4-3.窒息
目を合わせてはいけない、同じ部屋にいてはいけない――そう告げる理性に従ってアレックスは部屋を出た。
後ろ手にドアを閉め、押し殺していた息を吐き出すと同時に、無意識に彼女の名がこぼれ落ちた。耳に入ってきたその音に胸が軋んで、逃げるように場を後にする。
(誰かに会って来た? それでそんなに嬉しそうに笑っている……?)
フィルはいつもフィルに起きた特別なことをアレクに、アレックスに話す。だから、それこそが特別な証なのだと安心していた。だが今回の件についてフィルは何も言わない。それに不安が掻き立てられる。
フィルに相応しい強さをまだ手に入れていない以上、彼女を欲する資格はまだない、そう考えていた。しかもフィル自身まだそういう感情をよく知らないようだから、と……。
(――そうやって悠長に構えている間に、誰かに……?)
「っ」
顔を歪め、イライラと髪をかき上げて、アレックスは宿舎の外へと向かう。
(今夜は戻らない方がいい。でないと間違いなくフィルを泣かせてしまう。それはたとえそれが俺であっても許さない――)
そうしてアレックスは街の雑踏へと紛れていった。
その翌朝。
「あ、おはようございます、あと、お帰りなさい、アレックス」
ようやく平静を取り戻して――正確にはそれを装えるだけ頭を冷やして、明け方戻ったアレックスを、既に起きていたフィルはいつもの挨拶と共に迎えた。
「……おはよう、フィル」
顔を引きつらせまいと、やはりいつものように挨拶を返したアレックスに、フィルはお茶を差し出しながらあっさり訊ねる。
「昨日どこに行ってたんですか?」
「……」
含むもののない、ただ疑問に思ったから訊きました、というフィルの顔に、アレックスはついに隠し切れなくなって、盛大に顔を引きつらせた。
(人が訊けない質問をあっさりと……)
同時に、昨夜花街にいったん足を踏み入れたものの、寸前で思い直したことに胸を撫で下ろした。
目の前にずっと恋焦がれてきた人がいる。それは幸せだが、その人に触れることができない。
好きで仕方がない彼女が笑いかけてくるのは嬉しい。だが、抱きしめることは許されない。
無防備に寝顔を晒されたりすると可愛いと思う一方で、頬にキスを落とすこともできない。
そんな四ヶ月はさすがにきつくて、その手の欲求は当然のように溜まっている。そこに加わった苛立ちも手伝って、そんな場所の眼の前まで行ったのに、ふとフィルの顔を思い出したら、どうしてもその気になれなくなって……。
だが、もし行っていたら、フィルのこの質問にきっととんでもなく動揺していただろう。
自分は結構健気だったらしい。そう思い知って、アレックスはため息をついた。
「……師の家を訪ねて、そのまま泊まった」
ほとんど話もしないで黙々と一緒に酒を飲んでいただけだが、楽にはなった。
「アレックス、」
フィルにじぃっと見つめられるが、強いその視線が今はきつい。アレックスは咄嗟に目を逸らす。
「何かあったのですか?」
「……っ」
(昔からこうだ。とんでもなく鈍いくせに、本当にきつい時はこうして気付く。理由なんか全然わかってないくせに――)
それでも、それはフィルがアレックスをちゃんと見ていてくれることの証明に他ならない。心配を露わに真剣な面持ちで自分を見つめてくるフィルに、アレックスは息を吐いた。
「いや、何も」
苦笑してフィルの頭に手を置けば、手の下で目をみはった彼女は首を傾げた。それからアレックスを見つめ、はにかんだように笑う 。
「……」
その顔で少しだけ呼吸が楽になる。
(大丈夫、フィルは今こうしてここにいる、俺を見ている――)
言い聞かせるようにそう繰り返して、腕を伸ばせば簡単に手に入る場所にいる彼女から、アレックスはもう一度意識を逸らした。
* * *
(アレックスがおかしい……)
いや、私には言われたくないかもしれないけど、と自分で突っ込みつつ、フィルは口をとがらせる。
いつも部屋に戻らない時はそう告げていくのに、昨日の夜は何も言わないまま、部屋に帰ってこなかった。ひょっとして“彼女”だろうかとも思ったが、この間の件があるのでその話題には触れないことにする。凍り死にたくはない。あれは恐ろしく寒かった。
それにしても、“アレックスの彼女”と考えた瞬間、即眉が寄ったのには正直参った。自分が構ってもらえなくなるからって、大恩ある大好きな人の幸福を祈れないなんて、我ながら最悪だ、と落ち込んでいる。
とにかくそのアレックスは朝戻ってきてからもどこかおかしい。
気になって何かあったのかと訊いてみたのだけれど、彼は苦笑しながら何でもないと言うばかり。そのくせ絶対に目が合わない。フィルがアレックスを見れば、いつも彼はすぐに気付いて笑ってくれるのに。
