5-2.不幸か幸か
(――とは言ったものの、どうしよう?)
すっかりお気に入りとなった自室ソファの上で、フィルは一人クッションを抱えて丸く座り、アレックスの誕生祝いを考えている。
当の彼は、今日はオッズに声をかけられて、どこかに出かけていった。性格はどこにも似たところがないのに、あの二人は仲がいい。
それにしても、と今までにしたことのある贈り物にフィルは記憶をめぐらせる。
まず思い浮かんだのは冠鳥の卵のかけらだ。半透明なのに虹色に光る奴で、婆さまのイヤリングになった。
高い崖の中腹に巣があって、もう巣立って雛はいないと思っていたのに、一匹残っていた。それで自分の体と同じくらいの大きさの親鳥にしつこく頭をつつかれて、危うく遙か下の激流に落ちるところだった。命綱がなかったら南の海に流れ着いて魚の餌になっていただろう。
次に手料理。爺さまにと思って一から全部材料をそろえて作ったシチュー。
入れる予定だったキノコにそっくりの毒キノコを入れてしまって、その後一日舌が痺れていた。そういえば爺さまは、食べる前に引きつった顔で、『味見はしたのか?』と訊いていた。首を振って『爺さまのだから最初に爺さまに食べて欲しい』と答えた時、彼の顔が青ざめていたのは予感があったのだな。さすが剣士。
ガ-ゴンラという魔物の爪。硬さや重さがちょうど矢じりにいいと言っていたので、山守のロギア爺に贈った。好んで人を襲う肉食の魔物だったから、集団に取り囲まれた時はどうしようかと思った。苦労して仕留めたのに、後ろを振り返ったらロギア爺に懐いている豹に似た魔物、ネルとメルが三倍の量を仕留めていて、ボロボロになったフィルを見てにやっと笑った。あれには泣きたくなった。
雪見草。庭いじりが趣味の別荘の管理人であるオットーの時は、冬に花壇を彩る花がないと嘆いていたので、図鑑を頼りに隣の領地の山まで捜しに行った。
思ったより雪が深くて、五泊の装備では足りなかった。通りがかりの猟師さんに拾ってもらわなかったら、おなかがすいて雪の中倒れて凍死していたかもしれない。
音楽の楽譜。オットーの妻のターニャに贈ったこれが、唯一生命の危機を感じなかったやつだ。『そんなのでいいの?』と訊いたら、『ええ、むしろ「そんなの」で! 普通……というより安全第一……っ』とターニャに涙ながらに喜ばれた?記憶もある。
「む」
だが、相手はアレックスだ。同年代で、フィルよりしっかりしていて賢くて、給料だって出世頭という奴らしいし、当然見習いのフィルよりずっと高い。しかもあれだけもてるのだから、きっと色々もらったこともしてもらったこともあるだろう。そういえばいいところの貴族だっていうし。
「うーん、どうせだから、びっくりさせたいよね」
(びっくりしたアレックス? なんて想像がつかない)
フィルは身を起こして口元に手をあて、考え込む。
「びっくりするもの……」
お化け――自分がびっくりするだけだ。そんなもの絶対捕まえられないし、大体アレックスは平気だと言っていた。
蛇――兄は気絶していた。だけどアレックスはきっと平気な気がする。
魔物――いきなり遭遇すればあれは驚く。だけどどうやって調達するんだ、王都の真ん中で。
「あれ?」
喜ばせよう、お礼をしようという主旨から離れていっていることにようやく気付き、フィルは「む、難しい……」とガシガシ頭を掻きむしった。
(私、アレックスのこと、全然知らないんだな……)
フィルはすぐ横の窓の外へと目を向ける。
もうすっかり日は暮れた。室内のランプの明かりを映して、窓がオレンジに輝いている。その向こうで黒い木の陰が風に小さく揺れていた。
(アレックスは何を喜んで、何を好むんだろう。何を厭うて、何に怒るんだろう)
「……」
知らないことを寂しいと思ってしまって、フィルは眉根を寄せた。
そうこうする内に数時間は経っただろうか?
