4-10.後悔
コーダの遺体を抱えたままのフィルを誰もが遠巻きにしている。怒りと悲しみが体の中でぐちゃぐちゃに渦巻き、殺意にごく近いものになっているのがわかる。わかるのにそれを収めることも出来ない。
周囲から置かれる距離が、幼い少女の願い一つまともに叶えられなかった自分に相応しい気がした。
「フィル」
静かに名を呼ばれて、フィルは小さく体を震わせると、のろのろと視線を上げた。
近寄ってきたアレックスが強張ったフィルの腕をゆっくりとほぐし、亡骸を受け取る。そして、その身を生きている人にするかのように丁寧に地面に横たえた。上着を脱ぎ、血まみれの上半身へとかける。
「……」
それをフィルはただじっと眺めていた。
「戻ろう」
再び立ち上がってフィルの前に来たアレックスに宥めるように頭を叩かれて、その瞳を見つめる。
「……」
いつもと変わらない、深い深い青色――それを見つめるうちに体の感覚が徐々に戻ってくるのを感じて、フィルはようやく息を吐き出した。
* * *
星の瞬きが聞こえてきそうに静まり返った深夜。アレックスに就寝の挨拶をして、部屋の明かりを落とし、フィルはベッドに横になった。だが眠れる気は全くしなくて、天井をひたすら見つめる。
とても、とても長い一日だった。あれから長時間に渡った聴取は、ほとんどアレックスがこなしてくれた。
『なぜ“緑の屋敷”に行った?』
『あの盗賊と知り合いだったのか?』
退役も近いと言われている第二十小隊長にそう問われて、自分でさえわからないものをどう答えようと言葉に詰まったフィルを救ってくれたのは、アレックスだった。
『ディランの髪と目があの盗賊の動機となった少女に似ていたようです』
『偶々裏町を歩いている時にその少女の親戚かと声をかけられて、昔“緑の屋敷”に住んでいた者に囲われることになって町を出た少女の名と、それまで一緒にいた少年の存在を知った、それが発端です』
“緑の屋敷”であの盗賊がフィルを見てその少女らしき者の名を呼んだこと、その屋敷での一件から盗賊の行動が変わったこと、被害者の共通項、そして聞き及んだ例の少女の境遇から、盗賊はその少女に関わりがあったと推測した、そうアレックスは淀みなく答える。
フィルが驚いてアレックスを見つめると、目線で合図が返って来て、それに甘えてフィルは口を噤んだ。
後は時折振られる質問に機械的に答えていただけ。サーシャは既に死んでいるのだ、しかも何十年も前に、十二歳で、と考えながら。
フィルは閉じた両目の上に前腕をあて、口の両端を下げた。
なぜかも何がどうなっていたのかもわからないけれど、サーシャの笑った顔が鮮明に瞼の裏に浮かんでくる。
自分によく似た幼い少女。初めて彼女が微笑んでくれた時、嬉しくて有頂天になった。差し出したサンドイッチを嬉しそうに眺めていて、そんなことぐらいでそんな風に笑うならどんな手助けだってしようと思った。幸せそうな顔を見せてくれた時は、泣きたくなるくらい感動した。兄のようだと言われて、自分もサーシャを妹のように感じていたから、本当に嬉しかった。孤児院に連れて行って、そこで馴染めないようなら引き取る気だってあった。
既に死んでいると言われても信じられない。もう存在していないと言われても、理解できない。でも同時に不思議な感覚が告げてくる。きっともう二度と彼女には会えない。
皆の前でサーシャの話をしなくてすんだことに感謝する。サーシャはフィルが恐れる幽霊というものだったのかもしれない。それでもフィルの中で彼女はこんなに鮮明で、その大事な彼女のことを怪訝な顔をされるとわかっているのに他人に話したくはない。
(アレックスは私がそう考えるって知ってたのかな……)
よくは判らないけれど、また彼に救われたことは確かだった。あの盗賊団の次の狙いがあの屋敷だと予測したのはアレックスだったから、ただでさえ彼は話の中心におかれていた。そんな中で自分にまで気を回してくれたことをフィルは密かに感謝する。
「……」
眠れないまま、フィルはころりと壁の方へと寝返りをうった。
(コーダはサーシャに会えたのだろうか……)
そう考えてから、それはそうあって欲しいという自分の希望だと気付いてフィルは顔を歪める。
『ただずっと一緒にいられればそれでよかった』
多分サーシャも同じだったのだ。そしてその為に一生懸命だった。なのに、引き離された。だからその原因となったのであろう自分の外見を疎んだ……。
『俺の名を呼んだのにっ、何も出来なかったっっ!!』
一体どれだけコーダは自分を責めたのだろう? 自分ゆえに苦しむコーダをサーシャはどんな思いで見ていたのだろう?
