5-6.憂いと喜び
相変わらずフィルがおかしい。
いや、彼女が予想にない言動をするのは元々(失礼なのは承知だが事実だ)だし、練習時などの様子は元に戻ったのだが、相変わらずアレックスは避けられている。
――ほら、今もまた目線を逸らした。
「……」
(原因はやはりあの夜か……)
期生別講義のために移動しようとしていたアレックスは、ヘンリックと話しているフィルがこちらに気付きながらそっと視線を外したことに気付き、複雑な気分になった。
緊張が途切れたのか、あの晩フィルはあのまま、つまりアレックスのシャツを握り締めたまま寝てしまった。
(この癖、やっぱり変わってないのか……)
喧嘩の後仲直りした時など、不安が解消された時にやるようだと気付いていたけれど、まさかこの年になって、この状況でやられるとは思わなかった。
何度も経験していることだが、信用されていると喜ぶべきか、それとも全く警戒されていないと嘆くべきかわからなくて長々と息を吐き出す。だが、ランプの明かりに照らされた寝顔は安心しきっていて、起こす気にはなれない。とりあえず彼女をベッドに横たえることにして、腕を膝と背に回し、その身を抱きあげた。
以前も感じたように、抱えたフィルは背の高さから想像されるよりずっと軽く、柔らかかった。立ち上がった拍子に肩におかれた頭がくたんとアレックスの首へともたれ掛かり、吐息が首を、髪の香りが鼻腔をくすぐる。
(――まずい)
さすがに理性を保てる自信がなくなって、アレックスは急いでフィルを下ろすと、握られたままのフィルの手を解そうとそこに手を重ねた。が、指に力を入れた瞬間、彼女の眉が小さく下がる。
「……」
ひどく悲しそうな顔に見えて、アレックスはしばらく停止した後、ため息とともに肩を落とした。
可能な限り距離をとって彼女の横に身を横たえると、枕元にあるランプに腕を伸ばし、火を落とす。
それから暗がりに白く浮かぶ、目の前の顔を見つめた。夜の静けさと薄闇、穏やかな寝息に既視感を覚える。だが、その顔は古い記憶の中と違って大人びていた。
そして、彼女の中でも何かが変わってしまっている。
(何があったんだろう……)
閉じられたまつ毛がまだ濡れていることに気付いて、アレックスはフィルの頬を包み込み、親指で瞼を撫でた。
老伯爵が亡くなったのは去年の春だ。国葬の場に彼女はいなかったし、両親からもザルアから戻っていないようだと聞かされた。だが、その半年後、フィルはディランと名乗って騎士団に入ってきた。そして今、居場所が欲しいと口にしている。
家族と連絡を取っている様子がないことを考えると、名を変えているのは単純に名乗れないからなのではないか。
(詳しい事情は分からないが、孤独を感じていることに多分間違いはない……)
「……」
変な意地など張らずにもっと早くフィルを会いに行っていれば、自分があのアレクだと名乗っていれば、こんな風に泣かせることなどなかったのではないかという後悔に襲われ、アレックスは唇を噛みしめ、フィルを抱き寄せた。
そして……――失敗を悟った、ほやほやとしか形容できない顔をしたフィルにぎゅっと抱きしめ返されて。
(成長、してない……)
もはや完全に拷問だった。
そういえば昔も全く同じことをされて、自分はやはりまったく眠れなかった、と思い出し、フィルもだが俺も九年近くまったく進歩していないということじゃないか、と逃避を兼ねて脱力してみたり、あの時とは違ってお互いに大人になっているというのにさすがにこれはひどくないか、フィル、と恨めしく思ったりで、結局一睡もできなかった。
だが……本当に嫌なら彼女を起こしてでも自分のシャツを掴む手をこじ開けてでも離れていたと思う。
彼女が“アレク”ではなく、“アレックス”の腕の中にいることがどうしようもなく嬉しくて、眠れないのか、眠りたくないのか、とにかく一晩中フィルの顔を見ながら夜を明かした。
目が合う度にフィルが微妙に居心地悪そうにするようになったのは、その翌朝からだ。
