5-7.贈り物
「あ」
フィルが椅子に掛けていた上着をつかんだ瞬間、内ポケットから小さな丸い物体が転がり落ちた。
自分の足元に転がってきたそれを何の気になしに拾って、アレックスは目を見開く。
「方位磁石……」
(これ、は……)
「ありがとうございます。ふふ、それ、いいでしょう? 宝物の一つなんです」
西方のなんですよ、とフィルが笑って差し出してきた手に、懐かしいそれを載せた。
「両親の親友という人達が贈ってくれたんですけど」
そう言って照れたようにフィルは笑った。
「一度も会ったことのない人達なのに、彼らが贈ってくれる物が楽しくて仕方がなくって、毎年それが届けられる夏が楽しみだったんです」
ひょっとして去年も届いていたのかな、とフィルは少し寂しそうに、そして愛しそうに手の中のそれを見つめている。
「一緒に地図も贈られてきて、おかげで迷子にあまりならなくなって。他の物は無理にしても、これなら小さいし持っていけると思って、一緒にザルアから旅をして来たんです」
(……贈ったのは、ザルア『地方』とカザック『国内』の地図だったはずだが)
一体どんな範囲の迷子なんだ、と密かに苦笑するアレックスの前で、フィルはその方位磁石を再び上着のポケットにしまう。
そしてクローゼットへと持っていってハンガーにかけ、「ちなみに」と振り返ってにこりと笑った。
「他に植物図鑑に寝袋――軽くって暖かくってお気に入りだったんです。他にはオテレットのセット。駒や盤がすごく奇麗で遊ばない時もずっと部屋に飾ってました。それから、軽くて細いのに切れないロープでしょ、一つで九つ便利な万能ナイフ、雪靴。あ、それ雪の上でも沈まないんです。それから……」
アレックスがザルアから戻ってきてから始まった、両親からフィルへの夏のプレゼント。あの頃はフィルが好きそうだとか、喜ぶだろうなとしか思っていなかったが、改めて聞いてみると、今年のプレゼントを何にしようと訊ねてきた両親が、毎年引き攣った顔でアレックスの選択を聞いていた気持ちがよくわかった。確かに変わっている、好きな女の子への贈り物としては。
「……」
アレックスは向かい合うように自分のベッドに腰掛けたフィルが、指折り数えて楽しそうにそれらを語る姿を見つめる。
宝石に宝飾品、ドレス、香水、それから花束。ちょっと変わったところで詩集などの書籍――その辺が、付き合いの関係で出席する夜会などで知り合った女性たちが欲しいと匂わせてくるものだ。
面白いもので、そうして物を贈り、受け取ることで特別な関係が始まったりする場合も少なくないらしく、何かが欲しいと女性がほのめかすのは、そういう関係になりたいという合図のこともあるようだ。
(……そういう駆け引き、しそうにないな)
死にそうな場面でいかに雪靴とロープが役立ったかを熱心に語っているフィルを見て、アレックスは小さく笑いを零した。
「フィル、もうすぐ十七だったな」
上機嫌のまま、フィルは首を傾げ、はい、と答えた。
「誕生日、何が欲しい?」
フィルが欲しがるならなんだって贈るつもりはある。会えない間、フィルはこれを喜ぶだろうか、と彼女の顔を想像しながら贈るのも楽しかった。だが、こうして側にいて、欲しいものを聞けることも特別な気がする。
「……え? え? い、いいいです、いいです。いつもお世話になっているのは私ですし」
「俺の誕生祝いのお返しをしたいんだが」
「だって、それだって私がいつも助けてもらっているお礼で……しかも結局一緒にご飯食べに行って、お茶しただけじゃないですか……」
落ち込んで顔を下に落とすフィルを見て、思わず苦笑した。
“だけ”じゃない。誕生日を祝いたいと、そのために時間をくれないかと誘ってくれたことが、どれだけ嬉しかったと思っているんだ。一緒に過ごしたその時間が、どれほど特別だと思っているんだ――。
「贈られると迷惑、とか?」
それは彼女がアレックスの誕生日を前に口にしたセリフと同じだった。
だが、彼女には誕生にまつわる特殊な事情がある。ひょっとしたら本当に祝いたくないのかもしれないと思いついて、アレックスは探りを入れる。
「ま、まさか嫌などとは決して……」
そう首を振った後、フィルはどこか寂しげに笑った。むしろかなり嬉しい、と。
「……うちでは誰かの誕生日を祝うことはなかったから、誕生会とか誕生日のプレゼントとか、結構憧れていたんです」
みんな気を使ってくれていたんでしょうけど、とボソリと呟いた顔がいつもより大分大人びて見えて、胸が痛んだ。そして、予想が当たったことに胸を軋ませた。
フィルの誕生のその日は、フィルの母の命日でもあるという。
彼女の祖父母はだからそれを祝うに祝えず、だが、それを隠したくて自分達の誕生を祝うことをもやめたのだろう。優しいあの人たちらしいと思う一方で尚更悲しくなる。
ベッドの上で視線を床に落とし、表情を失って何かに思いを馳せるフィルの前に膝を落とすと、彼女の膝の上の手に自分のそれを重ねた――そんな顔をしないで欲しい。
「フィルの特別な日だろう? だから、俺は祝いたい」
生まれてきてくれなかったら、こうして出会えなかった。こうして恋をすることが出来なかった。そして、きっと俺は生きながらに死んでいた。
のろのろと顔をあげたフィルが首を傾げる。
「とくべつ……」
亡くなったフィルの母親は両親、特に母と親しくしていたと聞いた。アレックスは小さい時に会ったことがあるらしいが、何一つ覚えていない。だが、とても優しい人だったと母が懐かしそうに寂しそうに彼女のことを語っていた。
きっとその彼女にとってもフィルは特別なのだから、そんな顔をしないで欲しい。
「そう思ってくれる人が他にもいたから、フィルはここにいるんだろう?」
フィルの父親の嘆きは凄まじかったという。自分の両親が仲の良かった彼を未だに心配しているのもなんとなくではあるが知っているし、フィルの兄の、祖父母の嘆きも想像に難くない。
それでもアレックスはフィルが生まれたことに、フィルの母が彼女を誕生させてくれたことに感謝する。老伯爵夫妻が彼女をこうして育てて、ここに導いてくれたことに感謝する。
「祝っていいんでしょうか、だって、誰も一度も……」
不安げな顔をしたフィルの頭を片手で宥めるように撫でた。
世界中の誰が駄目だと言っても、きっと自分だけはその日を慈しむ――。
「気になるなら、こっそり俺とだけ祝おう」
茶目っ気を見せて笑ってそう言うと、フィルは一瞬泣きそうな顔をしてから、はにかんで笑い、ぎゅっと抱きついてきた。
「……」
……嬉しいのだが、嬉しくない。嬉しくないのだが、嬉しい。
「あ……すみません」
抱きしめ返そうと思った瞬間に離れるのが残酷と言えば少し、いや、かなり残酷。
(……まあ、真っ赤になって離れただけ、進歩か)
顔を伏せて視線を左右に揺らすフィルの頭を、アレックスは二回優しく叩いた。
* * *
結局、アレックスはフィルの誕生日に休みをとって一日一緒に出かけた。
嬉しそうに笑う彼女に、知り合いには見せられないくらい顔が緩んでいるだろうという自覚はあったが、どうしようもなかった。
そしてそれだけで十分だと言うフィルに無理やり聞き出した欲しい物――王都カザレナの地図(手製)。
それは昔贈った方位磁石と共に今日も活躍している。少し寂しい気もするが、フィルが迷子にならなくなる日はきっと近い。