「ただいま、フィル」
「あ、お帰りなさい、アレックス」
参考にならないかとアレックスの本棚を見て、あまりの難しさに撃沈し、私物を眺めて「シンプルなのが好きってこと以外分からない……」と呻き、悩みながらベッドをゴロゴロ転がっていたフィルは、扉を開いたアレックスを見て顔を綻ばせた。
小さく笑って部屋に足を踏み入れてきた彼から、ポンと紙の包みが投げて寄越された。
受けとめたフィルに、「土産だ」と言いながら彼はさらに笑う。いそいそと開いたその中から焼き菓子の甘い匂いが漂って、フィルはふにゃりと顔を緩めると、お茶を淹れに急いでソファから降りた。
上着を脱いで白いシャツ1枚になった彼が口元に笑みを浮かべ、すれ違い様に大きな手で頭をわしっと撫でてくれたことに、さらに幸せになりながら。
「あ」
簡素なキッチンで湯を沸かし始め、ホクホクと茶葉を用意していて、フィルははたと我に返った。
(……また喜ばされた)
匙を茶葉のポットに挿しこんだまま、目を瞬かせる。なぜアレックスはわかるのだろう。自分でも欲しいとは気付かないのに、彼がくれる物も言葉もフィルを喜ばせてくれる。
「フィル?」
そのアレックスが自分の名を呼びながらキッチンに現れ、フィルは思わず彼の顔を凝視した。
* * *
オッズと飲みに出かけて、いつものようにからかわれるのを適当に受け流す。
四年前の入団後しばらくしてから、オッズに好きな子がいると知られた。しかもそれがどこの誰とは一言も言っていなかったのに、先日にはそれがフィルだとばれた。
詳しい事情は何も訊かないのに、そうとわかってからオッズはさらにフィルに気を払ってくれている。
何もかも見透かすようで気に入らないはずのに、なぜか居心地は悪くなくて、こうしてしょっちゅう一緒にいる羽目になる。
それからお互いにベタ惚れだと思うのに、会えば言い争わないではいられないらしい、オッズの彼女、ジルベールの話も聞いて、仕返しにひとしきりからかって、店を出た。
途中、冷たい風の中に甘い匂いが紛れ込んだ。ふと思いついて立ち止まり、先に帰ってくれるようオッズに声をかける。
「土産か?」
「……」
(どうせ宿舎には帰らず、彼女のもとに行くくせに……)
その店から出た瞬間、寒空の中迷惑にも自分を待っていたオッズから、ニヤニヤと笑いかけられ、顔を引き攣らせたのは仕方がないことだと言いたい。
(それにしても最近本当に表情を乱すことが多い……)
表情を完全にコントロールできるように育ってきたはずなのに、とアレックスはため息を吐く。
「……お前の中ではどうせ決定事項だろう」
諦めたようにつぶやけば、オッズがそれでますます楽しそうに笑い、アレックスは夜空を仰いだ。
そんな苦労も、焼き菓子を受け取ったフィルがぱぁっと顔を輝かせるのを見れば、『まあ、いいか』と思ってしまう辺り、本当に重症だ。
「……?」
いそいそと茶を淹れに行ったその彼女は、だが戻ってこない。湯の沸く音がしているのに、それが止まないことも不審に思って、アレックスはキッチンを覗いた。
そこではフィルが難しそうな顔をして何かを考え込んでいて(経験上、今度は何を言い出すのか、と一抹の警戒を覚えたのは仕方がないことだ)、声をかけたアレックスの顔を凝視してから、おもむろに口を開いた。
「アレックスの好きなもの、教えてくれませんか?」
「……」
(好き、な……もの……)
それは色々な形に解釈できる言葉で、咄嗟に返事に窮した。
「色々考えているけれど、思いつかなくて……よく考えたら、私、アレックスのことをよく知らないなって」
そう言ってしょんぼりと視線を落としたフィルの姿に胸が詰まった。俺のために考えてくれているのか、と。
「アレックスはまったく聞かずに喜ばせてくれるから、ずるい気もするんですけど……もっとアレックスのこと知りたいです。そうしたらきっと何か思いつきますから」
「……」
知っているのだろうか? 俺がフィルを喜ばせようとすることの意味を。
自覚はあるのだろうか? 俺のことを知りたい、そう思うことの意味を。
「……っ」
