【第4章】4-1.邂逅
休みの今日、フィルは騎士団入団前に知り合った花屋のリンと、彼女曰くの“デート”をした。
夕方になって彼女を家へと送り届けた後、宿舎に向かう。途中、彼女の幼馴染のジェットに見られてすさまじい顔で睨まれた時は苦笑するしかなかったけれど、美味しいお茶の店も教えてもらって楽しかった、と総じて上機嫌に通りを歩いていたその時。
「どっか行け、おまえみたいな薄汚ねえガキ、存在自体目障りなんだよっ」
嫌な怒鳴り声が響いてきて、フィルは機嫌を損ねた。
口調もだが、何より言葉が癇に障った。フィルは眉をひそめて声の方を見遣る。そして、対象にされている子供の怯えた表情と、その中に光った緑色に意識を捕らわれた。
「っ、子供相手に何をしているっ」
男がその子を殴ろうとしていることに気付いて、急いで駆け寄ると、フィルは男の腕をひねり上げた。頭半分以上低い相手を見下ろす視線がきつくなったのも、声が低くなったのも当然だ。何があったにせよ、自分より明らかに弱い者に手を上げようという性根が気に入らない。
「き、騎士……」
男の意識が自分に向いたのを確認すると、フィルは腕を解放し、男の身体をトンと突き放した。子供の視界から男を消すように立つ。
睨まれて居心地が悪くなったのか、その男は媚びるような笑いを浮かべた。小声のつもりだったのだろうが、その前に「見習いのくせに」と呟いたのは、生憎とフィルの耳にきっちり届いていたが。
「いや、そんな汚らしいガキがうろついていると、この辺の品が疑われちまうんですよ。そうなったらこっちも商売がかかってますんで」
「つまり、居ただけ、だと……? 何かを盗んだわけでも、何かを壊したわけでもない……」
怒気が露骨に声に出たせいだろう、男の顔色が変わった。
「そ、そのうちするに決まってますっ」
「そうか」
泡を吹いて言い募る男に、フィルは微笑を口元に浮かべた。男が安堵の息を吐く。
「では、私がお前を殴っても問題ないな。何もしていない子供を殴ろうとするお前だ、いずれ暴力沙汰でも起こすに決まっている」
そう口にするなり、拳を振り上げた。
ヒッと息を飲んだ男の右頬のすぐ脇、壁へと降ろした拳で、フィルは今度は男の襟首を掴みあげる。
「次はないと思え」
真っ青になって唇をカタカタ言わせ出した男の目を威圧を露わに睨み、低い声で脅した。
首を解放すれば、男は地面にへたり込んだ。彼に白い目を向けた後、フィルは子供へと視線を移す。
「……」
一本向こうの通りまで逃げたその子は、建物の影に隠れてこちらを窺っていた。フィルと目が合ってビクリと身体を震わすと、慌てて踵を返し走り出す。
「ちょっと、」
その跡を追ってしまった理由はわからない。気付いたら身体が動き出していた。
するすると細い路地を駆けていくその子の髪はばさばさ。洗ったこともなければ櫛を通したこともない、そんな感じだった。手足は華奢で……七、八歳? よくわからないが女の子な気がする。
「ちょっと待って、怒ったりしないから」
そうして二十分くらい走っただろうか? 運河近くの人気のない路地でフィルがそう叫ぶと、その子はやっと立ち止まった。
これだけ鍛えているフィルでさえ息が上がっているのに、目の前のその子は息の乱れも無いし、汗一つかいていない。じぃっとこちらを見つめてくる緑の瞳にも感情らしきものは見当たらなくて、思わず戸惑った。
(怯えているわけでもなさそうだけど……)
垢にまみれたその顔は、よくよく見ればかなり整っているように見える。何よりその瞳に妙な既視感を覚えた。
「え、ええと、私はフィルといって騎士、まだ見習いだけど……」
名乗って何をしようというのか、自分でもわからなかったけれど、気付いたら自己紹介をしていた。
「……」
子供は無表情なまま沈黙している。そこに猜疑心も敵意もなくて、つい首を傾げる。
「……」
そのままじぃっと見つめあうことしばし。その子はおもむろにフィルへと手を差し出した。
「へ?」
その子の視線はフィルが脇に抱えている紙袋に注がれている。
「……欲しいの?」
アレックスへのお土産にしようと、リンが連れて行ってくれた店で買ったお茶と焼き菓子だ。
「じゃあ、」
と言いながら、包みを彼女の小さな手に乗せようと一歩近づけば、その子はやはり無表情なまま一歩後退った。
(え、えと、ど、どうすれば……)
戸惑いのまま、フィルはじぃっと彼女と見つめあう。ふと彼女の目の色が自分とよく似ていることに気付いて、なんだか不思議な気分になった。
「おお」
閃いてフィルはその紙袋を地に下ろし、十歩ほど後退してみる。
「どうぞ」
そんなフィルに、その子は一瞬不思議そうな顔をしたように見えた。瞬きの後にはやはり無表情になっていたけれど。
その子はじぃっとフィルを見たまま、すすっと紙袋に寄って、それを拾い上げる。
「……あ」
そして、今度こそはっきり表情を見せた。愛しそうに、幸福そうにそれを胸に抱いてぎゅっと抱きしめると、彼女はすぐに踵を返して走り出す。
呆然と見送るフィルを、向こうの角に消えようとするその子が振り返った。もう辺りは薄暗くなり始めているのに、その緑の瞳が自分をとらえたことだけははっきりとわかった。
「…………あぁまただ」
自分がまた迷子になったとフィルが気付いたのは、その数十秒後のことだった。
頼みの綱の方位磁石を取り出してみたものの、そもそもここがどこかも知らなければ、騎士団がどっちの方角なのかもわからない。
騎士が街の人に道を訊ねるのもどうなんだろうと思ってしまって、内心泣きそうになりながら王都をさ迷い歩き、心配して探しに来てくれたらしいアレックスにデラウェール図書館近くで拾ってもらった時には、周囲の飲み屋ですら既に閉まっていた。
「お願いします、愛想をつかさないでください……」
「ない」
あまりの情けなさに、半泣きでそう頼んでしまったのだが、そんなフィルにアレックスはやはり柔らかく笑ってくれて、今回もなんとか首は繋がった。
が、気の長い彼にだってきっと限界はある――いい加減なんとかしなくては……。




