6-2.王女
「……」
呆然とする。一体どこからこんなたくさんの人が湧いて出てくるのだろう。
リアニ亭の女将の馬車に揺られて王都に足を踏み入れた時も圧倒されたけれど、花祭りはこの国の最大の祭りと言われているだけあって、そんなものの比ではなかったらしいとフィルは思い知った。
通りから馬車は消え、代わって華やかな露店と着飾った人々で埋め尽くされている。
右手の石畳の上では、春らしいパステルカラーのドレスに身を包んだ可愛らしい少女が、フィルが今まで見たこともない花を手に道行く人に笑顔を振りまき、その向かいの道の端では一昨日見回った時にはなかった簡易な屋台から肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきて、道行く人の空腹を引き起こす。道の真ん中では三人の男連れが同じく三人の女性の気を引こうと奮闘し、彼らに行く手を阻まれた荷車を押す男が怒鳴り声を上げている。その脇を、お小遣いをもらったのだろう地元の子供たちが小さなこぶしを握り締めて、甲高い声で笑いながら走リ抜けていった。
呆けたまま眼前の光景を眺めていたフィルは、ドンっと人にぶつかられて前へとつんのめる。
「わっ」
転ばないように足を一歩前に出したところで、全身をアレックスに受け止められた。
「……っ」
触れられた場所から伝わった体温に硬直したところで、しかも軽く抱きしめられた気がしてフィルは真っ赤になる。気付かれたのかもしれない、アレックスが耳元で低く軽く笑った。その音のせいで指先まで赤く染まって、フィルは余計居たたまれなくなる。
「行こうか、フィル」
(最近、本当にどうかしてる気がする……)
チラッと目線を斜め上に向けたが、そんな挙動不審なフィルをアレックスが気にする様子はない。
「こっちだ。本通りで花車が出るから。あとでリアニ亭にも顔を出すんだろう?」
目の端でいつも通り柔らかく微笑まれて、ほっとしたのも束の間。
(……う)
彼はフィルの手を握って引いたまま、歩き出してしまった。
路上で披露される大道芸、目の前で手品のように作り出される色とりどりの飴細工、吟遊詩人の鳴らす竪琴の音……。
フィルが興味を引かれる度にアレックスは立ち止まり、何事か説明してくれたり、その対象を買ってくれたりする。
猫の形の飴細工を手渡された時は、子供みたいでさすがにばつが悪かった。一度も見たことがなかったとはいえ、本当のところちょっと嬉しかったのがさらに情けない。なんでばれてしまってるんだろう、といつもながらに不思議に思う。
賑やかな街の様子についきょろきょろとしてしまうのだが、ふとアレックスを見ると、その度に彼は決まってこちらを見ていて……その目にドキッとする。優しい視線は、幼い時に出会ったアレクのそれと同じで安心できる。でもその中に、なんというか、熱のようなものを感じて居たたまれなくなる。
「……」
手を握り合ったまま、半歩先を歩くアレックスの横顔をフィルはこっそり盗み見た。
これだけ混んでいるにも関わらず、アレックスとフィルの進む先では波が引くように人垣が割れる。彼のどこか異質な空気のせいだろう。
さらさらでまっすぐな黒髪、適度に焼かれた肌、すっと通った鼻梁。意志の強そうな、深く透き通った青い瞳を囲む目は涼やかで、形のいい唇はいつも余裕のある笑みを浮かべている。男っぽさを感じさせる鋭利な顎のラインといい、人ごみの中で頭一つ出ているのに決して無骨に見えないバランスのいい体格といい、本当に整っている。
(ほんとに美人だよね、アレクと同じくらい……)
フィルにとってアレクが理想の女性像だとすると、アレックスはその対となる男性像だろう、とふと思った。それから胸が痛んで二人が知り合いでなければいいのに、と願った。
(…………あれ? なんでだろ、大好きな人たちが知り合いって素敵なのに……)
そうじゃない、と心の中で声がした。
(だって……もし二人が知り合いだったら、きっと私じゃ……)
「アレクサンダー!」
思考を中断させたのは女性の甲高い声だった。
「私の前に立っていいと思っているの、さっさとどきなさい」
高圧的な物言いに顔を向ければ、斜め前方で人波が押しのけられるのが見えた。その裂け目から薄い金の長い髪を靡かせた小柄な少女と、それを追っているらしい深紅に金糸で縫い取りのある制服が複数、こちらへと駆けてくる。
「……え」
そして、その少女はフィルの目の前でアレックスへと慣れた様子で抱きついた。
「ふふふふ、久しぶりね。アレクサンダー」
鮮やかな赤色の瞳がキラキラとアレックスを見上げ、それに良く似合う、目の覚めるような紅の引かれた唇が弧を描いて彼に微笑みかけている。
(……だれ、その人……)
自分の手がいつのまにかアレックスから離されていたことに今更ながら気付いて、フィルは小さく顔を歪めた。
「……このようなところに来られては危険なのでは」
「ふふ、心配してくれるのね、アレクサンダー。だって今年は剣技大会にも出ないのでしょう? こうでもしなくてはあなたに会えないのですもの」
(会えない? ってことは会いたいってことだよね、アレックスに……)
二人を見ながら困惑を隠せずにフィルは視線を揺らす。
「夜会も宮廷行事も皆欠席。近衛騎士団に入ってくれれば、私の護衛にしてあげるつもりだったのに、騎士団なんて野蛮なところに入ってしまうのだもの。ひどいわ」
(ヤバン……? って、野蛮? ……騎士団が? そりゃ、変な人たちだけど……)
半ば停止していた思考が、その言葉で微妙に働きを取り戻した。
「セルナディア殿下、私の同輩、国に尽くす騎士たちを無意味に愚弄なさらないでいただきたい」
アレックスの冷たくて硬い声にフィルは思わず大きく頷き……それから首を傾げた。
(えと、殿下……ってことは王女……?)
