3-7.想定外
アレックスがオッズと飲んで帰ってくると、フィルは机に突っ伏していた。
「……『騎馬の効率性と問題点』か」
机の上部に置かれた灯火に照らされ、フィルの枕と化しているその本のタイトルは、アレックスにとっては懐かしいものだ。
カザック王国騎士団の任務は主に二つある。
一つに王都の治安維持。これが日常の大きな仕事となっていて、先日、副団長曰くの『騎士として世間に関わるための最低限の教養』を問う試験に受かったフィルたち新人も、その任務に携わり始めた。
もう一つは地方軍、つまり国境警備隊や各地方の警護隊などの統括だ。普段は人事の交流程度だが、戦争など有事の際には騎士が該当する地方に派遣され、そこの軍を率いて、戦略の遂行に当たることになる。
それゆえ各騎士は将校としての素養を要求され、週の半分以上を学業に費やすことになるのだが、これがかなり厳しい。見習い終了のための試験に受かったと浮かれていた新人達だったが、次いで始まった、用兵学を始めとする将校育成課程に、再び顔を引き攣らせている。
しかも今度は与えられた仮想上の戦場に合わせて布陣し、その中で部隊に見立てた人員を動かす実技試験もあり、その試験は講師だけではなく、すべての幹部の眼前、場合によっては国王や王太子の前でなされる。
『戦場で諸君らが預かるのは実際の人の命だ――いいか、己の命だけでは済まされない。失敗は許されないと思え』
ポトマック副騎士団長の口癖は、騎士たちが向き合い続けなくてはならない厳しい現実だ。
それゆえそこで下手なことをすれば叱責はもちろん、恐ろしい量の課題と補習が課されるとあって、新人たちの顔色が日に日に悪くなって行くのも、毎年のことではあるのだが……。
この本は用兵学の初歩の教科書で、ここ一週間毎日フィルの机に広がっている。
昨日、この手の本は読んでも頭に入ってこない、とフィルがぼやいていたことをアレックスは思い出した。彼女の祖父も、『頭を使うのはアドリオットとヴァルの仕事だ』と面倒くさがっていたと言うし、あまり好きではないのかもしれない。
「だが、こういった知識の有無がいずれ生死を分けることになる」
そう諭したアレックスに、フィルは沈んだ顔を見せた。
「しかも賭けるものが自分一人の命ではなくなる……ここに来た以上はもちろんちゃんとやりますけど、プレッシャーがすごい……」
そして、ため息をつきながら、眉尻を下げた。
(気の乗らないものを訓練後の疲れた身体で読み続けるのは、やはり難しいんだろうな……)
苦笑しつつ、もう随分昔に読んだその本から目を離すと、アレックスはフィルの寝顔を見つめた。
金色の髪が額にかかり、桜色に色づいた唇がわずかに開いている。時々口がふにゃりと動くのがまるっきり子供の時のまま、八年前と全く変わっていない。
「……」
昔のように額にかかった柔らかな金の髪をかき上げ、次いで指を頬に置くと、すべすべした肌が柔らかい弾力を返してきた。
「…………ふふ」
くすぐったかったのか、フィルはかすかな笑い声を立てて、顔をいやいやするように左右に動かした。
「……」
つられて口元が緩んだのを自覚しながら、その指を滑らせ、頭を撫でる。
再会したフィルはフィルのままだった。
珍しいものを見つけると、わくわくと目を輝かせるのも、駆け引きなど頭の片隅にもなく、いつも正直で率直なのも子供の頃のまま。そこに嫌味や悪意がないのも変わらない。
本人はいたって真面目なのに、とぼけているとしか思えない言動で、悪意ある相手から邪気を抜いてしまうのも、まさにフィルだった。
配属された第一小隊の、癖だらけと評判の面子にあっさり馴染むことのできる人好きのする性格も変わっていない。彼らにいじられて、からかわれて、困っている様も悪いとは思うが笑ってしまう。
「まあ、フィルに貴族らしくないと言われるとは、さすがに思っていなかったが……」
一人そう呟いてアレックスはクスリと笑った。
フィルの柔らかな髪を一房指に絡めると、それは滑らかな感触を残して、逃げるように指から零れ落ちた。
「……かわいい、よな」
その様子を見つめていると、再会から今日まで心中で幾度となく繰り返している言葉が口の端から漏れた。他の人間の基準は知らない。けれど、アレックスにとってそれは昔から変わらない。
