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そして君は前を向く  作者: ユキノト
過去編【終着】
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【終着】

(もう十六になるのだな、あの子は)

 アル・ド・ザルアナックは弓矢を携えて魔物が住まう森へと駆けて行く孫娘の後ろ姿を、ベッドに身を置いたまま自室の窓から見送った。


 昔の自分と同じ金の髪は娘らしく柔らかく艶を放ち、同じ色の瞳を宿す目は猫のような形と動きで、亡き妻エレーニナを思わせる。

 顔貌は彼女の母であるシンディの面影を受け継ぎ、孤高を思わせる澄んだ空気は父であるステファンに似ている。

 ああ、そういえば、とアルは笑った。

 今日やってくる自分の古い知己に「ご馳走を出す」と屈託なく笑って狩りに出かけて行った顔は、亡き兄の笑い方にそっくりだ。

 好みの山鳩とキノコのシチュー、その上フィルがそれを用意したと知った時のアドリオットの目尻の下がった顔が目に浮かぶようだ。


 青みを帯びた午前の光が、蒼く黒いザルアの森に漂う霧を徐々に昇華させていく。世界は金に色づいている。


「……」

 胃の辺りに痛みを感じて、アルは目を眇めた。口までせり上がってきた吐瀉物を無理に飲み込むと、鉄の味がした。

 もうすぐアドリオットがやって来る。おそらく今回が彼にこの世で会う最後だ。豪胆に見えて実は不安がりなところのある奴だから、吐血した形跡などは絶対に見せてやらない。


 ノックの音が聞こえて、元執事、今はここの管理人となったオットーの声がした。

「旦那さま、カザック国王陛下がお見えです」

 「おい、私は退位して久しいぞ」と笑う声がして、オットーが「失礼しました。私も世俗を離れて久しいので」と笑い返す声がする。そして、扉が開かれた。


「アル、久しぶりだな」

 線の細い、上品そうな顔立ちは相変わらず。椅子に腰掛ける様はやはり優雅で、彼が上流の生まれであることを示していた。だが、アルの顔を見て顔を曇らせたのは気のせいではない。

「悪いな、出迎えてやれなくて。先王陛下」

 にっと笑ってその彼に応じてやると、その瞬間にまた胃が悲鳴を上げた。それを再び意志の力で抑え込み、痛みに気付かないふりをする。


「……フィリシア嬢は? てっきり出迎えてくれるものだと期待していたのに」

「お前にご馳走を出すのだと、山鳩とキノコを採りに行ったよ」

 だらしなく緩んだアドリオットの顔に思わず吹き出す。予想通りだ。

「後で手合わせでもするか」

「では、フィルに手加減するように言っておかないと」

 そう言って笑うと、アドリオットは目を見開き、「そんなに強くなったのか」と呟いた後、「私も歳を取るはずだ……」と複雑そうに唸った。


 アドリオットがふと真顔になった。その瞬間、建国王の名に相応しく、周囲の空気が一変する。

 戦場でどれだけアルや兄のマット、それにヴァルアスとふざけあっていても、彼のこの空気が損なわれることは決してなかった。高潔な精神とそれを支える強い意志の力。歳を取ってそれに重厚さが加わった気がする。

 多くの血を流れることを承知で、アルは彼に賭け、その期待通り彼はこの国を変えた。その瞬間に立ち会えたことが無性に誇らしい。


「具合は良くないのだな、アル」

 アドリオットの問いに黙って頷いた。もう長くない、そう身体が告げている。

 アドリオットの顔が悲しげに歪んだ。

「皆……マットもヴァルアスもエレンもお前も……皆、私を置いていくのだな」

 それは醜悪な身分制を強いて国民を疲弊させていた旧王権と戦った懐かしい仲間たちの名だった。

 マットは旧王権との終盤の戦で、今は既に無くなった公爵家の裏切りにあって死亡した。ヴァルアスはアドリオットの戴冠と、その後の新体制の概要を整えた後、旧王権に組した貴族の放った暗殺者によってアドリオットを庇って殺された。戦を共に生き延びたエレーニナでさえ、数年前に既に旅立っている。

 アルとアドリオット――二人だけが齢七十を越えて今まで生き続け、こうして孫の成長を見ることまでできている。


「ぼやくな、それがリーダーたるお前の役目だろう?」

 アルは敢えてにっと笑ってみせた。

 五十七年前、旧王権の転覆を謀り始めていたアルと兄は、西国への留学を終えて国へ戻ってきたアドリオットと偶然に出会った。恵まれた出身なのに、民の現状を嘆き、国の行く先を憂いる、おかしな貴族。農奴階級出身の私達と相容れる訳はない、彼の行動は生まれゆえの傲慢と無知のなせる業だと最初は激しく憎んでいたのに、いつのまにか魅せられて、いつのまにか一緒にいた。そこに同じく貴族出身のヴァルアスが加わり、次いで女性のエレンが当時権勢を誇っていた実家に背いて合流する。

