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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第5章 湧出
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5-4.衝動

 開始の声を合図に、相手の剣がフィルの頭へと振り下された。重い金属の塊が空気を押し分けて進む独特の音がする。

 フィルはその剣を受けるわけでなく、よけるわけでなく、一歩踏み出すと相手の持ち手手首を軽く打ち、剣をひいた。流れるような所作に目を奪われる。

 相手が痛みに顔を歪めた瞬間には、フィルは既に剣尖を相手の喉元に突きつけていた。

「そ、そこまで」

 相手の顔にはもちろん、審判の声にも露骨な動揺があるというのに、彼女の目は刺し貫く気であるかのように相手の喉を見つめたまま――。


(一応加減はしているようだが……)

 本気であれば、最初の一撃で手首を折っていただろうし、と思いつつ、アレックスは溜め息を吐き出した。

 四月に行われる剣技大会の代表選手に選ばれてから、フィルの様子がおかしい。

(いや、正確にはその二日前からだ)

 下した剣を無機質に眺めるフィルを見つめて、アレックスは目を眇めた。


 あの日、練習後に鍛錬場の整備をしていたフィルは、談笑する同期たちの中で一人青白い顔をしていて、怪訝に思って近づくアレックスへと怯えるような顔を向けてきた。

 それからだ。彼女は何かに取り憑かれたように訓練に打ち込むようになり、しかも部屋でも訓練中でも巡回中でもアレックスと目を合わせようとしなくなった。まるで避けてでもいるかのように。

 最初戸惑いだった、そんなフィルへの感情は、次第に焦りに変わり、今や苛立ちにまでなってしまっている。


「あいつ、ここんとこ、マジでどうなってんだ……」

 アレックスとフィルの所属する小隊の長であるウェズが誰に言うともなく呟き、傍らに立っていたポトマック副団長が「訓練の動きではないな」と唸るように続く。


 誰もがフィルを遠巻きに見ている。元々剣を持った瞬間に空気が一変する人ではあるが、あそこまで研ぎ澄まされていると近寄りがたいどころか近寄れない。うっかり話しかけようものなら、その瞬間に切られそうな気がする。

 二ヶ月ほど前に人殺しを繰り返していたコーダという男を刺し貫いた瞬間の空気――あの時の鋭さとは比べ物にならないが、今回のも同種だ。


 あの屋敷でアレックスがフィルを見つけた時、彼女はおそろしくぎこちない動きで、傭兵上がりと思しきその男に対峙していた。

 人の限界を無視するかのような、狂気にじみた動きを見せる男に対して、フィルの動きは当初目を疑うほど鈍かった。だが、その後、狂ったように叫びながら剣を振るっていた男が、致命傷になりそうな一撃をフィルに繰り出そうとした瞬間のことだった。

 アレックスだけでなく、その場にいた小隊の仲間みなが男に切りかかろうと足を踏み出し、結局そのフィルに動きを止められた。

 彼女の空気は同じ瞬間に一変し、それこそ信じられないような速さと身のこなしで男の剣を掻い潜り、その胸を刺し貫いた。

 鳥肌が立ち、そして慄然とした。

 あの光景はアレックスの脳裏に鮮明に焼き付き、今もリアルに再現できる。だが、どれだけ思考実験を重ねても、あの動きを前にした時自分が逃げられるという気がしない。

 あの後、フィルは血まみれになりながら、自分が殺した男をただ抱きしめていた。涙こそ流していないだけでひどく悲しんでいる――そうわからなかったら、きっと他の仲間と同じように彼女に近寄れなかったと思う。


 フィルの剣の師でもある、アル・ド・ザルアナック老伯爵が彼女に何を期待し、何を課していたか、九年前になんとなく聞かされていた。だが、フィルのああいう姿を目の当たりにすると、自分と彼女の間にはまだ歴然と距離があると実感させられる。


「アレックス」

 自らの師でもあるポトマックの呼びかけに、アレックスは眉を寄せながらも頷いた。なんとかしろ、ということだ。

 フィルをアレックスと組ませたことといい、普段の彼女への注意の払いようといい、ポトマックの配慮には特別なものがあるように思う。アル・ド・ザルアナックの一番弟子でもある彼は、多分フィルのことも、自分との関係も知っているのだろう。

