5-9.一歩
小隊の何名かと飲んだ帰り。酔いつぶれた仲間を共に家に送り届けて宿舎に戻っている最中、フィルの受け答えが鈍くなった。
能天気に見えるが、置かれている状況が状況だ、やはり彼女なりに毎日かなりの気を使っているのだろう。酒が入ったり疲れ果てたりしている時、フィルはこうして微妙に気が抜ける。
「眠いのか?」
そう問えば、微かに頷く。
「ほら」
「……え、あー……ありがとうございます? でも大丈夫です」
何度かやったように背負おうとしたが、想定通り遠慮されてしまった。
話を聞く限り彼女は誰かに甘えたり、何かをねだったりすることを厳しく戒められて育ったようだ。
だから昔からそうだ。フィルが自分からしてきた頼み事は、『友達になって』それだけ。老伯爵夫妻は自分たちがフィルを残して逝かなくてはいけないことを見越していたのかもしれないと思う。
だが、というか、だからこそというか、色々な意味で寂しくなって、アレックスは片眼を軽く目を眇めてみせた。
「騎士が路上で眠りこけたら格好がつかないだろう」
「うー……すみません……」
そうして少し押してみれば、フィルは困ったような顔をしながらもおずおず身を預けてきた。
(本質は結構甘えたがりだと思うんだが……)
酔いのせいで少し理性が緩んでいるからとはいえ、そんなフィルがアレックスにだけこうしてみせてくれる甘えが、実は嬉しくて仕方がない。
アレックスは背に感じる負荷と体温とあわせて、小さく口元をほころばせた。
出入り口にいる寮監の老人に「その子、腕はいいって言うけど、普段はほんと抜けてるねえ」と苦笑されながら宿舎に入り、自室に着く。
「ほら、フィル、着いたぞ」
「ありがと、ございました……」
目を擦りながら寝ぼけた声で礼を言ったフィルはアレックスの背から降りると、次にクローゼットを探り出した。
「シャワー? ……酔っているだろう」
「んー、少しだけ。でも多分平気」
「鍵はかけるなよ……? 変な意味じゃなくて、その、中で倒れたりしたら困るし」
フィルは首を傾げながらも素直に頷き、着替えを準備してシャワーを浴びに行った。頼んでおいてなんだが、この期に及んでも警戒されていないのかと微妙に凹む。
続いてアレックスがシャワーから上がると、濡れ髪のままのフィルがキッチンから茶のポットを持って部屋に戻ってきた。
「飲みませんか」
いつもの習慣に「酔いが醒めたのか」と思いながら、何の気なしにフィルへと目を向け、
「……っ」
アレックスは音を立てて顔を彼女から背けた。血が上って来るのを感じて、片手で顔を隠す。
「アレックス?」
眠気か酔いを含んだ、どこかぽやっとした声に、やってくれた、と手のひらの下で呻き声をあげた。
「……」
意識を逸らそう、落ち着こうとするのに顔から血が降りて行かない。フィルが訝しげに側に寄ってくるのもわかるが、顔をまともに見られない。
「どうかしましたか、アレックス」
(どうかしてるのは俺じゃない……)
顔を抑えた指の隙間から、確かめようと視線をちらりと掠め落とせば、目に入るのは乾ききらずに濡れたままの髪と湯上りに上気した頬、艶やかに光る唇。それだけでも毎晩毎晩理性を行使しているのに、その上――明らかに膨らんだ胸元。
「……っ」
アレックスは音が立つかのような勢いで視線をフィルから引きはがす。
いつだったかもそんな無防備な格好で部屋の外に出ようとしていたけれど、あの時はそれでも上着を羽織っていた、と呻き声をあげたくなった。
「何でもない、何もない」
搾り出すように何とか告げると、彼女から逃げるように窓際のソファに腰掛けた。
(見ないように、近寄らないようにして、一気に茶を飲んでさっさと寝る。そうする。それ以外ない)
そう決めた。でないと理性を保てる自信が今度ばかりは全く無い。
そんなアレックスを不審そうにうかがいながら、フィルがすぐ横で茶をカップに注ぎ始めた。
「っ」
だが、目線の高さにちょうど体の線が見えて、さらに動揺する羽目になった。
(……なるほど普段抑えていたのか。確かにそうでなければ簡単に女性だとばれるな、意外な発見だった)
冷静になろうとそんなことを考えてみるものの、そんな自分が冷静でないのは自分が一番良く知っている。
「どうぞ」
理由はわからなくても、人の気配の揺れは察知するフィルだ。眉を寄せ、露骨に怪訝な顔をしながら、カップを差し出してきた。
「っ」
その姿から慌てて目を背けた、あからさまに。
「アレックス……?」
(落ち着け、今更何をそんなことでうろたえているんだ。そう、大体世の中の女性は皆そんなものだ。見たことだってないわけじゃない)
自分で自分にそう言い聞かせてみるが、そんな努力を冷静な自分が「だが、それは関心も興味もない相手だっただろう、フィルじゃない」と告げてきて台無しにする。
「……っ」
アレックスは耐えきれなくなって顔を伏せると、両手で髪をガシガシとかきむしった。