 最下層の出身で軍人肌のアルと兄、旧政権下の公爵の妾子で、したたかで奇抜なことばかり考え付いた策士のエレーニナ。それから旧王権下の伯爵家出身で文官肌のヴァルアスと、生まれついて王者の風格を備えた軍師肌のアドリオット。平民出身者と貴族出身者――その生まれに関わらず仲間は次第に増えていって、いざこざをいくつも乗り越えながら、最後には全国民を巻き込み、王権の交代は実現した。その間、たったの四年。血まみれの、だが、それゆえ色褪せない日々。


「そう言って、お前は全部私に押し付けたんだったな」

 アルはその後、公爵位を、と言うアドリオットの願いを無視して、政治の場から手を引き、騎士団と国境警備隊を始めとする軍体制を整え、それを率いた。そして、十五年前にはアドリオットの苦情をまたもや無視して、それすらも引退した。彼はそれらをまだ根に持っているらしい。

「おかげさまで楽しい人生を送らせてもらったよ」

 結婚どころか、恋すらしなかったマットと二人の乳飲み子を遺したまま逝ったヴァルアス。その他にも思いを残したまま戦場に散っていった戦友たちと、敵として戦った者たち。

 エレーニナに一生に一度の恋をし、その彼女と共に生き残って彼女を射止め、子供に恵まれ、さらにその子まで見届けた。その幸福を思えば、今こうして体と精神を苛み続ける痛みを甘受するくらい、当然というものなのだろう。


「……ステファンとは相変わらずか」

 その言葉にただ苦笑だけを返す。

 美しい、子爵の娘シンディ。あの奇麗な優しい子が生きていれば、息子ステファンとアルの関係もあるいは全く違っていたのかもしれない。何よりステファンとフィリシアの関係も。

 ステファンが全力で愛したあの娘もまた、フィリシアと引き代えに逝ってしまった。そして、歯車は狂い出す。ステファンはフィルを憎み、疎んだ。


「……アドリオット、私は間違ったのかもしれない」

 目を閉じて嘆息する。

 妻の死と娘の生に壊れていくステファン、母の不在と父の様子に怯えるラーナック、理性はないだろうに不安がって泣くフィリシア。

 良かれと思って引き離したのだ。だが、それはステファンから現実と向き合う機会を奪っただけではなかったのか。フィルから父親と向き合う機会を奪っただけではなかったのか。現にあの子は何も知らないはずなのに、ステファンを全身で警戒する。

「アル……」

 アルが振るう剣に目を輝かせたフィリシアに、望まれるまま軽い気持ちで剣を教えた。最初は身を守る程度と思っていたのに、その才能が明らかになるにつれ、のめりこむように成長を喜んだ。

(あの子は女性が剣を取ることを、女性が表に出ることを良しとしない今のこの世の中で、どう生きていくのだろう。私が死んだ後、誰がそんなあの子を見守るのだろう……)

「すまない、終わりが見えると、やり残したことが色々頭に浮かんできてな」

 贅沢なものだ、他の者には終着を感じる時間すらなかったというのに。

「……では、私が長生きをしてお前の息子と孫たちを見届けてやるとしよう。一足先に逝ってマットたちと酒盛りでもして待っているといい」

 アドリオットは「どうせそれもリーダーの務めだろう?」と言って、屈託なく笑った。

「……」

 その言葉に少し救われる。


「ヴァルアスと言えば、ヒルディスの二人目の息子のアレクサンダー。フェルドリックに仕官するくらいしか道はないと思っていたんだが、騎士団で結構な活躍をしているようだ。あの華奢で女の子みたいだった子だぞ」

 アドリオットは「あの、馬にすらまともに乗れなかった運動神経ゼロのヴァルアスの孫が、だぞ」と続けて、小さく笑い声を立てた。

「お前がポトマックに彼を紹介したと聞いた時は血迷ったかと思ったが、やっぱりお前の見る目は確かだったんだなあ」

「……そうか」

 今なおフィリシアが慕う華奢な少年の、青く澄んだ、意志の強い瞳が脳裏に蘇って、知らずアルは微笑んだ。

(ああ、あの子とフィリシアはどんな未来を辿るのだろう? その未来の中に自分はもういない。だが……)


 幸福な気分が体を満たし始める。


「ああ、戻ってきたようだ」

 アドリオットが「予想通りに美人に成長したな」と笑み崩れた。

 視線を外にやれば、獲物を手にしたフィルが森の中から軽やかに走り出てくるのが見える。

 胃の痛みがいつの間にか消えていく。


 死に際してなお私は愛する者たちの幸福を願い続ける。

 死に行く父と母が、私と兄に「生きろ」と必死に告げたように。死に行くエレーニナが、優しく微笑んで逝ったように。

 死に際してなお誰かを想うことが出来る、それのなんと幸福なことか。


 そっと目を閉じれば、フィルが階段を駆け上がってくる足音がする。

 もうすぐここに、愛しい、アルの幸福と希望のかけらが飛び込んでくる。そして、生涯の友、アドリオットを破顔させるのだろう。そうして、アルがこの世で過ごす最後の時間に温かい喜びを添えてくれるのだ。


 ああ、エレーニナ、わかるかい、もうすぐ焦がれてやまない君に会いに行く。

 あと一月だ。それまでやはり愛しいあの子たちとの別れを惜しませておくれ。

 あの子のこの先の幸せを祈らせておくれ――。



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