任務のために“緑の屋敷”に向かっている今も口数が少なくて、いや、いつも多くはないのだけれど、話しかけても上の空というか……。
なんせ今までの経験上なかったことなので、フィルはアレックスにばかり注意を向けていた。それで忘れていたのだ――そこが幽霊屋敷と呼ばれていることを。
(あれ、こっちの方角はサーシャとよく会っている……)
フィルにとって初の個別案件である今回の派遣先に向かう中、唐突にそう気付いて偶然に首をひねった。
「……」
周囲に木々の匂いが漂い出した。源を辿るようにして着いた先、古びた鉄柵とドラゴンの頭を戴いた石彫りの門柱から成る入り口の前でフィルは立ち尽くす。
足が竦む――それがその場所の第一印象だった。
屋敷の敷地は広大で、古い木々を含む鬱蒼とした緑で覆われており、小川のせせらぎも聞こえてくる。
緑は好きだ。水辺も大好きだ。でも……何かがおかしい。
屋敷の門をくぐろうとしないフィルを皆が怪訝な顔で振り返った。彼らに引きつった顔を向けてへらりと笑い、フィルはゴクリと唾を飲み込むと足を踏み出した。
(この感じ、一体何なんだろう……)
案内された豪華な応接室で、消えてくれないどころかさらに強まった妙な気配に、フィルは額に汗を滲ませる。
同行を希望したアレックスを連れてイオニア補佐が屋敷の主人に会いに行っている間、フィルは勧められた椅子に腰掛けることもなく、壁に背をつけてピリピリとしながら立っていた。
「これ、300年前のアザレア朝時代の家具だ」
元々骨董屋の息子でアンティークに詳しいザルクが部屋中を見て回り、それにヘルセンさんがくっついている。オッズは「腹減った」と出された茶菓子を摘まんでいて、ミルトさんは窓の外から庭園を眺め、「あの木、いいなあ」などと庭いじりを趣味とする人らしい感想を漏らした。残りの仲間たちは邸内の様子を見てくると、屋敷の人に案内を頼んで出て行ってしまっている。
「おい、フィル、アレックスと喧嘩でもしたのか?」
「っ」
突然話しかけられて、フィルはびくっと文字通り飛び上がった。
「なんだあ?」
いつの間に近寄っていたのか、オッズが面白そうな顔を隠そうともせず、フィルを眺めている。
「あ……え、と……アレックス、ええと、はい? ああ、いえ喧嘩など、そんな恐れ多いこと有り得ません」
そう言うとオッズは呆れたような溜息をついた。
「じゃあ、お前、なんでそんなにビクついてるんだ? あいつはあいつでちょっとおかしいし」
「え……」
(オッズの目から見ても、アレックスはおかしいのか……)
「こじれたかな」
「いや、何かあればアレックスはともかくフィルはあれぐらいですまない気が」
「ちぇ、せっかく不安を煽ってみたっていうのに……」
「アレックス、自制が効き過ぎるからな」
周囲がニヤニヤしていることに気付けず、フィルは視線を揺らした。
「アレックスは、その、ええと……」
さっきから彼と目が合わないことも落ち着かない理由のような気がする。
(なんかほんと情けない……。ああ、でも今考えるべきは仕事のことだ)
「そうじゃなくて、緊張しているのは、その……」
言うべきか言わざるべきか? 何かおかしい気配があると……。
「わかった、幽霊が怖いんだろう?」
「え゛?」
ミルトのにやつきながらの一言にフィルは固まった。
“お化け”――それが祖父母と管理人夫妻、アレク以外は知らないフィルの弱点だ。
(ま、まずい、そんな情けないこと、知られたくない……。大体爺さまも、怖がるのは構わないが表に出すな、それゆえに判断を鈍らせるなと言っていたじゃないか……!)
「ま、まさか。その、えと、初の特務なので……」
「だよな。ザルアの山奥で凶悪な魔物なんかを相手にしてた奴だぞ、お化けが怖いとかあり得ない」
「大体迷子になる上に、幽霊が怖いなんて情けなさすぎる」
「だな。もしそうならお子さますぎる。いくら何でもフィルを侮りすぎだぞ、ミルト」
(あり得……情けなさすぎ……お子、さま……)
何とか取り繕ったフィルだったが、彼らの返事に打ちひしがれる。
珍しく隠し事が成功したと喜ぶべきなのかもしれないけど、とフィルは見えもしない空を見上げた。
なんせ、絶対にばれないようにしよう。それだけは心に誓って、心を落ち着かせるべく深呼吸する。
(大丈夫、幽霊なんてこの世にはいない。ここの違和感も最初にあんな話を聞いたせいでそんな風に感じてしまっているだけだ)
お化け嫌いが既にばれていると夢にも思わないフィルは、緑の屋敷についてもそう楽観を試みる。屋敷の内外に相変わらず漂っている妙な空気を「気のせい!」と自分に言い聞かせながら。




