6-1.体と頭
現金なもので、悩みが解消されたら、その悩みの原因になったことなど、すっきりきれいさっぱり忘れていた。
カザック王国騎士団本営、団長執務室。本棟の最上階に位置し、カザレナの街を見下ろすここに呼び出されて、『何事だろう、特にばれるようなことはしていないはずだ』(まずいことをしていないはずと言えないのが悲しい)と、フィルが戦々恐々と中を覗いてみれば、そこに居たのは七名の若い騎士たちだった。
怒られにきた感じのない彼らの様子に首を傾げながら団長の話を聞けば、『剣技大会』という言葉が出てきて、そういえば、とフィルはやっと思い出した。
「その顔……忘れていました、と書いてあるぞ」
団長の横に並んだ副団長のぼそりとした呟きに、フィルは思わず自分の顔をさする。
暦は既に春。鮮やかな新緑や花が美しく街を彩る。新しい生命の息吹は、一見自然と切り離された王都カザレナにも活気を運んできている。
(風も日差しも麗らかなのに、ここだけ寒い空気が流れたのは、またも私のせい……)
同期のカイトやエドのも然り、あまり感情を見せないポトマック副団長の呆れたような視線も突き刺さって痛い。普段は事務方の折衝をしているせいで団員とは接しないコレクト団長兼侯爵すら不思議そうな顔をしている。
「……とにかく」
その副団長は溜め息と共に気を取り直したらしい。助かった。
「剣技大会出場者は、ナシュアナシス再降誕祭六日目午前九時に正装にて王城東、カザレナ闘技場に集合のこと。諸君にはそれぞれ二日の自由日が与えられているが、騎士団員として当日にふさわしい活躍が出来るよう期待している」
横にいたカイトが小さくゲッともらしたのが聞こえた。直後にポトマック副団長の眉間にしわが寄り、その場の騎士全員がびきりと固まった。
「言わんとすることは、休みの日でも遊びに行くな、訓練しとけってことだろ?」
「それより羽目を外して怪我とかすんなってことかもよ。五日間練習したところで劇的にうまくなるわけでもないだろうし」
剣技大会の注意事項を聞かされて執務室を出たフィルは、カイトやエドワード、他五名の大会出場者とともに遅い夕食を終えて各自の部屋に向かっていた。
「五日間剣に触らなければ勘が鈍るということじゃないかな。遊ぶなって話ではないと思う」
ぼそっとフィルは呟く。
訓練は重要だが、それと同じくらい精神を満たしてやることも大事だと祖父は言っていた。だから良く学び、訓練し、それ以外は好きなようにしていていい、と。
「ふーん。まあ、今年はどうせディランで決まりだからな」
「はい。絶対に負けません」
二期上の中から唯一選ばれた先輩騎士に、フィルは素で答える。
自分のすべきことをしよう、そうすればきっとここに居場所は出来ていくと思えるようになったのはこの間のことだ。
鼻白んで立ち止まった彼の肩を数名が苦笑しながら叩き、次いで「ああいう奴だ」と笑う声が背後から響いてきた。
既に暗くなりつつある廊下に、用務の老人が明かりを灯している。彼に挨拶して歩いていくフィルにカイトが追いついてきて、「なあ、フィル」と小声で話しかけてきた。
「花祭りの休み、いつとった?」
「初日と最終日」
騎士団は祭りの一週間、重点的に王都の警備に当たることになっている。通常の何倍もの人出に対して地方から応援のために送られてくる警護隊を指揮するのも騎士団の役目だが、それはもっと上の騎士たちがしてくれるらしい。
「また明日なー」
後方にいたエドワードがこちらに声をかけ、他数名と共に宿舎の西棟への廊下を渡っていく。
花祭りと略されることの多い、ナシュアナシス再降誕祭は新しい生命の息吹を祝うカザレナの祭りだそうだ。春の女神ナシュアナシスを祭る神殿が、この一年に生まれた子供たちに祝福を与え、春を彩る様々な花々が街中に溢れる。着飾った娘たちが通りを練り歩き、それを目当てに若者たちが集う。
まあ、人が増えれば騒動も増えるのは道理で、騎士たちはあまりゆっくりしてはいられないらしいが、若者の祭りということで独身者や幼い子を持つ騎士には、二日間の休みが与えられている。
「あーと、どっか行く予定はあるのか?」
「予定……」
小声のままカイトが尋ねてきたカイトに、フィルは目を瞬かせた。
相方だから当たり前といえば当たり前だが、休みの予定はアレックスに合わせた。
その彼は最終日にちょっと実家に帰ると言っていたけれど、初日の休みに関しては「花祭り、初めてだろう。警備するにしたって少し様子を知っておくほうがいい」と言っていた。
(……あれって案内してくれるということなのかな)
アレックスとの会話の意味を改めて考えると、そわそわしてきた。
(だって一緒に休みなんだし、アレックスにも初日の予定がないみたいだし、普段だって休日はほとんど一緒だし、それに一緒の方が絶対にいいし…………ん?)