講義を終えたアレックスは昼食を共にとり、その足で午後の町の見回りへ行こうとフィルの姿を探す。
だが、水飲み場でカイトとヘンリックと話をしていた彼女は、アレックスが声をかける前に慌しく二人から離れていった。その後ろ姿をカイトが複雑そうに見送っている。
「……」
彼のその目つきに思わず息を吐き出した。ヘンリックと違って、彼のフィルを見る目にはただの友人には決して向けられない感情が混じっている。
いつだったか、彼がフィルの髪に触れていた光景――自分じゃない男が思いつめた表情でフィルに触れている、アレックスはその光景に思わず息を詰め、それから焦燥に駆られた。
頭についた綿毛を取っていたらしいと冷静に考えればわかるのに、自分の中の感情を持て余してしばらくフィルを避けた。嫉妬に駆られてやってはいけないことをするのではないかと。
理由はわからなくてもそれに気付いたらしいフィルが不審と不安を混ぜた顔をし、逆にアレックスにつきまとうようになったことですぐに反省して終わったのだが、カイトがそんなフィルを複雑そうに見ていたことにも、彼女と共にいるアレックスを苦々しく見ていることにも気付いてしまった。
「……」
今もこちらに気付いたカイトは息を飲むと、視線を瞬時に逸らす。
(やはり彼は完全にフィルを意識している……)
彼自身認められていないようだが。
フィルが騎士団の中で人目を引く一番の理由は、強さでも容姿でも行動でもなく、彼女の持つ空気だと思う。剣を握る時の触れる者の身を切り裂くような、研ぎ澄まされた空気は、剣を志す者には神々しさすら感じさせる。
だが、とアレックスは片眉をしかめた。
中身はあれだ。基本的に能天気で人懐っこくて、頭は悪くないが、世間知らずでお人よしで微妙に考えなし。身の回りのことにも頓着せず、奇麗な金髪もよく寝癖がついたまま台無しになっているし、無防備で身体的危害のない程度の悪意であれば気付かない。現にあのしつこい性質のスワットソンですら絡むのをかなり早いうちに諦めたようだった。
だが、そんなところが可愛いといえば可愛らしくて、そしてそれに気付く輩が出て来ても不思議はないように思う。……贔屓目であってくれればいいが。
(……まあいい)
フィルは例によって中庭に行ったのだろうと思い巡らし、アレックスは踵を返してその方向へと足を踏み出した。
カイトを始めフィルに特別な思いを抱いていそうな数名は、フィルを同性と思うがゆえに手出しできない、きっとそんなところだ。常識に縛られて何が本当か見る勇気がないならば、フィルを手にすることはないだろう。
(もっとも――仮に彼らにその勇気があったとしても、今更自分のもとからフィルを手放したりはしないが)
中庭の小さな噴水を覗き込み、その水で顔を洗うフィルの姿を見つけた。
昔、ザルアの森の泉で同じことをして足を滑らせた彼女がアレックスをとっさにつかみ、二人してずぶぬれになったことを思い出して少し笑った。
「フィル? どうした?」
かけた声に彼女は瞬時に頬を染め、困ったような顔で俯き加減に、それでも生真面目に返事を返してくる。
「あ、ちょ、ちょっと疲れて、や、休みに」
「……」
やはりあの夜、警戒させてしまっただろう。微妙にとられるようになったこの距離を寂しく思う反面、嬉しいとも感じてしまう。
そんなフィルの困惑に気付かないふりをして側まで近寄り、頭にぽんと手を置いた。
「昼食、まだだろう? 一緒にとろう。それでちょっと早めに出れば、見回りのついでに前フィルが世話になっていたという宿に顔を出せるんじゃないか?」
フィルが上気させたままの顔をぱっとあげて、嬉しそうに笑うのを見てアレックスは苦笑する。
フィルに出会ってから九年。フィルが入団してきて半年。やっと男として彼女に意識されるようになったことに言いしれない感慨を覚える。
自覚がまだないのは知っている。それでもフィルが自分を意識してくれることがこんなに嬉しい。
あとは、彼女がこんな顔を晒す相手をいかに自分だけにさせるか、ということだろう。




