4-9.想う
※犯罪描写/残酷描写あり
「サーシャ」
古い屋敷の大きな庭の一角。暗闇と、冬にはあり得ないはずの生暖かい空気がたゆたうその向こう。木立の暗がりに溶け込むかのように存在を消し、屋敷の屋上を眺めていたあの男は、フィルに向かってもう一度そう呟いた。
おもむろに頭と顔の覆いを外し、顔を大きく歪ませる。泣いているようにも笑っているようにも見えた。
「……」
男は唇を細かく震わせ、フィルへとゆっくりと近寄ってくる。その間も目線が全く逸れない。星々の光が彼の髪と瞳をつまびらかにする。
(茶色の癖毛、水色の瞳……)
フィルは唇を引き結んだ。おかしいと思うのに判ってしまった。
サーシャは『間違えた』と。それがあのサミのことで、つまり、このフィルよりはるかに年上の男こそが『本物』――サーシャより一つ年下の、コーダ、だ。
「サーシャじゃない」
フィルは掠れ声を返しながら剣を鞘から抜いた。男の左の二の腕から滴り落ちる血の匂いが、周囲の緑と土の匂いをかき消していく。
小さなサーシャが守りたいと言った“コーダ”が、今“成長して”、他者を閉じ込め、虐げる者を殺してまわっている――。
『いいの、このままで。だって奇麗にしたら……会えなくなる』
誰にと尋ねたフィルにサーシャは口を閉ざし、身奇麗にすることを当初頑なに拒否した。
『身内や親しい者が被害にあったという可能性も』
アレックスの言葉を思い出して、フィルはギリっと奥歯を噛みしめた。
「……頼む、大人しく捕まってくれ」
心臓が無数の氷の針で突き刺されていくような気がして、搾り出すように懇願する。
だって知ってしまった。彼に大事な人がいるということ、彼を大事に想う人がいるということ。そして、それゆえの凶行だということ。
フィルが今まで殺めてきた人にもこれから殺める人にも、きっとそういう人がいる。剣が重くなるのはいつもこんな瞬間だ。あまりにむごい。
「……」
フィルを凝視していた男は、自分に向けられた剣を目にするなり表情を消した。そして、屋敷へとうつろに視線を彷徨わせた後、フィルにもう一度焦点を戻し、手にしていた剣を正眼に構える。
「フィルっ」
追いついてきたアレックスと小隊の仲間達の声が聞こえ、その男は「本当にサーシャじゃないんだな……」と呟く。
その顔はひどく寂しそうで、どこか……壊れて見えた。
「っ」
男の空気が一瞬で変わった。有り得ない速さで間合いを詰められ、フィルは辛くもその剣を弾く。
「あんな奴らを殺さない道理などない」
すさまじい速度で繰り出される剣撃に、フィルは知らず守りに回る。反撃のために体が勝手に反応しようとするのを、別の部分が不自然に抑えている感じがして、うまく動けない。
「フィルっ、何をしているっ」
ウェズの戸惑ったような、怒ったような声が響いたが、目を向けることも出来なかった。
「お前が殺めた者の中にはただの使用人もいた」
「見て見ぬふりするなら同じことだ。我が身可愛さに他人の、小さな子供の不幸を見過ごす奴らなど生きている資格はない」
「彼らにだって守るべき大切な人がいる」
「犠牲になる者にも大切な者はいる。知った話じゃない」
剣戟の合間に言葉を必死で探すが、返って来るのは斬って捨てるような物言いで、フィルは顔を歪めた。
足元で砂利が音を立て、両者の剣が時にかち合い、時に空を切る。
「サーシャが……泣いていても、」
ギギッという音と共に剣を押し合った。正面からぶつかり合う相手の力と自分の力が振動となって、互いの体に伝わってくる。
「それでもお前は自分が正しいと言うのか」
「っ」
だが、フィルのその一言で、明らかに男の空気が変わった。
「お前に何がわかるっっ」
危険を察して咄嗟に間合いを取り直したフィルへと、男は大きく踏み込んできた。絶叫と共に恐ろしい速さで剣を上段から振り下ろす。
「……っ」
異常な速さに避けられないと判断すると、フィルは左手を添えてそれを正面から受け止めた。
「どこで知ったか知らんが、軽々しくその名を口にするな……っ、正義面するだけの役立たずの騎士風情がっ」
狂気と憎悪に染まった目の前の水色に体が震える。
「ずっとっ、ただずっと一緒にいられれば、それでよかったっ……ちょっとだったんだ、俺の誕生日だからって、あそこからちょっと出てみようって、すこしだけ奇麗にして…………っ」
押し合う剣の向こうから響いた声は、身を引き裂かれているかのようだった。
『コーダ、ずっと一緒にいよう、だからこれも半分こしよう』
「無理やり連れて行かれて、この屋敷に忍び込んでやっと見つけたと思った時っ」
悲鳴のような声と共に男は剣を引いた。次の一撃がフィルの腕を掠め、焼けるような痛みを脳へと運んでくる。
「玩具のように弄ばれていたっ」
「っ」
痛みが全身に広がっていく。
『コーダ……っ』
「俺の名を呼んだのにっ、何も出来なかったっっ!!」
『コーダ、これで何か買うといいわ……』
「食うに困らないのに、奇麗に着飾っているのにっ、笑わなくなったっっ」
「しばらく避けている間にあそこから身を投げて死んだとっ、まだ、たったの十二歳だったっっ!!」
「……っ」