「嫌だわ、アレクサンダーったら。ねえ、ジュリアンもそう思うでしょう?」
では、同意を求められた赤い制服が噂の近衛騎士――そちらに顔を向けて、フィルはジュリアンと呼ばれた少年を見る。意地の悪そうな笑みを浮かべた金髪の彼の年頃はフィルと同じくらいだろう。
「わざわざ下々の者の中で汗を流したいなどという、フォルデリーク殿の奉仕精神に感服しております」
「殿下、もう少しこちらへ。フォルデリーク殿はともかく、そこな者にお近寄りになりませんよう」
別の近衛騎士がフィルを顎で指した。
「……」
なるほど、騎士団の仲間が言うのは事実だったようだ。
(どいつもこいつも感じが悪い)
汚いもののように扱われて、さすがにフィルも空気を硬くした。
「フィル」
不穏な気配に最初に気付いたのは、やはりアレックスだった。
「こちらはセルナディア第一王女殿下。そしてこちらが近衛のジュリアン・」
「必要ないわ」
ぴしゃりとセルナディア王女が言い、殊更にフィルの方向から顔を背けた。
「その制服、騎士団のものでしょう? 下衆と知り合う必要などないもの」
「……」
げ、下衆って……と思わず唖然とした。
(王女ってこんな人なのか? この人もアド爺さまの孫? ……てことは、あの人の妹でもあって……いや、確かに美人だけど、また全然違うんだ……)
「殿下、この人はそのような侮蔑を向けられるべき人ではありません」
冷静に絡められた腕を解き、冷えた視線で王女に冷たく言い放ったアレックスの様子に、フィルは安堵の息を吐き出した。
「優しいのね、アレクサンダーは。いいのよ、あなたと私の仲ですもの。特別に無礼な物言いは許してあげてよ」
生憎とほっとできたのは一瞬。再びその手をアレックスの腕に絡め、にこりと笑った王女にフィルは眉を顰めた。
しかもなんだか聞き捨てならないことを聞いた気がする――『あなたと私の仲』ってなに……?
「ふふ、フォルデリーク殿はよほど騎士団がお好きと見える。まあ、掃き溜め中であれば引き立て役には事欠きませんし、無理はないのでしょうけれど」
(はきだ、め……って……掃き溜め……)
「……」
続いていく奇妙で嫌な感じの会話が、フィルの耳に入ってくることはもうなかった。
色んなことが同時に起きると、相変わらずうまく働かなくなる頭だけど、だから色々あってよくわかんなくなってるけど、あれだ、一つだけはっきりした――この人たち、嫌いだ。
ニヤニヤと斜め後ろからこちらを見ている若い近衛騎士へと、フィルは敢えて振り返ると正面から丁寧に礼を執った。
「その騎士団のフィル・ディランです。このたびの剣技大会に出場いたします。若輩ですが、手合わせの際はよろしく」
祖母に徹底的に仕込まれた笑みを浮かべて、フィルはにこりと笑ってみせる。祖母に『完璧に、誰もが見惚れるように、計算して笑いなさい』と仕込まれた顔だ。剣を取ることだけが戦いではないのよ、と鏡の前で練習させられる度に、顔中の筋肉が引き攣ったあれはこんな風に役に立つんだな、とちょっと感動した。
その笑顔の裏で、大衆の面前でボロボロにしてやる、と決める。こんな奴らに大きな顔をさせて剣を握らせておくのは嫌だ。
「……」
三人の近衛騎士たちが顔を赤くし、視線を揺らしたことを確認したフィルは祖母に感謝しつつ、アレックスを振り返った。
「アレックス」
だが、さっさとここからいなくなろうと名を呼んだ彼の腕が、王女に抱えられるようにして胸に押し付けられているのを見た瞬間、身体の真ん中でさらに何かが切れた感じがした。
(…………ふうん)
フィルはさらに笑みを深める。呆けたように自分を見ている王女はこの際どうでもいい。
軽く目をみはっているアレックスを見つめると、フィルはそのまま微笑みかけた。
「私は一人でも平気です。どうぞごゆっくり」
ゆっくり踵を返すと、突っ立ったまま相変わらず自分を凝視している近衛騎士たちの真ん中を敢えて突っ切って、フィルは雑踏の向こうへと歩き出した。