「甘えて挙げ句寝てしまったから、怒っていらっしゃるんですか……」
「っ、違うっ」
フィルの沈んだ声にはっと我に返り、アレックスは慌てて顔を上げた。
「もうしません」
「そうじゃないっ、フィルに甘えられる、のは嬉し、い……」
自分を見上げてくる緑色の瞳は、酔いのせいか泣きそうなのか潤んでいて……
「っ」
(なん、の罠だ――)
取り繕うことも出来なくなって、アレックスは今度は身体ごとフィルから背けた。
「ごめんなさい」
ほぼ働かなくなった頭だったが、すぐ横から響く彼女の落ち込んだ声に、「フィルを悲しませてはならない」という部分だけはちゃんと動いた。
「何も気にしなくていい、本当に怒ってなんていない、背負うと言い出したのはそもそも俺だ、謝る必要なんて全くない」
一気に声を出して、そのまま一気に茶を飲みきった。
そのまま全力で彼女から意識を遠ざけて、さっさとベッドに行こうと立ち上る。
「嫌われたかと……」
――『嫌われたかと思った』
「っ」
背後から響いた、不安をいっぱいに含んだ声に、昔喧嘩した時のことを思い出して足を止めた直後、背に微かな熱を感じて、アレックスは硬直した。
「……」
背にあたっているのは彼女の額だ。シャツを両手で掴まれている。何より――その言葉の意味。
(もう、いいよな……? 嫌われたかどうか気にしている、つまりフィルは俺のことを……)
「嫌う、訳がない。俺はずっと、」
やっと伝えられる瞬間がきた――
緊張に乾いた唇を舌でしとらせ、アレックスはずっと抱えてきた言葉を音にした。
「ずっと俺はフィルのことを好き、で……」
(顔が見たい、見て伝えたい――)
彼女に向き直ろうとアレックスは半身を翻す。瞬間、背にかかっていた負荷の方向がずれた。
(……? なんだ?)
よろけたフィルを咄嗟に腕で支える。
「フィル?」
「んー……」
違和感が頭を掠め、思わず顔を覗き込んだ彼女から届いたのは規則正しい、そう、『寝』息――。
「……こ、こで寝る、か、普通……」
肩が落ちてしまったのは仕方のないことだ、絶対に。
一体どうしてくれようかと不穏なことを考えながら、アレックスは後ろへと全身を向けた。
「……」
だが、視界に入れた彼女の顔にはほっとしたような微笑が浮かんでいる。その表情に昔フィルが『アレク』が見せていた信頼を思い出して、気を削がれた。そして決定打はいつも額の傷――
「……傷付けられないよな」
物理的に精神的に、何度も自分を救い上げてくれた人だ。この彼女を傷つけることはしたくない、できない。
改めて痛感した自分の弱さに溜め息を吐き出して、アレックスは彼女を抱きかかえるとベッドへと運んだ。その身を柔らかく落とし、乱れた髪を整えてやって、毛布をかける。
「……おやすみ、フィル」
それぐらいは許されるはずだ、そう考えてごく唇の近く、頬にキスを落とした。唇に触れたいという欲求も当然あったが、昔彼女のそこに許可なく触れた後ろ暗さも手伝って何とか思い留まる。
「うん……おやすみ、アレ……ク……」
「……」
その感触に応じたのだろう、半分目を閉じたままフィルが頬におやすみのキスを返してきて思う。
(そのキスは『アレク』に? それとも俺……)
ぽてっとベッドに転がってすーすー寝息を立てだした酔っ払いに聞いても無駄なのだろうが、なんせ警戒されてない、とアレックスはまた息を吐き出す。しかも……、
「警戒の具合が日に日に落ちていっている気がするんだが……」
* * *
翌朝、いつものように目覚めたらしいフィルは、テーブルに出しっぱなしのティーポットを見て首を傾げた。覚えていないようだと苦笑しつつ、起き上がったアレックスと目を合わせて、それでもフィルは顔を赤くし、視線を逸らす。
フィルの場合はこんなペースなのだろうと悟って、アレックスは思わず笑いを零した。
考えてみれば、理由の如何を問わず、警戒しなくてはいけないと最初に判断した相手に、直感だよりのフィルは恐らく気を許さない。
「おはよう、フィル」
「え、あ、お、おはようございます」
笑いかけると彼女は首まで赤くなる。
(つまり、フィルに好きになってもらうためには、警戒されずに彼女の側近くに寄れる、それが第一条件。そして俺はそれを既にクリアしているらしいから、もう少しだけ距離を縮めてみよう――)
そう、こうして手を伸ばして――。
桜色に上気したフィルの滑らかな頬に触れた。
「……っ」
彼女の動揺には気付かないふりをしよう。
「フィル、今晩一緒に夕飯、外に食べに行こう。いい店があるんだ」
そうして半歩近づこう、お互いの体温が感じられる、ぎりぎりの距離まで。彼女に自覚を促す、その為に。
「え、えと、……はい」
耳まで赤くして目を逸らすフィルに微笑みつつ、さらに半歩。お互いの呼吸の熱が伝わる距離へと、彼女が息をのんだことも知らないふりをして。
さあ、少しだけ強引に近づこう、君を手に入れるために。
傷つけないように、でも絶対に俺から逃げられないように――。