『笑わなくなったっ』
そのサーシャをコーダはどう見ていた? そして、そのコーダをサーシャはどんな思いで……。
『しばらく避けている間にあそこから身を投げて死んだとっ』
あの時のコーダの、後悔を含んだ絶叫が耳から離れない。
「優しい、子……」
サーシャの言葉を口の中で繰り返して、フィルは唇を引き結ぶ。
その優しさゆえに狂った人。それゆえに多くの罪を犯し、たくさんの人を苦しめ、彼らの人生をも狂わせた人。
それでもあの狂った暗い淵から引きずり出したかった。サーシャの願いだからというだけでなく、フィル自身が――。
(なのに失敗した)
ぽろっと涙が零れて、次いで嗚咽をあげそうになる喉をフィルは必死で引き絞る。
結局彼を殺してしまった自分にそんな資格はない、と歯を食いしばって耐えようとして、
「眠れないのか?」
隣で身を起こしたアレックスにそう声を掛けられ、フィルはさらに顔を歪めた。
(返事をしなくては……)
そう思うのに、口を開けば泣き声が零れ出る予感がして、戦慄こうとする唇を噛み締めた。
「……」
暗闇の中で、彼がそんな自分を見ている気配がする。
「フィル」
その彼にゆっくりと名を呼ばれて、フィルは何とか身を起こしたものの、再び涙を零した。
乾いた音と共にフィルのベッドに枕が投げられ、立ち上がったアレックスが毛布を片手にこちらのベッドへと腰を下ろした。
濡れた頬にアレックスの手がゆっくりと伸びてきて、そこを優しく撫でられる。
「どんな子だった?」
そして緩やかに問いかけられた。
「っ」
小さなサーシャのことも、彼女の幼馴染であるコーダのことも、フィルはあらかじめアレックスに話していた。
昨晩フィルより年上のあの男をフィルがその『コーダ』と呼び、サーシャの一つ下の大事な子として会話していたこと、そしてあの男がそれに応じていたこと――その異常と、それゆえ推測されるサーシャとフィルの異常にアレックスが気付かない訳はない。なのに、それを指摘したりせず、彼はサーシャをあくまでフィルの大事な友達として扱ってくれる――。
「……いい、子……でし、た……」
ポロポロと涙を零しながら、それに感謝をして途切れ途切れに答えた。
「……そうか」
右頬に添えられたアレックスの左手。その長い親指が、次々にあふれ出る雫を緩やかに丁寧に拭っていく。その仕草がコーダが死に際に見せた行動に重なって、駄目だと思うのにさらに涙が止まらなくなる。
「ごめ、な……さ」
「気にしなくていい」
間近で響くアレックスの声と空気がゆっくりと、けれど確実に全身へと満ちていく。
一晩中、アレックスは壁に背を預けてフィルと並んでベッドの上に座り、黙って話を聞いてくれた。
隣り合う手を握ってもらって、そうして涙も涸れてようやく話すこともなくなった明け方近く。フィルはアレックスの肩へと頭を寄せたまま、そこから伝わってくる温もりに誘われるように、穏やかに眠りについた。
八年間で初めてのことだった。どうしようもなくつらい時、押しつぶされないようお守りのように呟いていた親友の名を呼ばないまま、落ちるように眠りの淵に誘われたのは。