 その彼が一から十まで言わないのは、なんとかする、そう信用してくれているから……。


「……」

 イライラする。訳がわからないまま自分を避けるフィルにも、フィルに未だに追いつけず、師の期待に答えられていない自分にも。

 視線を上げると、自分の心と同じように厚い雲に覆われた空が目に入って、アレックスは顔をしかめた。



* * *



 アレックスがシャワーから上がると、先に上がっていたフィルは濡れ髪を拭きもしないで、ベッドに座っていた。空ろな表情で膝の上に置かれた自身の愛用の剣を見つめている。

(いっぱいいっぱいではあるんだろうな……)

 その姿が妙に頼りなく、幼く見えて、アレックスは自分の中にあった苛立ちに罪悪感を覚えた。アレックスも他の誰にも訳が分からないが、フィルにはフィルなりの理由があるのだろう。


 促されるようにアレックスはフィルの正面にまわり、膝を落とした。そして、九年前良くそうしていたように、膝の上に置かれた彼女の手に自らの右手を重ね、顔を覗き込む。

「フィル、どうした?」

「……どう?」

 ぼんやりとした調子で聞き返してきたフィルの目は、どこか焦点がうつろだ。


 アレックスの中に再び小さな苛立ちが生まれる。

(なぜこちらを、自分をちゃんと見ない――)

 ちゃんと自分を見てほしい、無理にでもこちらを見させたいという衝動を堪え、落ち着いた声を取り繕う。

「ここ最近、何を焦っている?」

 びくっと体が震えて、そこで初めてフィルはアレックスを見つめ返してきた。今にも泣きそうな顔になり、視線を揺らす。

「……っ」

 フィルにはひどく珍しい表情に胸を衝かれた。庇護欲をそそられて本能的に抱きしめようと動きかけた左腕を、彼女の座るベッドのシーツをぐっと握り締めて押しとどめる。

 フィルにはそんな意識はない。怖がらせるようなことは絶対にしたくない。


 不審がられないようにアレックスはゆっくり呼吸をし、抱きしめるかわりに彼女の頭に手を伸ばした。

 その指先がわずかに震えている――それに彼女が気付かないことを祈る一方で、気付いてくれないだろうか、とも思った。


 額に掛かる、柔らかい前髪をゆっくりと梳き上げ、そのまま軽く宥めるように頭を撫でる。そして今も鮮明にある額の傷を見て、自身の内の波を鎮めた。

(――そうだ、俺にフィルを手にする資格はまだない……)



 どれぐらいそうしていただろうか。目を閉じてされるままになっていたフィルがポソリと呟いた。

「アレックス、剣技大会に負けたら、私はもうここにいられませんか?」

 驚いて傷から目を離し、フィルと目を合わせた。

「っ」

 そこに涙が浮かんでいるのに気づいて、アレックスは息を止めた。ぶわっと汗が吹き出し、露骨に動揺してしまう。


 それをどう勘違いしたのか、フィルは深く俯き、掠れた声で「やっぱり」と呟いた。その拍子に、膝上の剣の鞘を握り締めている手に一滴涙が落ちた。

 その光景を目にした瞬間、怒りが湧き上がる。

「誰かがそんなことを言ったのか」

 ならばそいつはただでは済まさない。自分がこんなに大事にしている彼女を、そんな心無い言葉で傷つけたのなら絶対に許せない――。


 アレックスの尖った声には少しも気付かず、顔を伏せたままフィルは首を横に振った。

「な、何年も剣を習ってて、人より少しうまいのは当たり前で、で、でもアレックスやみんなの方が才能も体力もあって、だからきっとすぐ追いつかれて……私、にはそれしかないのに、そうなったら、私の居る所なんて、また無くなってしまう、ここしかない、のに……」

 詰まりながらぼそぼそと話した後、フィルはくしゃりと顔を歪めた。

(居場所が無くなる? また? ここしかない……?)