フィルはぴたっと歩みを止める。
(絶対にいい? そりゃあ、アレックスと一緒なのは楽しくて嬉しくて好きだけど、それってアレックスと一緒にいたい、ってこと……)
「おい」
「っ」
「フィル、あのなあ、お前、人の話の最中に考え込むの、やめてくれよ」
「ななななんでもない、なんでもないっ」
恥ずかしい思いしてんのに、とブツブツ呟く彼に、顔を真っ赤にしたフィルはぶんぶん首を振り、そう繰り返した。何を考えてたかなんてとてもじゃないが言えない。なんだか邪なことだった気がするし。
「ふーん、じゃあ予定、ないってことか……」
カイトの目線に肌がピリッとした気がした。
(……なんだ、今の……?)
「じゃあさ、暇だったら、俺んちの実家、来るか? 案内してやるよ。お前、花祭り見たことないんだろう?」
「――必要ない。俺が案内する予定だ」
違和感に小さく眉を寄せた瞬間、既に暗くなっている廊下の向こうから、低い声が響いた。アレックスが無表情にこちらに歩いてくる。
(あ、やっぱり一緒にいてくれるんだ……)
無意識のうちに顔を綻ばせたフィルとは対照的に、カイトは顔を歪めた。
「そ、そうか、なら、よかった。俺もデートあるから必要ないんならその方がいいしな。じゃあ、また明日な」
そうして慌ただしく自室へと駆けていった。
ふわふわとした気分でアレックスを見上げたフィルだったが、彼がカイトの去った方向をいつになく厳しい顔で見つめていることに気付き、すぐに顔を曇らせた。
「アレックス?」
いつも通りこっちを見て笑ってくれることを期待したのに、振り返った彼の視線は鋭いまま。戸惑うフィルの右手にその目を落とすと、自らの左手にとり、部屋へと歩き出した。
「あ、あの……」
アレックスは無言のまま部屋の扉を開けて、フィルを先に中へと引き入れると、後ろ手にドアを閉める。今まで見たことのない彼の様子に戸惑いながらも、とにかく顔を見ようとフィルは振り向いた。
「っ」
が、次の瞬間アレックスの体に包まれ、そのままきつく抱きしめられた。
(……え、え、と、な、なに……)
痺れるような感覚が全身に走って、それに応じて肌が粟立つ。状況を整理しようとする頭が、その感覚に飲まれてしまって機能しない。
「彼と出かけたかった……?」
頭上からアレックスの声が響いた。その音はいつもと同じに低くて、動揺の中に微かな安堵を運んでくる。
(一緒にいたいのは……)
フィルは息を吐き出しながら、きつい束縛の中で動かせる限り首を振った。
(アレックス、だ)
静寂が続く。
自分のものではない香りが鼻をくすぐり、アレックスの心臓の音が聞こえてきてその音に包まれる。自分以外の温もりに身体がとろけていく錯覚を覚える。
「……」
そうすることが自然であるかのように、腕が持ち上がった。アレックスの背中に回る。両腕がアレックスに触れた瞬間、彼の体が一瞬震え、抱きしめる腕の力が一層強まった。
その腕の力強さと押し付けられている胸板の厚さに自分との違いを感じた。そして以前にもそんなことを感じたんだった、とぼんやりと思い出した。そういえば私は女性で、アレックスは違うんだと、感覚的に理解する。
だが、それを理知的に理解しようとした瞬間、
「……っ!」
フィルの体は不自然に硬直した。
(な、ななななんだかわからないけど、なななにかすっごいことしてる、ような気がする……っ)
ばっと音を立てて、アレックスに回した手を左右に広げ、その状態のまま退こうとする。
「フィル?」
怪訝そうにアレックスが顔を覗き込んでくるが、きっとその目には真っ赤になったまま泣きそうになっている、ひどく情けない顔が映っているだろう。
何とか困惑を隠そうと、フィルは片方の頬だけ上げてへらっと笑ってみて……。
「……くっ」
あまり嬉しくない事に、いや、嬉しいのだが、アレックスはその顔を見て吹き出し、フィルを腕の籠から開放してくれた。
目の前で彼は涙を浮かべて笑い続けながら、「悪かった、まだ早かった」と言って、いつするように頭を優しく叩く。
「……」
(早いって何?)
と思いつつも、それを聞くとなんだかもっと心臓に優しくないことが起きると勘が言うので、フィルは口を噤んでされるままになった。
なんなんだろう? アレクにしていたように何でもアレックスに聞けていたのに、一緒にいるとただただ楽しくて嬉しくて安心していたのに、最近色々何かが変わっている気がする。
「まあ、遠くないうちに」
そんなことを言いながらこちらを見、目の端で笑っているアレックスの顔も、前とは何かがすごく違う気がする。
「……え、と……はあ」
フィルの返答に彼が意味ありげに笑うのも。
なんだかよくわからないけど、状況はそうでもないと、アレックスがひどいことする訳ないと頭では思うんだけど、最近フィルがなんとなく肌で感じていること――
(なんか……私、追い詰められてってる……?)




