて出遅れた。あんな顔をするなんて、出来るなんて思ってもみなかった。
「……っ」
彼女が完全に視界から消えた瞬間、正気に戻った。追いかけようと足を踏み出したところで、気を取り直したらしいセルナディア王女に右手を取られる。
「あのような下賤、放っておきなさい。私と一緒にまわりましょう」
媚びる様に上目遣いでこちらを見上げ、同時に腕を自分の胸元に押し付ける仕草に、そのつもりでこの露出の多いドレスを選んだのだと見て取った。
世間一般の基準で考えれば、可愛らしいのだろうと思う。顔つきも口調も凝ったドレスも一生懸命こちらの気を引こうとする努力も。だが、アレックスが望むものでは明らかにない。
「失礼いたします」
言い訳も謝罪もなしに、取り付くしまの無い笑顔だけを浮かべて強引に腕を抜くと、アレックスはフィルの消えた方向へと走り出した。後ろで何事か叫んでいるようだが、知った話ではない。
ほんの少しの時間だったはずなのに、フィルの姿は既に見当たらなかった。
(どこだ……)
立ち止まって周囲を見渡す度に人がぶつかってくる。頬を上気させて、瞳を輝かせながら、周囲をきょろきょろ見ているフィルを眺めていた時は全く感じなかったのに、今は街の賑わいがひどく疎ましい。
(誤解していないといい)
以前、本命を見つけて彼女を作る手助けを、と言っていたフィルのことだ。しかも彼女は他の女性がアレックスに近づいてくる度に、申し訳なさそうな顔をする。
「どこだ、フィル……」
焦る。せっかく少しずつ近づいてきたのに離れていってしまう。
「!!」
人波の間に、少し癖のある金の髪が揺れる後ろ姿を見つけて走り出す。
だが人ごみに押されてもたついている間に、離されてしまう。
アレックスの視線の先で彼女は背の高い男の元に走り寄り、その男に抱きつくと並んで歩き出した。
「っ」
目にした光景に全身から血の気が失せた。
(ワタサナイ、ワタセナイ、ゼッタイニ――)
今度は人にぶつかるのにも、その人々から罵声を浴びせられるのにもかまわないで真っ直ぐ進み、勢いに任せて彼女の腕を掴んだ。
「きゃっ」
――びっくりした顔で振り返った彼女の瞳は茶色。その顔の中に広がっているのはそばかす。よく見れば服装だってドレスだ。
「……」
瞬時に安堵を覚え、その次に自分の中の荒々しい感情に気付いて呆然とした。
真っ赤に染まっていく目の前の女性を見て、同様に呆けていた隣の男は我に返ったようだった。
「お、おまえ、人の、」
「すまない、人違いだ」
アレックスは男の声に被せるように謝罪を告げると、即座に踵を返した。
「……くそっ」
フィルより強くなったら、と思っていた。
『今日から301号室でお世話になりますフィル・ディランと申します』
でもそんなこちらの思惑とは別に再び会ってしまった――もう彼女のいない日々は考えられない。
『アレックス』
この耳が成長した姿で自分を呼び、笑う声を覚えてしまった――もう自分以外の男がフィルの横に立つことを許せない。
『……んー』
この目があどけない顔で眠る顔を脳に焼き付けてしまった――もうどこにもやらない。
この指が彼女の体のしなやかさと柔らかさを知ってしまった――もう絶対に逃がさない。
その後二時間ほどかけてリアニ亭をのぞき、宿舎に戻り、結局彼女を見つけられないまま、カイトの家にでも行ったのか、と焦燥していた。
先日のカイトの顔を思い出すと、内臓をかき回されるような気がした。彼女を見つめる思いつめた表情、今にもフィルを抱きしめそうな距離の近さ、視線の中に見え隠れする欲望――あの彼にフィルが囚われたら……?
「っ」
想像に血の気が引いていく。
(フィルだけだ、俺が望んでいるのは。ずっと、ずっと彼女だけなのに――)
そこに響いてきた、正午を知らせる神殿の鐘の音に苛立って顔を上げた瞬間、アレックスは王都の象徴とも言うべき王立図書館の屋根の尖塔に目を留めた。
「デラウェール……」
(そういえば以前、あそこにだけは馴染みがあると……)
アレックスは喧騒の中でいつも以上に落ち着いて見える図書館界隈へと、半ば縋るような気分で駆け出した。