 彼女の言葉の意味を考えて、アレックスは思わず声を失った。

『その為にまずここで居場所を作らないと』

(じゃあ、この間のあのセリフ、あれはそんな意味で……)


 フィルの目からまた透明な雫が一滴、零れ落ちた。そこに指を伸ばし、ぬぐう。

「……」

 少しうまいだけじゃないだろう、と思う。自分なんて、特に実戦になればきっと彼女の足元にも及ばない。きっと年配の騎士でも、殺し合いの場でフィルに太刀打ちできる者など、数えるくらいしかいないだろう。

 才能が無い訳が無いだろう、と思う。現に男性優位なはずのこの場所で対等以上に渡り合っている。そのフィルの横に並ぶために、アレックスはあれから文字どおり血を吐くような日々を送ってきたのに。

 だが、きっとそんな言葉はフィルを救い上げない――。


 見下ろす先にあるフィルの濃い金色の睫が、その鮮やかな緑の瞳を隠して細かく震えている。


「大丈夫、そんなことにはならない」

 落ち着いた声で断言すると、それに応じてフィルは顔をあげた。

(フィルにとって問題なのは居場所、つまり自分の存在意義、なのか……)

 次々に湧いてくる雫に濡れる頬を撫でながら、もう一度繰り返す。

「大丈夫だ、フィル」

 この九年の間になにがあったのだろう。なぜ騎士団などに入ってきたのか。なぜザルアナックではなく、ディランと名乗っているのか。名乗れない事情があるのか……。

 相変わらずわからないことばかりだが、ただ一つはっきり言えることがある――こんな顔をさせていたくない。


 涙を湛えたままの深い緑色の瞳には、九年前にはなかった怯えが含まれている。視線はそれでも相変わらず真っ直ぐで、抱きしめたい、などと考えている自分には手が届かない存在であるかのように感じた。胸に微かな痛みを覚える。

「でも……」

「大丈夫だ」

 その痛みを敢えて無視して、彼女の目を正面から見つめ、言い聞かせるように再度繰り返す。


「俺が経験年数の同じ奴と戦って負けたら、フィルは俺に騎士団から出て行けと言うのか?」

 少し不快そうに言ってみると、目を目一杯見開いてフィルは必死に首を振った。それぐらいの意地悪は許して欲しい。

「じゃあ、フィルの同期たちは? カイトぐらいの経験なら近衛騎士とあまり変わらないと思うぞ」

 やはりフィルは首を横に振る。

「なぜ?」

「なぜって……仲間、です」

 仲間、という言葉にかすかな落胆を覚えた自分に失笑を漏らしそうになった。それを隠そうと、アレックスはフィルの頭を手のひらでポンポンと叩いた。

「じゃあ、フィルだって仲間じゃないか。大体うちの小隊はもうフィルなしでは語れなくなってきているだろう」

 そうからかうように笑えば、フィルはびっくりしたように瞬く。顔に徐々に安堵が広がっていき、最後には先ほどの顔が嘘のように、本当に幸せそうに、嬉しそうに笑った。

「……」

 その表情に胸を突かれる。

 居場所がないなら、俺の側にいればいい――本当はそんな言葉が喉までせり上がっていた。それを押しとどめたのは、あの日の『諦めない』というフィルの言葉。

 今のフィルの顔を見て、間違えなくてよかった、とアレックスは胸を撫で下ろした。


 吹っ切れたようなのも笑ってくれたのも嬉しい。だが、頼むからそんなに無防備にいないで欲しい。

(もっと、もっと俺を意識して……)

 そうしたら思うまま抱きしめて、今度こそどこにもやらないように腕の中に閉じ込めるのに。俺のものだと囁き、文字通りすべて奪ってしまえるのに――。

 彼女にそんな激情を悟られないよう、アレックスはゆっくりと息を吐き出す。


 それでも、愛しいという感情を抑えきることはできなかった。

 抱きしめてしまわないよう、だが、側から離すこともしたくなくて、アレックスはフィルの頭を引き寄せ、肩口に押し当てさせる。

 その手でフィルの後頭部を抱えるように撫で続けた。そして甘い香りに引き寄せられるままに、頬と唇をその柔らかい金の髪へと寄せた。

「……」

 おずおずと腕を伸ばしてきたフィルがアレックスのシャツの裾を握った。微かに口元を緩める。

(癖なのか……)

 昔喧嘩をして仲直りした後などにフィルがしていた仕草だったことを思い出した。


 窓の外は新月の闇。黒い影を見せる傍らの木の梢を、星々の放つ光だけがその輝きで彩っている。



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