5-5.兆し
「調子戻ったんだねえ」
午前中の稽古を終えて、フィルが水飲み場で顔を洗っていると、ヘンリックが笑いながら声をかけてきた。
「ええと……」
なんのことだろう、と首を傾げれば、苦笑いされる。
「だってここのところ殺気立ってたじゃない。怖くて近寄れなかったよ」
殺気、と繰り返してフィルは眉をひそめた。
「あんなにわかりやすく、しかもはた迷惑に悩むんじゃねえよ。お前に一瞬でやられた奴ら、自信なくして大変だったんだぞ」
カイトがタオルを片手にやってきて、袖で顔を拭おうとしていたフィルに呆れた顔でそれを差し出した。
「それで? 悩みは解決した?」
一瞬の間の後、音を立てるような勢いで顔を赤くしたフィルを見、カイトとヘンリックは顔を見合わせる。
「なに? 色っぽい話? ア……恋人、とか?」
「まじか……お前いつのまに。そりゃあ外回りに出始めてめちゃくちゃ人気出てるって聞いてるけど、いつそんな相手見つけたんだよ。ひょっとして、うまくいったのか? まさかもうやっ」
「カイトっ」
ヘンリックが慌ててカイトを遮ったが、フィルの耳には入っていない。
(いろっぽ……こ、こいびと……?)
そんな言葉に耳まで赤くして必死に首を振った。ただでさえそわそわしているところに拍車がかかる。
事の起こりはあの晩だ。アレックスを愚痴に付き合わせた後、フィルはさらにとんでもないことをやらかしたらしい。
……訂正する。やらかした……事実は潔く認めなければいけないと、爺さまも言っていたじゃないか……。
朝、小さく聞こえてくる小鳥の鳴き声に少しずつ意識を浮上させ、明け方の冷えた空気を感じながら、ほんの数分まどろむのがフィルの冬の習慣だ。
あの朝も小鳥のさえずりが聞こえたことまではいつもと一緒だった。ただ居心地があまりに良くて、普段なら少しずつ覚醒していく意識が、その時は中々そうならなかった。
居心地が良かったのは、残寒厳しい日が続いているというのに、まったく寒くなかったせい――。
『ん……』
寝ぼけたままフィルは温かくて幸せな気分で、その“温かくて幸せなもの”に思わず擦り寄り、そこでようやく違和感を覚えて薄目を開いた。
『……?』
そう、寒いわけがなかった……。だって、その朝フィルはアレックスの腕の中、にいたのだから……。
『っ!!』
一気に覚醒した。人生で最速の覚醒だったと思う。
『……』
目の前の、自分と全く違う硬い体と、自分の体を包んでいる比重の高い腕。それらの感触にガチガチに固まりながらも何とか目線をあげ、フィルは戦々恐々とアレックスを窺った。
するとタイミングの悪いことに彼は既に起きていて、しかもこちらに目線を向けていて――。
「ちょっと待て、吐けっ」という妙にテンションの高いカイトの声を振り切って、フィルは中庭へと逃げ込む。
小さな噴水があって頭を冷やすにもちょうどいい、喧騒から離れた中庭は、フィルのお気に入りの場所だ。背が高い木がたくさんあって薄暗いと嫌う人もいるが、森育ちのフィルにはとても居心地がいい。
「……うぅ。やっぱり赤い……」
そこでその噴水を覗き込んで、フィルは歪んだ水面でなおわかる顔の朱に落ち込み、ほてりを鎮めようとその水を手に取った。
居場所が欲しくて、ここまで来た。
誰かを守れるくらい強くなることで居場所はできる、ちゃんとなりたい自分になれる、そう信じてきた。
フィルにとって、剣と剣に相応しい使い手であることはそのために必要なことで、そしてそれこそが頼りだった。
でも、それすら自分の特別ではないとしたら……?
自分はここにも本当は相応しくないのかもしれない、そう考えたあの日、目の前が真っ暗になった。
強くあることの意味を教えてくれた祖父や、幸せになりなさいと優しく笑った祖母を思い出しても、剣を持つことは誰かを守ることだ、かっこいいと言ってくれたアレクを思い出しても、不安は消えてくれない。
『役立たず』
『出て行け』
『名乗るな』
父の視線と声が夢の中にまで追いかけてきて、それが『お前のような者に居場所などどこにもない』という侮蔑を含んだ断定に変わるまで長くはかからならなった。
そんなことない、諦めない、と必死になって稽古に打ち込んでみたけれど、何かが違うまま。
七年も遅れて剣を取ったアレックスを見るたびに焦りは加速していって、彼を避けるようになった。いずれその彼の横にいることだって出来なくなると思ったら、さらに何も手につかなくなった。
どうしよう、もう祖父母はいない。仲良しだった山守のロギア爺も逝ってしまって、メルとネルは彼を連れて山に還った。別邸の管理人夫妻にも兄にも会えない。アレクも見つからない。
誰も私を知らない、誰も私を知ってここにいていいとは言ってくれない。それはつまり本当は誰も“私”を必要としていないということじゃないか。
そんな中で頼りの、唯一誇れるものすら、実は自分の特別ではないとしたら、一体私はどうしたらいいのだろう、どうなるのだろう……――。
もう完全にだめだった。
底のない沼にずるずる沈み込んでいっているみたいで、息苦しくてどうしようもなくなっていた時だった、当のアレックスが声をかけてくれたのは。
「あの晩も落ち込んでた、んだよね……」
フィルは顔から水を滴らせ、揺れる水面を見つめる。
頭を撫でてくれる丁寧な仕草に、泣き言は言うまいとずっと気を張ってきたのに、つい口を開いてしまった。
泣くまいと思っていたのに、情けないと思うのに、結局泣いてしまった。それでもアレックスは根気よく話を聞いてくれた。
その彼に仲間だと、フィルの居場所はちゃんと騎士団にあると言ってもらえて、安心してしまったのだ。
そこに、ここのところあまり寝ていなかったことと泣いたことが加わって、あのまま……つまりアレックスのシャツを掴んだまま、寝入ってしまった、らしい……。
「うぅ……」
前にも似たようなことがあったけれど、あれは話をしていて手を繋いでもらっていただけだし、そもそもアレックスがそうしていいと……。
先輩にめそめそ愚痴った挙げ句、そのまま、しかもそのシャツを掴んだまま寝てしまうなんてつくづく情けなくなる。
優しいアレックスは落ち込むフィルを無碍にできなかったのだろう。その時の彼の困惑を考えるといっそ消えてしまいたいとすら思う。甘えるにも程がある。
何度も何度も迷惑をかけて、なのにその度に救い上げてくれる人、新たに見つけた大事な人、なのに……。
顔色はやっと“ちょっと血色がいい”程度のレベルにまで戻った。それを水面で確認し、フィルは胸を撫で下ろす。
「フィル? 何をしている?」
「っ」
(ああ、せっかく戻ったところだったのに……)
ちょうど考えていた人の声を耳にして、フィルはびくりと体を震わせた。
おそるおそる顔を上げた先から向けられている視線に、また頬が染まっていくのを自覚する。
「あ、ちょ、ちょっと疲れて、や、休みに」
何とか途切れ途切れに答えて、顔をアレックスから逸らし気味にした。
居場所の問題じゃない。彼の才能に焦っている訳でもない。
あの朝、目が合って不思議な熱のようなものを含んだ視線でフィルをまっすぐ見た後、アレックスは「おはよう」と言って微笑んだ、息が止まりそうなくらい優しい顔で。
――あれ以来、フィルはまともに彼の顔が見られない。




