20-14.執念
闘技上の控え室。
(心を水鏡のように平らに。体に気力を、髪の先々まで、指の端々にまで行き渡らせる)
決勝戦に備え、フィルは祖父の教えてくれたまじないの言葉を頼りに、集中を高める。
「……」
一際大きい歓声が扉越しに伝わってきた。閉じていた目を開ける。
(不利だな)
そして、そう冷静に判断した。
アレックスの勝利はもとより欠片も疑っていない。アレックスとロンデールの技量の問題だけではなく、彼が勝たないはずがない――フィルはなぜかそう確信していた。
聞こえてくる歓声は、増すばかりでしばらく止む気配がない。
「……予想していたことではあるんだけど」
人々の歓呼を聞きながら、おもむろにため息をついた。
試合開始から時間はさほど経っていない。一、二回戦でもアレックスはほとんど消耗していないはずだ。
一方の自分は、といえば……――。
「……」
太ももの上におろした右腕の筋肉が、計ったように痙攣したのを見て、フィルは苦笑した。
準決勝のウェズ戦で、筋力は既に限界を超えた。体力もすぐに危うくなるだろう。この状態で、完全な状態でも勝てるかどうかわからなくなってきている相手と戦う。
フィルは、先ほど見たアレックスとボルトの一戦を頭の中で再現しながら、きつく眉根を寄せた。
いつの間にあんなふうに動けるようになったのだろう? フィルと組んでいる時は、わずかながら脇の甘さがあった。だが、アレックスは、ボルトが生じた隙に付け入ろうとした瞬間を狙って、返り討ちにしてみせた。
同じ場面にフィルが置かれていても、おそらくボルトと同じ攻撃をしていただろう。あの隙をもし彼がわざと作っていたとしたら?
(慎重に手を選ばなくてはやられる……)
フィルは自らに残る力を確かめようと、右手を握って開いて、を繰り返す。
そう、筋力や体力だけじゃない。アレックスは相手を綿密に観察し、弱点を見極めて、それに応じた作戦を立てることに長けている。得手不得手や性格を弁えて、相手の動きを誘導することもお手の物だ。そして、彼はフィルのことを知り尽くしている。
対するフィルが彼に対して持つ圧倒的な強みは、敏捷性くらいだ。だが、それも本来の状態であれば、の話だ。
試合が長引いたり、彼に主導権を握られて打ち合いや押し合いなんかに持ち込まれたりすれば、フィルに勝ち目はない。
(となると、先制していくしかない)
手数を増やして、アレックスのペースにならないようにする。攻撃は受けずにひたすらかわす。動きで翻弄して態勢を崩し、そこをつく。
(でも、それもいつまでもつか……)
弱気なわけではなく、現実だった。
(それでも、絶対に引けない、絶対に)
フィルは震え続ける右腕を、左手でぎゅっと握って押さえつける。
我がままだとわかっていても、それでもアレックスが欲しい。
だから、戦って、勝って、運命を引き寄せてみせる――
御前試合決勝戦は、騎士団第一小隊員フィル・ディランと同第二十小隊長アレクサンダー・エル・フォルデリークの組み合わせとなった。
会場はそれまでのどの試合とも違う雰囲気に包まれていた。
年若い少女たちが立ち上がって懸命に声を張り上げている。
二人が恋仲であることを応援するもしくは茶化す目的以外でこの組み合わせに賭けていた者がほとんどいなかったせいだろう、賭けを失った者たちによる怨嗟の声が少なくない。
また、二人の出自とその関係を揶揄する者もやはり多く、それらの者と、二人を熱狂的に応援する者とが、唾を飛ばして言い争う光景があちこちで見られた。
「アレックス、」
そんな闘技場中央の所定の位置で、フィルはアレックスと距離を隔てて向き合い、おもむろに彼の名を呼んだ。
自らの声がかすれていることに気づいて、フィルは緊張で口内に溜まっていた唾液を飲み込んだ。唇を舌で湿らせる。
周囲は、鼓膜をつんざくような喚声にあふれているはずだ。なのに、フィルと彼を包んでいる空間は、奇妙なほど静かに思えた。
「お願いがあります」
「……」
彼の黒髪が、吹いてきた風に揺れる。その間からのぞく青い瞳は、いつもとなんら変わらず落ち着いて見えた。
十年以上前に魅せられたその色をじっと見つめながら、フィルは「私が勝ったら、」と言葉を続けた。
剣を握る手には、既に汗が滲んでいる。
「西大陸に行って戻ってくるまで一年……私を待っていてくれませんか?」
お願いだから、誰のものにもならないでいて欲しい――。
フィルの願いを耳にし、アレックスは目をみはった。
それから口を開く。そこから声が出てくるまでの間をひどく長く感じた。
「では、俺が勝った場合は、」
低い、その声は雑音の中でもはっきりとフィルの耳に届いた。
「その願いを、叶える必要はないということだ」
彼は何かを吹っ切ったかのような笑いを、その整った顔に浮かべた。
「双方、用意はよろしいか?」
抜剣を促す審判に応じて、アレックスは愛用の長剣を引き抜いた。
先ほど彼が確かに浮かべていた微笑は既に消えている。剣の切っ先の向こうに見える顔からは今、なんの感情も伝わってこない。
ヒツヨウ、ナイ――彼の一連の行動を見ながら、フィルは遅れてその言葉の意味を理解した。
彼はもうフィルを必要としていないのではないかと疑っていた。だが、それが事実だと当の彼に突き付けられて、足元がぐらつきそうになる。
唇を噛み締めて、動揺を必死に抑え込む。
「必ず、勝ちます」
フィルは大きく息を吸い込み、剣を構えるアレックスの姿を正面から見据えた。
(それでも、無理やりでも、私はアレックスを手に入れたい)
「はじめ」
開始の声を合図に、フィルは一気にアレックスへと踏み込んだ。