少し頬を染め、申し訳なさそうに顔を伏せているフィルを見つめるうちに、体の底から抱きしめたいという衝動が湧き上がってきた。
(チャンス、かもしれない、想いを告げる――)
勝手に体が動きそうになるのを、ぐっと拳を握り締めて堪える。
「好き、なのは、そうしたいと思う人と一緒に時間を過ごすこと」
気付いて欲しい――そうしたいと思うのがフィルだということ。
ここにフィルがいて一緒に過ごせている、そのこと自体が俺にとってどれだけ幸せなことなのか。だから誕生日だけじゃない、フィルとずっと一緒にいたい――。
「家族とかオッズとか?」
「……」
……生憎と願いは儚くあっさり消えたが。
「ご家族はともかくオッズなら約束、取り付けられるかも」
ぶつぶつと呟くフィルを前に、確かに家族と過ごすと言ったし、今日だってオッズと出かけたが、と思わず苦笑する。
「当然フィルもだ」
気を取り直して、「一緒にいたい」と彼女の目を見て告げた。
(気付いて、もっと俺を意識して、フィル――)
「……」
目を見開いた彼女がふわりと顔を綻ばせ、それから照れてはにかむように笑った。その顔に歓喜が全身に巡っていく。
九年近い年月の果てに、やっと、ようやく、ついに、気付いてくれた――
かと思ったのに。
「じゃあ、じゃあ、一緒にご飯食べに行くとか、迷惑じゃありませんか?」
うきうきと。
「この前、美味しいお店をヘンリックの幼馴染のメアリーから教わったんです」
それはそれは嬉しそうに。
「もちろん奢ります、お礼ですから」
そして得意そうに、“お礼”だと……。
(だよな……)
思わず肩を落としてしまったのも、溜め息をついてしまったのも勘弁して欲しい。
「駄目ですか……?」
勘違いしたらしいフィルにうって変わって不安そうに見られて、アレックスは慌てて首を横に振った。
「嬉しいよ」
フィルが側にいるならなんだって。フィルの思考が俺のために占められているなら尚のこと。
自分をまっすぐ見上げてくる緑の瞳に、今度こそ抗えなくなって、アレックスは彼女に手を伸ばす。四指の先を横髪へと滑り込ませて、手のひらで耳と顎を包み込み、親指でその頬に触れた。
「食事の後一緒に戻ってきて、こうやってお茶を淹れてくれたら尚更」
指に触れる、吸い付くようにきめの細かい肌の感触。愛しいその人の吐息が、微かな熱を自分へと伝えてくる。
(――ダキシメタイ)
体の内に再び生じた衝動に逆らえず、アレックスは半歩彼女への距離を詰める。
「っ、もちろんです……!」
が、嬉しくて仕方ない!という満面の笑みと共に元気よく頷かれて、ぴたっと停止させられた。
「……」
(…………わざとか?)
「あ、じゃあ、ジルさんにケーキの予約を入れましょう! お茶の葉も新しいのを……!」
ウキウキとポットに湯を注ぎ始めたフィルを、そんなふうに一瞬疑ってしまったのは勘弁して欲しい。
「よし、行きましょう、アレックス」
「……そっちは俺が運ぶ」
トレーに茶器を並べたフィルの横に立ち、アレックスは彼女にばれないように長く息を吐き出す。
フィルは気付いていない――何気ない顔をして横に立っているアレックスの中に、フィルを腕の中に閉じ込め、あどけなさの残る唇を奪って、思うままにしてしまいたいという欲望があること。それに今も必死で抗っていること。
「ふふ、ありがとうございます。じゃあ、私はこっちを」
無邪気に笑いかけられて、体の芯で何かが燻り出す。
(好きなものが何かだって? フィルだ、誰よりも何よりもフィルが欲しい。君さえ手にできるなら、俺のものにできるならあとは何もいらない――)
彼女の唇を、姿態を見る目に欲望が映っていないか、気が気ではない。こんな穢れた欲にまみれていると知られて失望されたら、と思うと恐ろしくて仕方がない。
その一方で、早く気付いて欲しいとも思っている。そうしたら遠慮する必要はなくなるのではないか、そんなふうに思ってしまっている。
「アレックス」
――こんな俺の前でそんなに無防備にいないでほしい。幸せそうに見上げて、名を呼ばないでほしい。