悲鳴のような咆哮を耳にした瞬間、最初に出会った時の少女の顔が思い浮かんだ。煤だらけで、何の表情もない――。
「そのサーシャが、やめろなどと言う訳がないだろうっ!!」
「っ、あるっ」
『コーダが好きなの』
だって最初のあの顔じゃなかった。コーダを思って彼女は笑って、そして……
――助けて……。
「お前のために泣いていたっ」
「っ、訳のわからんことをっ」
「フィルっ!!」
剣を押し込んできていた男が一瞬引き、体勢が崩れた。アレックスの叫び声が響く。顔を歪めるフィルの視界に、突きを繰り出そうとする男の姿が視界に入る。
まずい、そう悟った瞬間――
「コーダっっ!!」
そう、その名を叫んで……、
「……」
気付いた時にはフィルの剣は彼の胸を刺し貫いていた。
片膝をついたフィルの眼前。闇の中で微かな光を放つ白刃を、ゆっくりと赤い粘液が伝い降りてくる。
それはやがて柄に達し、そこを握るフィルの手を生温く湿らせた。
(……ああ、また私は、取り返しのつかない、こと、を)
唇が戦慄き出す。
「……」
剣に貫かれたその男はフィルを呆然と見つめたまま、その刃を素手で握った。手が切れることをかけらも気にせず、一気にそれを引き抜く。
「っ」
赤い液体が噴き出し、フィルの顔を紅く染めた。同時にフィルは剣を手から取り落とす。
コーダの視線はその間もフィルを捕らえたまま。ゆっくりと血まみれの手を伸ばしてくる。
「名前、俺の……」
彼は膝を崩し落とすと、その手でフィルの頬に触れる。そこから微かな振動が伝わってくる。
目の前の水色、絶望と狂気しかなかったコーダの目に微かな正気が見えた。そこに宿るのは縋るような色だった。希望を見出したいという、人の持つ根源的な願望――それが悟らせる。
(ああ、そうか、その日からずっと彼はサーシャを探していた……)
それなのに自分は彼を殺してしまった――サーシャは助けてと言っていたのに。
『頑張って大事にするの』
「……コーダ」
(ごめん、サーシャ、失敗、した……)
フィルはくしゃりと顔を歪ませる。その瞬間、同じ顔をしたコーダに力強く抱きしめられた。生暖かい生臭い液体が胸へと徐々に沁み込み、そこからぬらりと肌を伝って全身へと広がっていく。
「そう、だ、コーダだ……」
何かを確かめるように男がつぶやいた。
『コーダが好きなの』
あの日、夕刻の運河のほとりで見た、サーシャの幸せそうな横顔が脳裏に浮かんでくる。体が大きく震えた。
「……た、まご、」
縋るようにコーダを抱きしめ返すと、フィルは声を絞り出す。
贖罪にはならない。けれど、せめて、せめてちゃんと伝えなくては――。
「それから、イチゴ、木の実の入った焼き菓子、」
声がみっともないくらいに震えているのに、どうにもならなかった。
「……」
震える血まみれの指がフィルの頬に伸ばされ、ゆっくりそこを撫でる。ぬるりとした感触が広がり、生臭い臭いが鼻に届いた。それでもその仕草は泣きたくなるほど優しくて、まるで存在を確かめるように何度も何度も繰り返される。
「……っ」
大事だと、愛しいと伝わってくるその頬の感触に胸が張り裂けそうになる。
「もっと……もっと話して……」
泣きそうな顔、それでもその中にある目はひどく優しくて、それこそがとても悲しい。
震え出しそうになる気管を懸命に押さえつけて、再び声を搾り出す。
「そばかす、とえくぼ、は消えた、の……か……」
男は顔をぐしゃぐしゃに歪め、再びかき抱くようにフィルを抱きしめた。
腕から、体から、声から、伝わってくるのは愛情――どうしようもないほどの。自分が受けるべきではないそれらにフィルは唇を引き結ぶ。
「やっぱりサーシャじゃないか……」
首筋に男の途切れがちな息がかかる。そこに命の終わりの臭いを嗅ぎ取ってフィルは眉をぎゅっと寄せた。
「会いたかった、ずっと会いたくて、謝りたくて……こうして……抱きしめたかったんだ、サーシャ……」
「っ」
ふり絞るかのような声に、フィルも男を抱きしめ返した。音にしないようにしているのに、嗚咽を止められない。胸に感じる、吹き出す血の勢いが少しずつ弱まっていく。
「……ちがう、よ。サーシャは、この先の裏町、運河の赤い跳ね橋の近く……」
(ああ、もっと、もっと強ければ、よかった……そうすれば、結果は違っていたかもしれないのに……)
声が掠れ、フィルは強く眉を寄せた。
「コーダの話を……」
(あと少し、お願いだから、あと少しもって。今泣くわけにはいかないんだ。せめて……せめて、ちゃんと伝えたいんだ)
「お前の話を、私に楽しそうに聞かせながら、サーシャは今でもお前を待っている……」
(彼女は、サーシャは今もあなたを想っているって――)
「……そう、か」
抱きしめられる力が段々弱くなり、男の体がもたれかかってくる。それに息が詰まって、出来ないと知っているくせにその分を補いたくて、フィルは彼をさらに強く抱きしめた。
「懐かしい、な……」
混濁しているらしい意識の中、男は微かに笑みを浮かべる。綺麗に、幸せそうに笑うその顔に、泣き声を押し出そうと勝手に喉が震え出す。
「じゃあ、すぐ迎えに行ってやらないと……あいつ、すぐ……迷子、になる……んだ……」
そう呟いて彼は全身からその力を失った。