アレックスは自分が遠巻きにされていることを知っているし、フィルも気づいているようだ。なのに、彼女はそんな周囲に一切お構い無しにアレックスに話しかけ、笑いかけてくる。
(俺と一緒に敬遠されるんじゃないかなんて心配は、全く必要なかったな……)
昔と一緒だ――よく笑って、よく困って、よく不思議がって、よく喜んで、正直で、凛としているのに少し抜けていて、優しくて、人とは違うけれど温かい。
(だけど奇麗になった)
微かに色づいた頬も、つややかな桜色の唇も、しなやかなその身体も、髪から時々立ち上る香りも――。
ずっと会いたいと願っていた。だが、自分に会う資格ができるまでは、と思い、二、三年の後に相応の階級を得てから、フィルの実家であるザルアナック伯爵家を介してプロポーズするつもりだった。そして約束どおり彼女を迎えに行こう、と。
だが、半年前フィルの祖父であるザルアナック老伯爵が亡くなり、その国葬で気付けば必死でフィルの姿を探していた。フィルに会える、そう考えただけで全身が震えた。
結局彼女はそこにいなくて、それにひどく落胆した自分自身に、『あと数年も待てるのか』と密かな疑問を抱き始める。もう自分は結構な大人になってきていて、それに伴ってきっと彼女も、と。
一度会いに行こうか、そう考えて休みをとる算段を考え始めていた時、フィルは再び目の前に現れた。
こうして毎日彼女を目にしていて思う。よく八年も我慢できたものだ、と。
「フィル」
体の奥底から湧き出る衝動に任せて彼女を呼べば、その音に胸が締め付けられた。特別な人のその名は、響きだけで狂おしい感情を全身に巡らせる。
「……フィル、起きろ、風邪を引く」
風邪をひいたことなんてないと言っていた彼女のことだが、万が一と言うこともある。なにより、これ以上寝顔を見ていれば、取り返しのつかない気分になりかねない。
人の気など全く知らずに、フィルは気持ちよくすいよすいよと寝ているが、こっちは毎夜毎夜理性が試されている。
(その上これだもんな……)
息を吐き出しながら、その肩を掴んで揺さぶると、彼女はとろんとした顔のまま、とりあえず頭を机からあげた。前髪におかしな寝癖がついてしまっている。
「んー」
そして、彼女は寝ぼけ眼でアレックスを見、「あ、アレックス、おかえりなさい」とぽやっとした調子の声で微笑むと、目蓋を重たそうに閉じて再び机に突っ伏した。
「……」
相変わらず警戒の欠片も感じられない、それが複雑。
さらに複雑な気分にさせられるのは、『彼女を作る手伝いを』と言われて、さすがに限界が来た先日、八つ当たり気味に『彼女が出来れば、休みなどはフィルと一緒に過ごすことはなくなるだろうな』と言ってしまった時の彼女の反応があるからだ。
一瞬で黙り、見る見るうちに落ち込んでいって、最後には半泣きでしょぼくれていたフィルの顔を思い返すと、怒ることもできなくなってしまうあたり、本当に情けない。
(どう考えたって振りまわされている)
そう実感すると、手にした箱を素直に渡してやるのが少し癪な気分になってきた。
そこでアレックスは無言のままその箱をフィルの頭の後ろにおいてみる。
「っ、お菓子っ」
瞬間、音が立つのではないかという勢いで、緑の双瞳が開かれた。
「しかもチョコレートの匂いっ」
フィルはばっと身を起こすと、その箱の中身を急いで確認する。
「わあ、ジルさんとこの新作っ、アレックスありがとうございます、お茶にしましょうっ」
幸せいっぱいと書いてある表情を満面に浮かべて、フィルは立ち上がっていそいそと台所へと向かった。
「……そう、だよな、フィルだもんな……」
予想通りと言えば予想通りの反応ではあるのだが、その後ろ姿を見送って、少しだけ思ってしまう。
「……」
(餌付け、とはこういうことを言うのだろうか……?)
「お茶、アレックスはどっちの葉がいいですか?」
やはり欠片も意識していないとはっきりわかる、上機嫌な顔を覗かせたフィルと目が合って「左」と答えたものの、やはり少しだけ思ってしまう。
「……」
(ひょっとしなくても成功させすぎている、のだろうか……?)
自分の目の前で歌すら歌いながらご機嫌に茶を注いでいるのは、八年以上焦がれ続けた彼女。
幸せかと聞かれれば確かにそう――だが、どこかで何かが違っている、そんな気がしなくもない十六夜の夜。




